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悪意には音がない。だから自分に向けられたものならともかく、他人に向けられた悪意など気付くのは至難の業だ。
竜胆麗華嬢うっかり吸い殻残しちゃった事件(自分ではそう名付けた)から二週間が経とうとしていた。稟に対して悪意を向ける者は多くいたが今だに明確な衝突にはならずにいた。まるで火薬庫にいるようで居心地が悪いのだが、いやそもそも前も居心地良いわけでは無かったな、とポジティブに考えることにした。
「おはよー」
「……おはようございます」
朝の登校時間、教室に生徒が登校してくる。自分はというと、両親とあまり顔を合わせたくないので早くに家を出る。なので朝はかなり早くから教室にいるのだ。
さてこのクラスを揺るがす震源であるところの稟だがまだ登校していなかった。彼女は自分とは違い登校時間はギリギリなことが多い、それどころかサボることもままある。
だが、それにしても遅い。これはサボっているのが濃厚かな、と思っていると。
ガラガラと横開きの戸を開けながら稟が教室に入ってきた。クラス中の視線が彼女に集まる。堂々とにらむ者、チラリと見る者、だが気になったのは竜胆麗華女王様だ。彼女は、笑っていた。声をあげ笑うわけでは無いが口が歪んでその眼は楽しそうだ。嫌な予感がした。
稟はそんな生徒たちを気にした様子もなくパタパタと席に座る。……。……何か違和感がある。……なんだろう?
「おはようございます、それでは席について、HRを始めます!」
女性教諭が教室に入ってくると、稟に向けられた視線は彼女に向けられた。だが竜胆だけは稟を見てにやにやしているだけだった。
「そういえば、稟って毎日お弁当だね」
いつもの昼休み、いつもの屋上前。こんなところにいたら例のタバコを疑われてしまうかもしれないのだが、稟はそんなことを気にせずここにいた。まあ、それに付き添う自分も自分だが。
「ええ」
「自分で作ってるの?」
「そうよ」
「そうなんだ、自分は料理できないから。でも稟なら上手そう」
教わる相手などいないのでできないのだ。母親ともまともに会話できず女友達もいない自分が誰に聞けるのだろうか。いや、もしかしたら稟なら教えてくれるかもしれない。……でも、それは今の関係を崩すかも知れない。彼女がこれ以上彼女自身の間合いに入り込まれたくないことだってあり得るのだ。
「別に、私が食べるだけだもの。そこまで味のクオリティは気にしたことないわ」
「いつか……食べたいな」
「機会があったらね」
稟は弁当をしまうと立って階段を降りていく。
「もう行くの?」
「ええ、今日は図書室に行くから」
「……そう」
彼女がもう行くなら自分も教室に戻ろうか、と視線を下げたところであるものが目に入る。それは彼女の足先、通常上履きを履いているはずのソレは緑のスリッパを履いていた。……なぜ? 一瞬の疑問の後すぐに悪い予想をする。そうだそもそも今日、稟が教室に入ってきたときに感じた違和感の正体はこれだ。なぜ朝から彼女は……。
「――稟!」
自分はその場を立ち、階段を降りる。一つ下の階まで降りたが稟の姿は無かった。自分が考えている間にいってしまったのだ。
……図書館まで行くべきだろうか?
――いや、やめておこう。
……彼女と自分の関係は?
――ただ一緒に昼食を食べてるだけだ。
……下手に手を出せば?
――自分も社会に押しつぶされる。
そうだ、そもそも、彼女がいじめられていると決まったわけでは無いのだ。
だが、変化は明白だった。今、いやもしかしたら自分が気付かなかっただけで前からあったのかもしれない。誰かが言っていた。悪意には音がない。だから自分に向けられたものならともかく、他人に向けられた悪意など気付くのは至難の業だ。竜胆、いやこの社会から稟に向けられた悪意に、自分は気づけなかったのだ。
そしてそれはかなりステップが進んでいるようだった。うんうん頭をひねり授業開始時間ぎりぎりに戻ってきた自分が見たのは花瓶だった。菊の花が刺さった花瓶。もちろんこの教室で誰かが無くなったなんて話を聞かないし、その花瓶が置いてあるのは稟の机の上だった。とても伝統的、伝統を守る少年少女が多いクラスのようだ。
自分より少し早く教室に入っていた稟は机の上に置かれた花瓶をそのままロッカースペースの上に置いてしまう。彼女の顔はいつもと同じ無表情で何を考えているか……わからなかった。
自分も席に着く。竜胆の方を見るとまたにやにやと笑っていた。感情の出やすい竜胆、感情を見せない稟。結局この二人の対立とも言えなくもない。まあ、稟がどう思っているかは本当にわからないのだが。
稟を見る、ちょうど席に座るところだった。椅子を引く、その時何か小さなものが落ちるのが見えた。稟は気づいていないようだが自分は目を凝らす。……それは画びょうだった。
「り――」
声をかけようとする。だが遅かった。彼女は座ると同時に体をビクリと振るわせると立ち上がり、椅子の上に置かれた画びょうを回収しだした。それでも、彼女は無表情だった。
机の上に置かれた花瓶は囮だった、囮でありながら攻撃であった。本命は画びょうだった。悪質だ。
「長山」
その日の帰りがけ、廊下で背後から声がかかった。
相手は長山麗華だった。彼女一人だった。夕暮れをバックにこちらに近寄ってくる彼女に身構える。
「警戒するなよ。べつに何かしようってんじゃないんだ、本山のようにな」
稟の名前を出す。やはりと言うか何の驚きもないが彼女がこの攻撃の主犯なのだろう。
「単刀直入に言おう、私たちの邪魔をするな」
私たち、この言葉は竜胆が使えば、自分と稟を除いたクラスの女子全員のことだ。なんの邪魔か? 言うまでもない。
「別に、邪魔なんてしてないけど」
そういうとなぜか竜胆は何か面白そうな目でこちらを見る。
「今日、画びょうのこと本山に言おうとしたろ」
「……そうね」
「いいか、お前は本山と違って馴染む気はないが空気は読める」
そこで一度、言葉を切り、こちらに一歩近づく。
「だから、今回も空気を読め」
「そもそも、あんな幼稚な攻撃が稟に聞いてるとは思えないけど」
「あれは効いてるさ、私にはわかる」
なんでコイツが稟のことをわかった風に言うんだ、と思ったが自分が稟のことをわかっている自信もないので口は閉じたままでいる。
「それに、効いていようがいまいが究極的にはどちらでもいいんだ。いいかこのクラス、いや学校には序列がある。見えない序列だ」
それは自分がカーストと呼ぶものの事だろう。
「いいかその序列のなかで攻撃される人間それは最下層の中の人間ではない、その序列から外れた人間だ。最下層というのは相対的なものだ。だからだれもがそこに落ちるかもしれないし、最下層の人間がいなくなれば自分がそれになる確率も増えてくる。そういった相手には本気で攻撃をかけにくい。だがその序列から外れた者は話が別だ。序列の中には加わろうと思えば加われる。望めば序列の中に入れるんだ。でもそこから勝手に出て言った人間なら、その立場の奴なら気にすることは無い。攻撃性はぐんと増す。そしてそれをコントロールしてやるのはトップの務めだ」
竜胆麗華の話は、正直、驚いた。彼女がここまで考えながら女王様をやっているなんて、思いもよらなかった。
「そして、本山稟はこの序列に攻撃を仕掛けたんだ。たとえ彼女自身にそのつもりがなかったんだとしてもね。ならあとは交渉次第、でも彼女にその気はない、こちらを気にしない。そして気にしないからまたこちらは攻撃されるかもしれない。ならこちらも彼女を排除するまでだ……。それに事実、こういった風に発散させた方が他の女子の気も晴れるんだ」
さらに竜胆麗華はこちらに近づき、右腕を伸ばしこちらを指さし、
「そして長山玲、あんたは今、私がしゃべったことを理解しているはずだ。納得しているはずだ」
言われたくない事実を突きつけられた。
そうだ、自分は彼女の言葉に納得している。
みんな自分にとって多少の不満を我慢しながら社会に溶け込む、普通になる。でもそれを無視して、社会に溶け込まない相手には奇異の視線を向ける。社会は自分を縛るが、同時に守ってもくれるのだ。
そんな中、枠から飛び出た自分のような人間は空気を読んでせめて社会を刺激しないように生きるのだ。そうしなければ社会は自分の敵になる。
だが稟はそんなことさえ気にしなかった。気にしなかったからついに社会は敵になった。
「べつに、私の手下になれとかいうんじゃない。今までどうり空気を読んでいればいい。さもなきゃ――次はあんたの番になっちゃうよ」
「……そうだな」
自分の言葉を聞くと、女王様はこの場を去ろうとして――
「長山、下、見てみな」
最後のダメ押しを置いてから去っていった。
……下?
足元には何もなかった。もう一つの可能性として、廊下の窓から下を見てみる。外部から中を見えないようにするための植え込みの間に何か煙を上げている物がある。ここは一階なのでそのまま窓から出て確認する。
本、その燃えカスだった。全体の一割くらいは燃えておらず、煙が僅かに出ているだけで炎はほぼ消えていた。手に取ると同時に風が吹き灰が舞い上がる、思わず目を閉じた。
『金……』『三島……』
目を開けると少しだけ燃えていない部分の文字が見えた。
稟はいまどこにいるのだろう。