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花の記憶

 みんな今頃何をしているんだろうな、と思った。


 社会人になってからは自由になる時間が少なくて、なかなか学生のときのように友達とどこかへ一緒に遊びに行ったりすることができない。仕事が忙しくて毎日がそれだけで終わってしまう。休みの日は仕事疲れで一日寝ているようなことが多いし、余裕があるときでも彼氏とデートしたりすると、もう他に時間は残らなくなってしまう。


 自分のなかに、何に対するというわけでもないのだけれど、漠然とした、不満のような、寂しさのような、そんな感情があった。


 ふと、パソコンの画面に向かっていた手を止めて、すぐとなりにある窓の方へ視線を向けてみる。するとそこには、どんよりとした灰色の雲が見えた。目に映る視界全体が、空の色素が薄く溶けだしたような灰色に染まってしまっている。


 雨が降るのは時間の問題かもしれないな、と思った。


「小西さん」と、声がした。ぼんやりとしていたから少し驚いて振り向くと、そこには課長の島崎さんが立っていた。度の強い眼鏡をかけた、ひげの濃い、やせ形の男のひとだ。髪型はいつも綺麗に七三分けにしてある。かつらみたいな髪型だなぁ、といつも思ってしまのだけれど、そんなことはとても口に出しては言えない。訊いたことがないからわからないけれど、歳はだいたい四十歳を少しすぎたくらいに見えた。

「…これ、この前言ってた資料です。どうぞ使ってください」


 軽く会釈して、その資料を受け取る。わたしがその資料を受け取ったことを確認すると、彼は無表情に自分のデスクの方へと戻って行った。


 …あのひとはどうも苦手だな、と思ってしまう。決して嫌なひととかではないのだけれど、仕事以外のことではあまりしゃべってくれないし、少し気まずく感じてしまう。…というより、この職場全体の雰囲気がどこかよそよそしい感じだった。


 べつにとりたてて嫌な人がいるわけじゃないのだけれど、みんな接し方が淡々としていて愛想がないのだ。いかにも仕事上のつき合いといった、広がりのない、狭く、閉め出されていってしまうような閉塞感を感じてしまう。そう感じてしまうのは、自分と年齢が近いひとがいないせいもあるのかもしれない。


 わたしは去年大学を卒業して、この会社に入社した。庭のデザインや、植物を育ててそれを販売したりする小さな会社だ。従業員の数は全部合わせても三十人に満たないくらい。狭い世界だ。だからよけいに、対人関係がよそよそしいと息苦しさを覚えてしまう。


 学生のときのように人間関係が広がっていくようなことがないし、友達と呼べるようなひとも今のところいない。仲が悪いというわけじゃないんだけれど。会えばちゃんと挨拶はするし、仕事中や、休憩時間に軽く世間話をしたりするようなことはある。年に何回か飲み会もあるし…。でも、それだけなのだ。それ以上に広がっていくことがない。


 というよりも、それほど広げたいわけじゃないのかもしれない。よくわからないと思ってしまう。…何だかみんな十歳も二十歳も年上で、あまり友達という対象ではないのだ。


 仕事自体は楽しい。わたしは昔から植物を育てたりするのが好きだったし、小さな会社だから、まだ若くて経験のないわたしにも庭のデザインとか大きな仕事を任せてくれる。人間関係さえ、割り切ってしまえば、今の仕事はそれほど苦じゃないとも思うのだけれど…。


 急いでこの書類を作ってしまわないと、と焦った。お昼からは現場に行って、細かい打ち合わせをしなくちゃいけないし、そのあとは今栽培している植物の手入れをしなくちゃいけない。そしてそれが終わったらまた会社に戻ってきて、見積もり書の作成だ。まだ他にも今日中に片づけてしまいたい仕事はたくさん残っている。…何だか仕事が山積みでうんざりしてしまう。今日は残業になってしまうかもしれないな、と思った。

 





 お昼を過ぎると、思っていた通り雨が降り始めた。激しくも降らなければ弱くも降らない雨で、その雨が淡い水色の上に、薄く黒を重ねたような色彩に空間を染め上げていく。空から落ちてくる水色の粒が、わたしが着ているレインコートの上を小魚のようにはね回る音が聞こえていた。


 何とか雨が降り出す前にうち合わせが終わって良かったな、とほっとした。雨のなか、庭作りの進行具合を業者のひとと一緒に確認していくのは何かと面倒な作業だ。とはいっても、雨のなか植物の世話をするのも、なかなか骨の折れる作業だけれど。

 

 バラが、蕾をつけはじめていた。慣れないなか苦労して育ててきたものだから、それが蕾をつけてくれると嬉しい。花が咲くのが楽しみだな、とわくわくした。


 バラの蕾は、舞い落ちて来る透明な水の粒に微かにその身体を震わせながら、じっと空を見据えていた。それはもっと雨水が欲しいと望んでいるみたいにも見えたし、あるいはその見上げた空から太陽光が差し込んでくるのを心待ちにしているみたいにも見えた。


 手を伸ばして、軽くその蕾に触れてみる。すると、やわかい感触があった。ソフトクリームみたいなふわっとした感触があって、水に濡れているせいか、冷たく感じられる。


 小学校の頃に、確か理科の実習だったと思うのだけれど、アサガオの種を植えたことがあったのをぼんやりと思い出していた。他の同級生のアサガオはどんどん大きくなっていくのに、わたしのアサガオだけはある時期を境に成長を止めてしまった。


 しばらくするとそれは茶色い、パサパサした紙みたいになって、触ると、ボロボロに崩れてなくなってしまった。みんなのアサガオは赤や青や黄色といった、色とりどりのきれいな花を咲かせていくのに、自分の鉢植えだけには何の花も咲かなかった。雑草すら生えることもなくて、そこはただの茶色い土を盛っただけの場所になってしまった。


 何だかそれがすごく寂しくて、哀しくて、悔しくて、泣いてしまったのをよく覚えている…。蕾についた細かな水の粒は、そのとき零した涙を彷彿とさせた。


「どうだい?」

 と、ふいに背後で声がした。


 ふと振り返ってみると、そこには後藤さんが立っていた。やっぱりわたしと同じように黄色のレインコートを着て、ニコニコしながらこちらを見下ろしている。


 後藤さんは、あともう少しで四十歳に手が届こうかというくらいの、ちょっと小太りの男のひとだ。その口元にはいつもひとなつっこそうな微笑が浮かんでいる。どことなく学校の先生みたいな印象を受けてしまうのは、丸縁の眼鏡をかけているせいかもしれない。少し後ろに後退しはじめている生え際なんかは、その優しげな雰囲気のせいか、滑稽というよりは、むしろチャーミングに感じられた。


 後藤さんは、この職場のなかでわたしが一番頼りにしているひとだ。そして同時に、一番親しみやすいひとでもある。仕事を一から丁寧に教えてくれたのも、やっぱり後藤さんだった。


「どれ」と、言って、彼はわたしのとなりにしゃがみこむと、わたしが育てているバラを興味深そうに観察した。そして何秒間の間黙ってそのままでいたあと、横を振り向いてわたしの顔を見ると、

「うん。このぶんだときれいな花が咲きそうだね」と、言った。


 そう言われると、嬉しくなって思わず笑みがこぼれてしまう。最初の頃は上手くいかなくて本当に苦労したのだ。一度、高価なバラの花を自分の不注意から全部枯らしてしまったこともあった。

「順調にいけば、明日にでも咲くんじゃないかな」と、後藤さんはつけ加えるように言った。


 わたしはもう一度改めて、自分が育ててきたバラに目を向けてみた。明日ここへ着た頃にはもう花が咲いているのかもしれない、そう思うと、自然と気分は高揚した。


「…この仕事って世話とか色々大変だけど、こんなふうに自分が育てた植物がちゃんと育ってくれると嬉しいですよね」と、わたしは後藤さんの方を振り返りながらそう言ってみた。


 すると、後藤さんは短く頷いて、「僕がこの仕事を続けていられるのはそれがあるからなようなもんだね」と、答えて、少し笑った。笑うと目尻に深い皺ができる。それから後藤さんはおもむろに立ち上がると、「僕が担当してる花、今、きれいに咲いてるんだ。今朝咲いたみたいなんだけどね。見に来る?」と、言った。


 わたしは、「もちろん、行きます」と、答えて、立ち上がった。


 後藤さんはわたしの前を黙って歩いていく。わたしも黙って後藤さんのあとに続いた。後藤さんの作業場と、わたしの作業場は少し離れているのだ。個人個人持ち場のようなところがあって、それぞれがそれぞれの植物を担当している。後藤さんは一体何の花を栽培しているんだろうな、と思うと、ちょっとわくわくした。


 後藤さんの受け持ちの花壇には、紫水色の花が咲いていた。見たことのない種類の花で、星の形を立てに細長くしたような花びらの中央に、ピンク色の色素がぼんやりとにじむように広がっている。花びらの紫水色の色彩は、目に冷たいような透き通った色をしていた。そのせいか、その花を見ていると、きれいだなと思うの同時に、何か哀しみに似た感覚を感じてしまう。

 

 もっとその花をよく見てみたいと思って、わたしはその場にしゃがみこんだ。


「雪溶草っていうんだ」と、わたしのとなりから声が聞こえてきた。

 ふと振り返ってみると、いつの間にか後藤さんもわたしのとなりにしゃがみこんで花を見つめている。その花を見つめる彼の瞳には、気のせいもしれないけれど、何か失われてしまったものを見るような淡い光があるように思えた。


「ユキドケソウ?」と、わたしは彼の言葉を繰り返した。


 すると、後藤さんは軽く頷いて、「ヨーロッパが原産の種の花でね、春の、ちょうど雪解けの季節に、川辺に咲く花なんだよ」と、説明してくれた。「雪解け水のせいなのかどうよくわからないけど、透き通るようなきれいな紫色の花が特徴なんだ。日本に来たのは明治のはじめ頃なんだけど、あんまり知られてないね」


 わたしは後藤さんの説明に耳を傾けながら、改めて目の前に咲く、紫水色の花を見つめてみた。見つめているうちに、今見えている視界のなかに重なるように、まだ所々に雪が溶け残る川辺に、春の初々しい日差しを浴びながら、どちらかというと控えめに蕾を広げる花がふうっと浮かびあがってきた。


「今年から実験的にいれてみようっていう話になったんだよ」と、後藤さんは続けた。「実を言うと、この花をいれてみようって社長に提案したのは僕なんだ。日本ではあんまりなじみのない花だから、まだ受容があるかどうかわからないだけど、個人的にちょっと思い入れがあってね、それで前々からどうしても入れてみたかったんだよ」


 この花に一体どんな思い入れがあるのだろうと思ったけれど、口に出しては何も言わなかった。後藤さんの花を見つめる表情がいつもよりも真剣で、そんな真剣な表情を見ていたら、軽い気持ちで訊いてしまってはいけないような気がしたのだ。


 もう一度、目の前に咲く、可憐な感じのする花に目を向けてみた。花は雨に濡れて、たださえその涼しげな色彩をより一層涼しげな感じに見せていた。


 そういえば雨が降っているのだ、と思った。そのことを今さらのように思い出した。雨が地面をやわらかく濡らしていく音と、自分が着ているレイコンートを雨がパポツポツと打つ音が聞こえている。その両方の音を、意識して重ね合わせるようにして聴いていると、それはとても美しい協奏曲のように感じられた。


 そして、美しいのと同時に、ちょっと哀しい感じもする。





 




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