2 Scampering -疾走-
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この世界には、魔法という概念が存在する。
少なくともここ、ディザイア王国では魔法が使われている。
魔法は自らの『願い』によって発動される。もっと言えば、『願い』に勝る魔法はないと言われている。
『願い』とはいえ、生半可なものでは満たされない。故に、魔法を使えない者ももちろんいる。
そんな曖昧な基準を理解している者はいないとされ、その証拠に研究して答えが出たという記録は一つもない。
だが、その明らかではない基準を満たす方法を確信する者がいた。
「今夜、月が満ちる……」
長い間出していなかった声。
充分に水分を取れなかったためか、喉は相当に渇いている。ヒビが入っているのではないか、と錯覚してしまうほどだった。
随分と長くなってしまった髪を後ろへと流し、擦り切れてボロボロになった服の中に入れた。
ここの外へ出れば、誰もが奇異の目で見ることは間違いないと断言できるほどに、自分はみすぼらしい格好をしている。そんな自覚があった。
少女は虚ろな目を、もう何度も見た天井へ向けた。壁、天井ともになにをしようとも傷一つ付いたことはない。大理石という時点で傷を付けるのはかなり難しいことだが、それをさらに上回る魔法の力がかかっているようだった。
「魔法を使えれば……」
──こんなことにはならなかった。
──このままの状態で過ごすことにはならなかった。
ここは牢獄である。
それも、ディザイア王国の中では最大のものだった。
地下につくられ、特に重い罪を犯した者がここへ放り込まれる。
明確な裁判基準を持っていないディザイア王国では、冤罪をかけられることも少なくはなかった。
──こんな世の中を変えてやる。絶対に、僕の手で。
少女はそう強く念じた。
*
「マスター、門はこっちですよ!」
「はぁ……やっとだな。なあレイア。そのマスターってやつなんだけどな、違う呼び方とか考えてくれないか?」
「魔力の供給者に奉仕するのが使い魔としての役目なんです。だから、マスター以外にはあり得ない」
「……そうか」
薫は嘆息した。
生前、知り合いだったという感覚があるレイアだが、使い魔という括りの存在になってしまったいま、過去の状態が跡形もないように薫は感じる。もちろん、覚えてなどいないが、身体が自然と違和感を訴えてくるのだ。
「ついに門に着きましたよ、マスター! すごいですね、こんなにも高い!」
レイアは驚嘆の表情を浮かべる。『神サマ』は心を失ったとは言っていたが、躍動的な様子をみていると、そのようなことは感じられない。
「案内ありがとうな。なあレイア」
「えーと、訪問証を発行したあと、中に入ることができるっぽいです。わたしの分もないとダメみたいなんで、一緒に行きましょうっ」
「ああ、わかった。……使い魔って損しかしねえのかな」
薫は大きなため息をついた。
ここまで歩いてくる間、ずっと呼び方の訂正を申し出てきたが、無論一度も受け入れてくれなかった。
いま、そしてこれからも受け入れてくれないような気がした。なにをそうこだわるのか、薫にはわからない。
少し歩き、巨大な門の前に薫は立った。
門は純白の一枚の壁でできている。
薫が現れた、つまりこの世界のスタート地点である崖から、林道を抜けたすぐのところに門に続く壁があるのだが、そこから非常に長い距離を歩いて門まで来た。それまでの間に壁の継ぎ目は見たことがない。
また、長い壁にはずっと途切れぬ彫刻が施されていた。神話などだろうか、なにかを崇める様子の人間が彫ってあったり、どのような技術を用いたのか神々しさを描いたものまであり、薫は心を驚かせていた。
「訪問証ってやつをお願いします」
薫は門番をしていた若い男に声をかけた。
なんとかして門番を回避し、壁の中へ入ると、そこにはなんとも煌びやかな光景が広がっていた。
壁の装飾の時点でも目を見張るものがあったが、それよりも壁内の方がすさまじい。
まず目に入るのは中央にある大きな塔だった。周りにもきれいな建物はあるが、その塔だけは一線を画している。純金の鐘が最上階に覗いていて、ここのシンボルのように見受けられる。
「レイア、ここはなんつー場所か知ってるか?」
薫が訊くと、レイアはうーんと唸り、眉を寄せながら答えた。
「ディザイア王国……ですね。なんでかは知らないんですけど、思いつきました!」
「思いつきで決めていいもんじゃないだろ!? えと、案内板とかはないのかな……」
薫はあちこちに視線を巡らす。どこか新鮮な風景ばかりが目に入ってきて、とても探しているような感じがしなかった。
「あ……」
ふと、なにかに気がつき、薫は地面を見下ろす。視界に入ったのは真っ白のプラカード。入国許可証だ。
入国許可証は先ほど無料で手に入れた。この国では入国料なるものは徴収していないらしく、門番の審査を通れば誰でも簡単に入国できる。
そして、そのプラカードには『ディザイア王国入国許可証』と印字されていた。
「なんだ、書いてあるじゃねえか。レイア見ただろ?」
「あははっ、バレちゃいましたね」
快活にレイアは笑う。陽気なところがあるということ自体を薫は覚えていなかったが、やはり感覚はあるようで、にわかに愛らしさを感じる。
「バレちゃった以前に俺は教えて欲しかったよ」
ため息まじりに、薫はぽつりと漏らした。それを聞いたレイアはしゅんとして、頭を下げる。
「すみません……。以後、気をつけます」
そこまで強く言ったつもりのなかった薫だが、素直に謝罪されて微かな居心地の悪さを感じるのだった。
「と、とりあえず行くぞ!」
「はい、マスター!」
先ほどの謝罪はなんだったのか、レイアはテンションを取り戻すと、どこかの軍隊よろしく両手両足を九十度まで持ち上げながら歩き始めた。
どこへ行くなどと、そういった目標を薫たちは持ち合わせていない。ひとまずは、休むべきだろうか。魔法について、この世界について、学んでおくべきなのだろうか。
そこまで至ったところで思考を放棄した薫は、目の前に映る少女の行進を見て、小さく笑いを噛み締めた。
まだ希望がないわけではない。
きっとなにかしら情報はつかめるはずだ。
「レイアー、ちょっと待ってくれ!」
青の暖簾が下げられている建物を曲がろうとする少女を、薫は追いかけた。
曲がり様に低い影が目の前をよぎる。
「おっと……!」
間一髪のところで薫は右に跳ぶと、正体を確かめるべく後方を振り返る。
案の定なにもなかった。
「マスター、どうしましたかっ?」
レイアがひらりと服をはためかせながら舞い戻ってきた。とくに焦った表情はなく、あくまで確認にきたようだ。
「いや、なんでもない。誰かとぶつかりそうになっただけだ」
「はぁそうですか。気をつけてくださいね──って、わたしは誰ともすれ違ってないんですけど!?」
大仰な声をレイアはあげた。
「は? じゃあなんだったんだよ。でもなにか盗られたわけでもないし、攻撃の意思もなかっただろうから、気にする必要はないか。もう行こうぜ」
薫はレイアを諭し、背中に手を当てて押していこうとした。だが、レイアは頑として動こうとしない。
「どうした?」
「……黒いものを感じました。最初は気のせいかと思ったんですが、このあたりの大気に、微量ながら魔力の痕跡が含まれています。これって……?」
「気にするようなものではないだろ。魔力はありふれたものなんじゃないのか?」
そう言うと、レイアは首を横に振った。
「そうじゃないんです。なんとなくですが、違う気がするんですよ!」
「だったらなおさらだ。もしここが異質なんだとしたら、巻き込まれるわけにはいかないだろ? 正義の味方じゃあるまいし」
「ま、マスターが言うならそうしますが……」
いまいち釈然としない表情でレイアは言った。
だが、だとしたら本当にここにいるわけにはいかない。ただでさえ薫は弱いのだ。魔力を保有していても、行使することができなければ無力なのとさほど変わらない。いくら身体能力が高くても、怪我などでそれを活かせなければ、レギュラーメンバーから外されてしまうのと同じことだ。
「行こうぜ!」
「はい……そうします」
一行が進行方向を向くと、空が急に陰り始めた。
太陽はいつの間にか西の彼方に消え、東から丸くて大きな星──月が昇っているのが見える。
異世界とはいっても、月と太陽の位置関係は変わらないのだ。動かないように見えたのは錯覚で、時間感覚がずれていたようだった。
不意に薫は、ぐわぁ、と身体の中を駆け巡るものを感じた。
思わず咳き込み、立ち止まる。
「大丈夫ですか!?」
「あ、ああ。目眩がして……」
レイアが薫に駆け寄ろうとした直後、そのままレイアは右に平行移動をする。
「伏せてマスター!」
ぼこっ、と空気が震えた。
歪みが生じ、そこから空気が流れ出す。粒子が物体を形成し、人型になったそれを空気とともに吐き出した。
「スペル! ウェアー、スペル、リベレーション!」
急速に膨張した魔力が薫に襲いかかる。
熱く、まばゆい。
怪しく煌めいたランスが、容赦なく薫に向かって振り下ろされた。
「は……」
あまりの移り変わりの速さに、薫は動くことができなかった。
「マスターぁ!」
レイアが出現地点を迂回しつつ薫に迫る。徐々に距離が縮まる。
だが、惜しいことにレイアの短く華奢な手では、当然薫の身体は間合いにない。
きぃ。
顔を覆った自分の右手に、ランスの先がめり込むのを感じた。だが、不思議と痛くはない。血が出ているような感じもしない。
次の瞬間、ついに光が弾ける。爆散した光は周囲にあるものを焼き、薫もレイアもその光を浴びた。
「ぐああぁ……」
情けない声が漏れる。
歯を食いしばる。
それでも打開するタイミングを見出せない。
薫はよく目を凝らす。
光る視線の先にあるのは銀色の甲冑だ。影ができていて素顔までは見えないが、口角が上がっているのが見えた。笑っている。
「ついに捉えたか。その姿を現せッ、反逆者め!」
野太い怒号がとんだ。
それだけでも地響きが起きて、傍らにいたはずのレイアが数歩下がっている。
鎧が日除けのようにしていた面をあげた。
「スペル、キャンセル」
煌々としていた光が収まって、鎧の全身があらわになった時、力尽きた薫は地面に倒れこむ。
地面は硬くてひんやりとしていて、熱いものを浴びたあとでは大変心地よい。
「マスター! ってうわあ!」
「動くな! お前は黙っていろ」
薫の視界の隅で、レイアが二人の鎧に捕獲されているのが見えた。
「がッ!?」
髪をわしづかみにされ、薫は膝立ちになる。
「ほう……貴様が反逆者か。噂には聞いていたが、ずいぶんと幼いではないか」
覗き込まれて、鎧の素顔がよく見える位置まできた。
太い眉はつり上がっていて、目は細いが非常に強い目力を感じる。鼻は大きく、もうかなりの年なのか、頬にしわが目立った。顎にのみ髭がたくわえられている。
「……にが反逆者だ。俺はなにもしていないッ!?」
途切れながらも反論すると、再び髪が千切れるのを感じた。
「ほざけ! 先ほど脱走したというのは聞いている。さあ、牢に戻ろうじゃないか」
「……ッ! 断る。俺はなにもしていない! 人違いじゃないのか?」
「ははは、よくはわからんよ。とりあえず、牢屋の連中に確認をとるつもりだ」
「はあ!? だから、牢屋に行くもなにも、俺は通りがかっただけだって! なんで」
「ごたごたとうるさいわ! 悔しければ裁判の法でも定めればよいわ」
「はぁ……。なにを言っても無駄か」
薫の腕が大人しくだらんと垂れ下がったのを確認すると、鎧の男は薫を担ぎ上げるために膝立ちになった。
逆手に腕を含む胴を掴まれる。一瞬の浮遊ののち、薫は腹から鎧の肩に着地した。
「……だいぶ古典的だ」
薫の小さなつぶやきは聞こえていないのか、鎧は平然とした調子で呪文を唱える。
「スペル! ムーブ、ポート、アピアー!」
光が宙に収束し始める。
粒が空気が入り混じり、魔法ながら幻想的だ。目の錯覚でも起こしそうな模様を描いている。
この魔法の効果が現れるには時間がかかるようで、鎧はしばらくその模様を静観していた。
──酔わないのか?
模様を見つめていた薫は、すでに気分を悪くしていた。腹が圧迫されているから、たちが悪い。
「なんだってんだよ……」
薫のつぶやきは虚空に消えた。
魔法の発動が終わり、座っていた鎧はよいしょと立ち上がる。
「トゥ、プリズン・オブ・ディザイア!」
(なにが願望の牢屋だ。牢屋に願望もくそもあるか)
心の中で悪態をつきつつも、薫は黙って突っ立っているだけだった。
「じゃあ、こん中に入れ。自動的に牢屋に……」
言葉が途切れたかと思うと、鎧はすっと視線を上に移動させた。薫もつられて見上げる。
「クイックスペル! シールドスフィア」
鎧が発動させた半球に、降ってきた細長いものがいくつも突き刺さった。
槍……だろうか。特になんの装飾も施されていない細長い物体は、半透明のエネルギーの塊のようだった。周りには紫の薄い膜があり、わずかだが魔力を感じさせていた。
「なんだ……?」
視線の先、夕闇に包まれつつある上空には小さな人影があった。目を凝らすと、その表情が見て取れ、こちらに向かってなにかを伝えようとしているようにも見える。
「ごめん……」
唇の動きから、薫はそう読み取った。そうしたところでなにが変わるわけでもないが、それほどに手持ち無沙汰の状態が続いていた。
「マスター、いまです! このシールドは、じきに効力が切れると思います。老化ですね」
「うるさいわッ!」
「……それは置いといて、少なくとも脱出しなければ蜂の巣です。出ましょう!」
「でも、どうやって……?」
どちらも、緩いのは確かだが、捕縛された状態にある。そこから脱出するにはなんらかのアクションを起こす必要があった。
「……ただ、脱出したい、と思ってればいいんですよ! さん、はい!」
「そんなこと言ったってな……うおッ!」
薫は後ろに飛び退いた。
すたり、とほぼ無音で空にいた誰かが着地する。
濁った黒髪がふわりと風に舞い、すでにボロボロのワンピースも千切れんばかりにはためいた。
「ごめんね……巻き込んで」
振り向き様にそう言いながら、少女は薄暗い瞳を薫へと向けた。
「女の子……だよな?」
「そう。僕は女の子。ごめんね? いま助けてあげるから」
右手を宙に仰ぐと、先ほどの槍が現れ、少女の手のひらに収まった。
「僕……速い……強い……願い……誰にも……負けない」
少女が呪詛のようにつぶやいた単語は聞き取ることができなかった。だが、それがなんらかの魔法のトリガーとなったようで、彼女の右手に紫の閃光が走る。
「不味いです、マスター! この人たちはサイレンスタイプの魔法の使い手ですよ。巻き込まれたら死んでしまいます!」
レイアが唐突に叫んだ。
目は恐怖に見開かれ、心なしか肩が震えている。
「サイレンスタイプだかなんだか知らないが、助けてくれるって言ってたんだから大丈夫だろう」
安心させてやるつもりで薫は言った。
「サイレンスタイプは呪句なしで高速に魔法を打ち出せるんです。だから手数も多い。確かに女の子の方には敵意がないかもしれませんが、少なくともここにいては巻き込まれます」
「ああ……」
戦闘場所は薫がいる位置から三メートル程しかなかった。いま戦闘の口火が切られようとしている最中で感じられるオーラからしても、非常に強いことが伺えた。
「なんだ、貴様。反逆者の肩を持つのか?」
「この際言っておく。反逆者は 僕だ……。彼は全くもって関係ない。だけど、僕も容易に捕まるわけにもいかないな」
「貴様が……? ん、言われてみれば女だったとか言ってたか。わしとしたことが……」
「やっぱり老化だろ」
思わずつぶやいてしまう。
「まず貴様から殺そうか」
そう言って鎧は薫に右手を向けた。
「わー、ちょっと待て。前言撤回」
「ふん、若者ごときが調子に乗るな」
鎧は鼻で笑うと、少女の方に向き直る。ランスを利き手に構え、相手の出方を伺っているようだ。
対する少女は、魔法を発動し、解放するのを待っている。こちらも相手の出方が気になるようで、このままでは延々と続きそうな気まずい沈黙を招いていた。
「反逆者よ。おとなしく投降する気はないのかね」
「ないかな。僕だってなにもしてないのに捕まりたくはない」
「ハッ、あんな事件を起こしておいてどの口がそれを言う。ディザイアの民はなにもしていないということを聞いたところで信じると思うのか」
「さあ、そんなことはどうでもいいよ。世間体なんて気にしない。黙って僕を見逃せばいい」
「わしのメンツにかけて、それだけはできんな。ならば、力ずくで行くしかないようだ。──参る!」
気持ちのいい炸裂音が響くと、青いエフェクトを残して鎧が消えた。
「無駄だ」
少女は短く言うと、左手を後ろへ回して再び槍を召喚する。
すると衝突音がして、鎧のランスが左手の紫の槍に激突した。
少女は軽い身のこなしで槍の位置を固定しながら方向転換をすると、鎧に右手の槍を投げつける。至近距離にいた鎧は、顔を少し傾けてそれを躱して見せた。
「まだまだだッ!」
周囲の空中に魔槍が無数に出現し、鎧に殺到する。さすがにこれは無理だと判断したのか、鎧はまた青いエフェクト残して消えた。
「なかなかの腕。さすが脱走しただけはあるの」
「勘違いしといてそれはないと思う。実は調子のいい人?」
「もとからじゃ。ガハハ」
戦闘中なのに、なぜか笑いが生まれた。
「なにをしているんでしょう……?」
本来もっと真剣な場面のはずなのに生まれた、場違いな笑いに対して抱いた疑問をレイアが漏らした。
「さあな。少なくとも、双方とも勝機を確信している。絶対の自信を感じる」
「はぁ……」
一陣の冷たい夜風が頬をなでると、二人の姿は視界から消えていた。
「覚悟ッ!!」
「ノウム!」
戦闘している二人が同時に吠える。
同時にわずかながら、魔力の奔流を感じた。
薫の手前を発生源として、噴射音を立てながら霧が発生する。夕闇をも吸い込む純白の霧は、すぐさま薫とレイアを巻き込んだ。毒の類ではないのか、特にこれといった変化は身体にはない。
「おい! ここまできて魔法を使うのかッ! 卑怯だとは思わないのかね!?」
「僕には関係ない。真面目な勝負なんて男がするものだよ」
冷ややかな声が耳元で響いた。
「お、おい。なにをする!」
右腕を掴まれ、不意に生じた浮遊感に薫は困惑する。
「レイアは!?」
霧で周りはなにも見えない。自分を掴んでいる者が誰なのかすらも判別できないほどだった。
「ここにいます!」
また、耳元で声がした。
だが、今度はレイアのもので、どうやら近くにいるようだった。
「霧の域を抜けるまで僕が君たちを運んでいくよ。それからは自分の足で歩いて。僕は隠れ家に移動するから、帰る場所がないならついてこればいい」
「わかった。とりあえずそうする。判断はそのあとで、だ」
「了解した。速度を上げるよ!」
ぐわあ、と顔面に大きな圧力を受けた。絶叫アトラクションに乗ったときのような風圧だ。ゆっくりと思考してみて、薫はその力に恐怖する。
「お、お前、この速度を足で出しているのか……あがッ! ……舌噛んだ」
「魔法でエンチャントすればこれくらいは出るよ。それと、大丈夫?」
「あ、ああ。ギリギリな」
しばらくして顔を前に向けると、まばゆい光が薫を襲い、視界が開けていくのがわかった。
ずっと濃霧に囲まれていたため、身体に流れ込む空気は非常に新鮮で心地よかった。隣でレイアが、清涼な空気を味わうように息を深く吸う音が聞こえる。
とたんに、真っ暗な闇が視界を遮り、薫は現実を悟った。仮にも、夜だった。
「まだ追ってくるよ、走って!」
「クソ、勘違いも甚だしい野郎だ」
「マスター、悪口を言ってる場合じゃないです!」
「はぁ……わかったって。走るよ」
もうどれくらい走っただろうか、少女が立ち止まると同時に、薫は足にブレーキをかけた。
空はいつの間にか夜闇に包まれ、一切の光もない。雲があるのだろうか、星が全く見えないのだ。
少女につられて、反射的に後ろを振り返る。闇が濃縮されているだけで、何者の気配も感じなかった。
「もう……気配はないかな。それじゃあ、僕はここで帰るとするよ。君たちはどうする?」
「さっき言った通り、着いていかせてくれないか?」
わずかな逡巡ののち、少女は首肯した。
「わかったよ。じゃあ、こっち……」
少女は手招きすると、建物が並ぶその隙間──路地裏へと薫たちを誘った。
*
「ユーキ様! 脱獄した元デベロッパーですが、ランス部隊が取り逃がしたようです。隊長への応援が間に合わず、一人では対処できない実力に成長しているとの報告が入りました」
静かな空間にキンと張り詰めた声が反響した。
目をぱちくりさせて、ユーキはいつも見ている退屈な空間を見回した。
座っている玉座に深く直し、遠くへと目を凝らす。
視界の奥に人影を認めた。外出時、ユーキの護衛に当たる女性だった。
完全な武装まではしていないが、刀を腰に下げて、利き手には籠手をつけていた。
「……ああ、そうか。すまない、いま目覚めたところだ。それで、その、リノのやつはいまどこにいるんだ?」
女性は律儀にも居住まいを正し、少し考えてから口を開く。
「それに関してですが、通信機器の取り付けに失敗したようでして、座標すら求めることができない状態です。申し訳ありません」
「いや、リゼットが謝る必要などない。ランス部隊が悪いのだ。早急に尻尾を掴むように通信を入れておいてくれ。──それで、妾はいつになったら外出できるのだ?」
ユーキは椅子に手をかけて身を乗り出した。ストレートの金髪が揺れる。
「残念ですが、この調子だと、しばらくは難しそうですね。ユーキ様の安全のためにも」
「そうか。では、今日も開発に時間を回すことになるのか?」
「そうなりますね。跡取りもいないわけですし、早いうちに開発を済ませて置かないと、家系が崩れる危機に……」
「ふ、ふん。知ったものか、そんなもの! 妾には魔法なんて使えんのだ!」
放った一言が静かな空間を震撼させた。ユーキの高い声は余韻を残して消えた。
はっとして直るも、それはもう手遅れで、視界には疲弊した様子のリゼットが映る。
「……ユーキ様、もうそのような言葉は口に出さないでくださいとお伝えしたはずですが。魔法は、願望が生み出すもの。根を否定していては、いつになっても開発はできません」
「そ、そんなもの知っておる……」
ユーキは大きく息を吐いた。
本当は理解していたのだ。
だが、それに対する不信感は日増しに強くなり、ついには肯定する気持ちを上回るまでになってしまった。
いまさら、その気持ちを正そうというのは不可能な気がしていた。
ふと、そこで浮かんだのは彼女だった。
もっとも熱心で、実力のあった魔法使い。
もともと魔力を保有していなかったのにも関わらず、いまでは開発に成功していた。
魔力を保有しているのに放出できずにいるユーキとは違っていた。
「いまになって思うのだ……。本当に、本当に済まないことをした」
放心するユーキを見つめながらリゼットは冷たい言葉をかける。
「それは、誰に対して言われた言葉なのでしょうか。……もし、私の予想と一致しているというのなら、お言葉の撤回を要求します」
リゼットの視線は真っ直ぐにユーキを見ていた。その瞳に引き込まれそうになり、ユーキは目を逸らす。
「関係なんて、あるわけないだろう」
見栄にも映るその虚言を、リゼットはどう受け取ったのだろうか、微笑みを浮かべながら会釈をして、後ろを向いた。
「私めは、ユーキ様の開発成功を、心からお祈りしております」
「そうだな、そうしておいてくれ」
無機質なものの言いに、ユーキは気分を害しながらも、気丈に振舞った。
あとで、扉の開閉音が聞こえた。
「ああ、本当に……」
言葉の続きは音となっては現れなかった。