1 Encounter -出会い-
──少なくとも、俺は死んだはずだった。
1
目の前には大きな崖が広がっている。
冷たい風が頬を撫で、崖下へと吹き抜けた。
土は粘土のように赤茶け、この崖の先、中央が分かれている谷までもが同じ色一色だった。
太陽は西へ傾いたまま動こうとはしない。
時間そのものは止まっていないようだが、景色が一向に変わらない手前、世界自体が動いていないように見える。
「はぁ……。どうなってんだこりゃ」
花山薫はは大きなため息をもらした。
薫は一、二時間前ほどから場所を変えず、ここにいる。その前はここにはいなかった気がするのだが、記憶が曖昧で確実と言い切れないのが非常に歯がゆい。
粗い土を蹴ると軽く砂埃が舞い、その土を触ると細かい砂が手について取れない。
ここに現れてから、薫は様々なことを試した。
まず、崖下へと石を投げ入れてみた。結果、着地音が聞こえてきたのは少し時間が経ったあとで、その時間を半分にしてみても、かなりの深さがあることが伺えた。
次に、視力が許す限り遠くの場所を観察してみた。崖や谷しかないからか、前方には特筆すべきものはなにもなかった。
薫がいる崖までの長い坂の両脇には林があるのだが、その奥から野生動物の鳴き声が時折聞こえてくる。あまりに甲高い声な上、聞いたこともない鳴き声だから、正確な判別はできないが、鳥か猿──即ち、別段恐れることはない存在だった。
そして、薫はポケットに入れてあるはずの薄型の携帯電話を取り出してみた。電波は無論圏外で、おまけに正確な時間までもがわからない。つまり、ハイフンが代わりに表示されていて、日本時間どころかもとにできる時間自体がない。また、この謎の場所が薫の時間感覚と一致するのかということすらはっきりとしない。
そういったライフラインが絶たれた以上、どうすればいいのかと途方にくれた薫はじっとしているしかなかったのだ。
薫はアドリブに弱い。
それは極度の人見知りであることからも頷ける。
窮地に立たされたとき、頭が真っ白になって次になにをすればいいのかわからなくなってしまう。我ながら情けないことだが、これだけはどうすることもできないのだ。
その割には、この状況下で薫が落ち着いていられるのは珍しいといえる。
いや、状況が突飛すぎるものである以上、それも仕方がないことなのかもしれなかった。
薫はその場に腰を下ろした。
長身痩躯の身体が地面に長い影をつくる。
時間は刻一刻と過ぎていくが、やはり薫にはじっとしていることしかできない。
ざくり。
そう思い立った時、砂を踏みしめる音が耳に届いた。
「あれ〜? もう目が覚めちゃったかな? 計算だともうちょっとあとだったんだけどね」
場違いな無駄に明るい声が響きわたる。
「は?」
薫はとっさに振り向いた。
まばゆい白に輝く、きれいに切り揃えられた前髪に、大きな碧眼が特徴的だった。
腰まで髪は伸びており、彼女の右手が無造作にそれをいじっている。金の髪留めが斜陽を反射してきらりと光った。
すっと通った鼻梁に、大きな眼とは不釣り合いな小さい口。だが傍目からは美しい以外には映らない。そんな女性が薫の背後に立っていた。
「やあ! 君が薫くんかな!? ここがどこだかわかる? あとなんでこんなところにいるのかもわかるかなっ?」
一息にまくしたてられ、薫はどうしたものかと狼狽する。だがアドリブに弱い薫は、口をパクつかせるだけでなにも言葉を発することはできなかった。
「んー? どうしたの? 喋れるよねぇ。ねえ? どうなの?」
薫の身長は185センチと大きい方ではあるのだが、迫りつつある女性はそれよりも背が高い。200センチはあるのではないだろうか。
女性の顔が薫の数センチ手前まで迫ってくる。薫は原始的な恐怖を感じた。
その時、金縛りから解放されたように、薫の口が言うことを聞いてくれた。
「お、おう……。俺が薫で間違いない……っ!」
この上なく情けない声だったが、一応返すことができたから、女性がさらに迫ることはなかった。
「そうなんだ〜。ふうん。あたしは……、まあとりあえず『神サマ』みたいな存在かな〜」
『神サマ』と名乗る女性は人差し指を頬に置いて首を傾げた。
──って、それじゃあなにもわからないじゃないか。
「あ、そうだ! 薫くん、あたしのこと痛い奴だと思ってたら、それこそ痛い目みるからね。そこんとこ注意しとくように! ……まあそれはいいとして、本題に入ろっか!」
「……」
自称『神サマ』は自分のペースでどんどん話題を進めていく。それはあまりに素早く、薫が相槌を打つ暇すらない。
無視に徹している薫を見てか、『神サマ』は怪訝な表情を浮かべて細い眉を曲げると、不機嫌そうな声をあげた。
「ちょっと〜、あたしが一人危ない人みたいになってるよ!? なんか相槌とか打ってよ!?」
そのスキがないんだっつの、とは言えなかった。
やはり口は頑として動かない。
あれが精一杯なのかと思うと、自分の存在理由が危ぶまれるようだった。
本当は、口下手なまま育ってきたくはなかった。なんなら、この女性のように口が止まらないような人になっていてもよかった、そう思えるほど、過去を薫は恨んでいる。
何度も死にかけたことがあった。
いじめによる自殺未遂ももちろんあった。
無論、ただの事故ということもあったが、今こうして生きているように、見事な生還を遂げている。
こんなところに来る前は──最後の記憶によれば、なんらかの形で薫は命を落としたはずだったのだが、それも気のせいだったかと思えるくらいに、今は生き生きとしている。
「おいお〜い、薫くん? 大丈夫?」
『神サマ』が目の前で手を上下させているのを見て、薫は我に返った。
「だ、大丈夫だ」
相変わらず言葉が少ないが、それで満足したらしい『神サマ』はまた自分の話を始める。
「で、本題なんだけど、薫くんて記憶はどこまである?」
薫は記憶の糸を手繰り寄せる。
「……残念だがなんにもない」
「そっかあ〜。じゃあ教えたげるね。薫くん、ちょっとこっちを見てくれるかな?」
薫が指示に応じると、『神サマ』は右手を高く掲げて中指と親指を合わせる。
パチン。
小気味好い音が辺りに響いた。
すると、周囲の細かい粒子がある一点に吸い込まれていくのを感じ、薫は反射的に身構えた。
「薫くん、大丈夫だから。大人しくしていればいいよ!」
そうは言われたが、簡単に信用していいのか、その判断は容易につけることができない。なぜなら、薫の中のなにかもある一点へと吸い込まれている気がしたからだ。
確実にそうだと言い切ることはできない。けれど、その感覚は確かにあった。
「どういうことだ?」
アドリブなんてものは忘れ、薫は語気を強めて言った。
「まあまあ。もうちょっとしたらできるからさ〜!」
『神サマ』は薫の言葉を軽くあしらうだけで、相手にしようともしない。
「おい!」
薫は抑えきれない感情を露わにした。
その様子を見た『神サマ』は、なにを思ったか深いため息をついた。
「あんまり邪魔すると、消えてもらうからね。これも君のためなんだから、大人しくしていないとどうなることか。まあそれはどうでもいいんだよね。だったら──あの娘にも消えてもらうことになるんだけど。なぜかって? 君がいないと、もう彼女が成り立つことはないんだよ?」
もともと大きな碧眼をさらに大きく見開き、『神サマ』はまるで呪文を唱えるように言葉を紡いだ。
あまりの豹変ぶりに、薫は言葉をなくす。
あの娘、彼女がなにを表すのかは明確ではなかったが、薫を鎮圧するには充分な要素をいまのセリフは含んでいた。
驚き、腰が抜けて座り込む薫を睨めつけた『神サマ』は「お、やったぞ〜!」と歓喜の声をあげ、直前までの冷ややかな態度が信じられないほどに嬉しそうな笑顔を浮かべた。
『神サマ』は自分の足元を指差し、『神サマ』の顔ばかりを眺めていた薫の注意を誘導させた。
ごくり、薫の息を飲む音が空気を振動させる。
「これは……!」
目の前にある凄惨な光景。
薫は荒い呼吸を繰り返すばかりで、また『神サマ』はにっこりと満面の笑みを浮かべるだけで。
呼吸音だけが聞こえる奇妙な沈黙を突き破るものはなかった。
「思ったより時間かかっちゃったな〜」
肩をわなわなと震わせ、なにを口にすればいいか迷っている薫を横目に自称『神サマ』が呟いた。
「…………」
『神サマ』無言で立ち尽くす薫に歩みより、やたらいい匂いを放ちながら薫の額に手を当てた。
「どうしたの? ……ああ、死体は初めての人だったか〜。でも安心して、そのうち慣れるから」
快楽と言わんばかりの表情を『神サマ』は浮かべた。その顔に悪意はなく、善意とは言えずともそれに近いものがあった。
つんと鼻をつく不快な臭いは腐乱臭だ。
四肢を投げ出し、ところどころから血を流している人間。血に覆われている双眸は大きく見開かれ、瞳が見えなくてもその無残さが伺える。
さすがにもう血は止まっているが、頭部の生々しさは薫の想像をはるかに凌駕していて目を逸らすしかなかった。
なにがあったのか、それは推理に長けているはずもない薫にはわからない。
「どういうことだ……?」
押し殺した声で薫は言った。
「どういうことって、それこそどういうことかなっ? とはいっても、あたしの説明ミスなのか……。まず訊かせてもらうけど、この娘のことは知ってる?」
そう問われ、薫は惨い状態になっている死体へ視線を移した。みればみるほど、段々と気分は沈んでいく。
薫のいままでの生活──とはいえ完全な記憶ではないが──の中で『死』と直接接したことは一度もない。そのため、抵抗というものができていないのかもしれない。
身を以て体験することはなくても、『死』は身近なものとして関わってくるものである。植物をはじめとする食物連鎖の一環は言うまでもないことだが、人間として生活していく上で、寿命が同じ人間と出会うことはほとんどない。近親者の間では少なくとも他人の『死』は経験するはずである。
それをまだ経験していないということは、まだ運がいいということでもあるが、心が成熟していく過程でその抵抗がないままでいると、成熟しきった際『死』に立ち向かえなくなってしまうこともあり得る。
いま薫が直面している状況こそ経験がないという後者であり、メンタルも折れそうなのが正直なところだった。
──それにしても、こんな娘は……。
「あ……っ!」
記憶の片隅に死体と化している彼女の姿が重なる。
これはあくまで憶測でしかない。
だが、確信にも似た憶測だった。
「あるはずなんだけど……」
『神サマ』が頬に人差し指を置いて考え込むような素振りを見せた。
薫はその姿に魅せられ、身体を硬直させそうになるが、冷静さを取り戻して思ったことを述べる。
「名前までは思い出せないが、でも、絶対に……。なんで……!?」
半自動的にしゃべっていたようだった。
意識もしていないのに口が自動的に動き、脳内で言葉が閃き、そしてまた口が動いていた。
得意気な表情になった『神サマ』はにんまりと口角を上げ、薫に向けて語りかける。
「よしよし〜。思い出してくれたようだね! これからがあたしと薫くんの契約なんだけど、準備はいいかな?」
「勝手にしろ!」
「ふーん。じゃあ勝手にするけど。……まず、この娘は死んでるという事実を受け入れて。そして、君が望む限り、『生き返らせる方法』もあることを覚えておいて。その上で、君はこの娘のことをどう思う? ここで死なせたままでいれば、再会は敵わないんだけど」
薫は頭を悩ませた。
ここで放っておいていいのか、『神サマ』が言っていること自体を信じていいのか。
頭を締め付けるような痛みと共に、心の中に不意に圧迫感が込み上げてくる。
そのせいか妙な緊迫感までもが押し寄せ、薫の判断力を根こそぎ奪った。
唇を強く噛むと口の中に鉄の味が広がった。
「薫くん〜?」
のんびりとした声が沈黙を破り、薫を現実へと引き戻した。
「俺は……」
「はーい、時間切れ! それじゃあ、生き返らせるよ〜」
「は?」
パチン、と『神サマ』が再び指を鳴らすと、今度は青い光が死体に向かって収束していった。
個々が溶け合い、死体が徐々にきれいに整えられていく。
血もなくなり、不自然な形に曲がっていた四肢もいつの間にか真っ直ぐになっていた。
髪の毛も元通りとなり、薫の記憶の奥底へしまわれていた姿と完璧に重なったとき、青い光は跡形もなく消え去った。
「ぶっちゃけ、生き返らせる方が罰ゲームな気がするんだよね〜。最低限のことは教えてあげるから、まずはあの娘を目覚めさせてあげなよ」
背中を押され、薫はついさっきまで死体だった少女の前に歩み出た。
いまや血一つついていない少女は、うっすらと目を開けると、小さく結ばれた口をゆっくりと開けた。
「あれ……ここは? あなたは、どちら様ですか?」
その言葉は明らかに薫を指したものだった。
「薫だ。覚えているか?」
一糸まとわぬ姿の少女の側に腰を下ろし、きめ細やかな肌を持つ小さな手をすくい上げるようにして握る。
その一連の動作は、薫に自然と身についていたものだった。
「……すみません。覚えてないです」
「そうか……」
驚くこともできず、薫はその場で脱力する。
自分だけ覚えている事実は、もはや真実にはなり得ない。誰かに一蹴されればそれでおしまいなのだ。
「説明もなしに、真実を求めようとするから悪いんだよ。あたしは目覚めさせろ、までしか言ってないよ?」
慰める気がないのか、冷たく『神サマ』は突き放した。
「ああ、そうだったな……」
「せっかくだから一部くらいは教えようかな。薫くん、君と彼女はここではないどこかで死んだ。そして、まだ傷が浅かった薫くんは何者かの蘇生術でここに転生し、彼女はその代償として心を失った。そこで、あたしが唯一残っている肉体の核を基に精神と仮の肉体を形成した。ここまではわかるかな?」
「……ああ」
「あたしが『神サマ』的な存在だとしても、彼女の存在が人工的に保たれていることには変わりない。つまり、魔力で肉体がバラけるのを防いでいるんだよ。いまはあたしの魔力が供給されているけど、もうすぐそれは絶つ。そうなると、時間の経過と共に彼女の身体は再び崩壊を始める。そこでだよ。もう一度、魔力を供給できる人がいるとすれば誰でしょう?」
「またあんたが供給するのか?」
「もうちょっと賢明だと思ったんだけどな〜! 君がやるんだよ?」
薫の額に指を押し付け、『神サマ』は怒るような素振りを見せた。なかなか様になっていて、薫は思わず息をのむ。
「俺には魔力なんてないだろ……。それこそ、『神サマ』だって充分怪し……」
「ん? なんか言ったのかなー?」
「なんでもないっす!」
「とりあえず、薫くんが黙ってあたしに従っていればいいわけ」
『神サマ』は、裸体のままぼけーっとしている少女に向かって右手をかざし、「スペル! サプライ、スペル、ライン、リジェクト」と呪文のようなものを唱えた。
それから、薫の方を向いて笑いかける。
「それじゃ、やってみて。あたしのあとに続ければできるから。──右手をかざして、せーのっ!」
薫は立ち上がり、少女の身体に右手を重ねた。
「「スペル! サプライ、スペル、ライン、コネクト」」
なにかが薫の中から抜け出すような気配を感じるが逆らうこともできず、されるがままになる。
薫から抜け出た不可視の線は、一直線に少女のもとへ向かうと、無防備な心臓へと突き刺さった。そこへなにかが通じる感覚を薫は覚え、それは確信へと変わる。
「そう、それが魔力だよ。まだここに適応しきれていないから微弱ではあるけれど、慣れれば魔法も使えるようになる。さっきあたしがしていたようにね。──というわけで、ガイダンスは以上だよ〜。使い魔の彼女さんと頑張ってね!」
『神サマ』はなにかの呪文をつぶやいた。すると、二メートルもある全身が白い光に包まれて、輪郭がぼやけ始める。五秒もしないうちに半透明化したかと思うと、残光を残しながら『神サマ』は消え去った。
薫は誰もいない空間に向かって独りつぶやく。背後にある崖に向かって、ぴゅうと風が通る音を聞いた。
「使い魔、な……。まだなんにも思い出せねぇか。どうにかなんないもんかな」
ざらつく地面に薫は座り込んだ。手で地面を撫でるとひんやりと冷たい砂の温度が伝わり、高ぶる気持ちを落ち着かせた。
しばらく脱力していると、何者かが薫に近づく気配がした。足の運び方から『神サマ』ではない。
だが、驚くほど心に余裕を持っていなかった薫は、虚ろな目でその姿を確認する。
暁の後光を身にまとった少女がこちらへゆっくりと歩いていた。
まず目に入ったのは蒼く長い髪だった。斜陽に赤く照らされてもなお蒼く輝いている。風に小さく揺れ、身体を包むようになびいている姿は大人な女性を想起させた。
丸く縁取られたまつ毛を涙に光らせ、丸い目を細めて薫を見つめる姿はなんとも愛らしい。
つぶらな瞳、小さな鼻、細い唇、長くて蒼い髪、幼くて華奢な体躯。どれも懐かしい感じがして、薫は感慨にふける。
「ああ……!」
名前を完全に思い出すことはできなかった。だが、身体に染み付いた、もとい呼び慣れた単語はついに薫の口をついて出てきた。
「鈴亜……会えてよかった」
*
鈴亜、改めレイアの姿を見ても依然記憶が戻ることはなく、感覚だけを頼りにした記憶の模索が続いている。
薫が遭遇した『神サマ』についても、見覚えがあるかどうかといえば、ないのかもしれないが、それも確定事項とは言い難い。
魔法という概念が存在するとはいったものの、レイア付き添いのもと練習をしてみたが薫にその才はなく、使えたと思しき魔法はレイアへの魔力供給のみである。
薫はそんな世界で存在を保つことに困難さを感じるばかりであった。