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ある朝、グレゴール・ザムザ氏は毒虫になっていたらしい。自分も毒虫というわけでは無いが、女性になっていた。
正確には女性だったものが男性に見られていたというらしいがよくわからない。病気のようなものが治って本来の女性に戻ったということらしい。だが自分の実感としては、ある朝目が覚めると長山玲は女になっていた、だ。個人のパーソナリティというものは環境の中で発生するものだ。男として育ってきた自分には女ですと言われても困惑しかしない。
そして困惑したのは自分だけでは無いようだ。自分の両親、どこにでもいる平凡な二人だが、子供の変貌を前に何をすればいいかわからなくなってしまったようだ。
……嘘だ。本当は違う。突然の変貌に荒れに荒れた子供は両親との溝を深め、落ち着いたときには修復不可能のものになっていた。
それが四年前のことだ。
その後すぐ引っ越しをし通っていた学校を変えた。男性、長山玲を知る人間のいないところで女性、長山玲の人生が始まった。
「それでさ~、昨日なんだけどタケがひどくてさ~」
「そんなことより、聞いてよ聞いてよ筧高の生徒会長ってすげぇ美形なんだって!」
「人が彼氏の話してるときに、そんなこと言う!」
「私たちにはいないから、あんたのノロケを聞く気はない」
騒々しい教室。そんな中やはり耳につくのは女子の声だ。彼女たちの話すことと言えばやれ彼が、この服が、アイドルが、こんな話ばかりで自分にはとてもついていけない。
そんな彼女たちを見ながら何をするわけでもなくぼーっとしているのが自分だ。
悲しいことに自分はまだ女性になれずにいた。生物的な話ではなく、精神的な話だ。女子の社会に入り彼女らとともに話すことなんてできなかった。彼女たちとの話が面白いとも思えないし、逆に疲れてしまうだけだ。
「長山さん……何かようかな?」
自分がずっと見ているので不審がられたのだろう。楽しげに談笑にふけっていた女子たちの一人、高倉さんが話しかけてくる。
「あっ……いえ、なんでもないです」
「そっ……そう」
自分は不快にさせない程度、深く関係しない程度の言葉の感覚を選びとる。そのまま視線の先を変え今度は教室の窓の外に見える青空を視界に収めることにした。
「……別に、なんでもないって」
「あの娘ってなんか変だよねぇ~」
「そうそう、なんかお高くとまってるっていうか」
先ほどより少し遠い位置で声が聞こえる。少し自分から離れたのだろうが、自分には普通に聞こえていた。いや、もしかしたら聞かせる意図があるのかもしれない。
「……そうかな」
「絶対そうだって、ちょっとばかりカワイイからって調子のってんのよね」
「私あなたたちと違うんです~、とか本当に思ってそう」
「そうそうチュウニビョウって奴?」
「まあ、でもその結果、友達ゼロのぼっちって奴だよ」
「超ウケル~」
女子の大好きなトークの中に悪口があるのを忘れていた。まあ、何を言われようと勝手だ。気にかけるだけ無駄というもの。そもそも自分から壁を作っているのは事実だ、社会の中に溶け込む気のない人間などこうなるのが必定なのだ。
当たり前のことだがでは男社会に飛び込もうとすることはできない。もう自分は男ではないのだ、性差というのは必ず出てきてしまって彼らの社会になじむことなんてできない。
――要するに、自分の所属する社会なんてどこにもないのだ。
クラスという小さな箱庭の中のあぶれものそれが長山玲だった。
「ほらっ! 席につけ!」
自分の悲哀的な状況についての思索を深めていると男性教師が入ってくる。教室がうるさいので鐘の音を聞きそびれてしまっていた。
「今日はインド思想の部分、前回の続きから始めるからな」
思考の海にはまっていた自分にはちょうどいい倫理の時間だった。インドと言えばやれウパニシャッドやら輪廻や業やらだが、自分の前世はよほどの極悪人だったんだろうということなのだろうか。まったく知りもしない前世のせいで次の人生が決まるだなんて不公平極まりない。自分としてはそんな思想は賛同しかねる。
などど、どうでもいいことを考えているうちに授業は進んでいた。成績面では不自由をしていないがノートぐらい取っておかないと復習が面倒になる。
そんなどこにでもありそうな、でも本人にとっては割と重要な、個人と社会の問題を抱えながら長山玲の日々はつづくのでした。
さてここでもう一つ、今の自分を語るうえで欠かせないものがある。このクラスのあぶれものの話だ。もちろんそれは自分であるが、それだけでは正解とはまだ言えない。もう一人いるのだ。
自分の座る席の斜め前、つまらなそうに授業を眺めている少女がいる。名前を本山稟という。それが自分と同じこのクラスのあぶれもの、箱の中に入れない二つの異物。
授業時間以外は基本的に本を読んでいる。へーげるとかうぃとげんしゅたいんとかろーるずとか難しそうなやつのことが多い。成績も学年トップ、見た目もピカイチ、本来なら高嶺の花、なのだけれども彼女は他の子たちとは交わらなかった。どうも他の娘とかから遊びの誘いなんてものが来ても断っているようだ。「本山さん、放課後にカラオケ行かない?」「ごめんなさい、今日はこの後ニーチェなの」なんて様子で全く相手にする気配はない。今いる世界の事なんて興味が無いようだった。
そんな彼女と、自分が仲良くなるのは時間の問題だったかもしれない。
ある日、暇な昼休みの時間に彼女が階段を昇っていくのが見えた。別段それだけならなにも不思議はないのだがその階段の先には屋上しかなかった。もちろん実際の学校の屋上への扉は鍵がかかっている、何事も物語のようにはうまくいかない。不思議に思い自分も昇ってみると屋上への扉の前のスペースで彼女は本を読んでいた。
「何か用?」
扉につけられた窓から照らされた本を閉じながら自分に問いかける彼女。
「いや、本山さん。屋上しまってるのにどこ行くのかなって」
「本を読みに来たのよ、ここに。ほら、教室は騒がしいでしょう。それにここは静かだから」
「ああ……そういう」
彼女の言う通り、ここからは階下の喧騒はほとんど聞こえなかった。
「長山さんは屋上に出たかったの?」
「いや……別に、そういうわけじゃ」
そこでふと……本山さんってこんな喋る人だっけと思ってしまう。失礼かもしれないが彼女はもっと冷たそうなイメージだった。
「それに、そもそも開かないでしょ」
「いや……」
なにやらがさごそスカートのポケットから取り出したのは……。
「針金?」
「そう……これと……」
「ストップ! ストップ! 犯罪の香りがする。ダメ!」
彼女が針金となにかドライバーのようなものを出した時点で止めた。関わってはいけない何かを見た気がした。
「てか……ほぼ初めて話す相手にそんなもの見せる、普通?」
「長山さんは面白そうだったから、からかっただけ」
「面白い……僕が……」
「地が出てるわよ」
……数秒遅れで、自分のことを僕と言っていたことに気付いた。いつもは「自分」とかである程度は気を付けているのだが。
「そういうところも、面白いわ」
「はぁ……そうですか……」
気まぐれのように自分が彼女の後を追ったから、気まぐれのように彼女が自分を面白いと言ったから。そんなふわふわとしたきっかけで彼女と自分は話すようになった。自分としても一匹狼が二人というのの居心地は悪くなかった。
「はい、じゃあ今日はここまで復習しておくんだぞ」
鐘の音とともに授業の終わりを告げる。日直の号令とともにクラスは一転、昼休みムードになった。自分はすぐに教室を出る。購買でパンとお茶を買うと階段を昇る。目的地は言うまでもなくこの先、屋上前の踊り場だ。着くとそこには本山稟がいた。初めてここで会った日と同じく、彼女は本を読んでいた。
「なに読んでるの、稟」
「金閣寺」
「……そう」
三島由紀夫の本というくらいしか知らない。
彼女は本を閉じると弁当を取り出す。自分も彼女の隣に座りパンの袋を空ける。決して口数の多いと言えない二人ではあるけどもこれが今の自分の日常だった。
「知らない本だ」
「読む?」
「難しそうだからいいや」
「……そう」
くだらない日常ではあるけども、もしかしたら彼女は自分にとっての癒しなのかもしれない、そう思った。