05/03 春眠
目が覚めると電車の中だった。たららん、たららん、と、規則的なリズムの音と揺れ。どれくらい来ただろうか。窓の外を見ると、知らない町並みが続いている。薄ぼけた様な灰と汚れた緑。
車両の乗客は、僕の他に三人くらい。若い女と年寄りの夫婦。若い女は化粧道具を空いた座席にぶちまけながら、携帯電話を弄っている。夫婦の方は穏やかな様子で何事か話しているが、内容までは聞こえてこない。
静寂。
レールの繋ぎ目を踏む車輪は跳ねる音や、車両の連結部が軋む音、それから女が化粧品を床に落とす音が喧しいはずなのに、僕はこのノイズだらけの空間に、その言葉を覚えた。
静寂。
目が覚めるとベッドの中に居た。掛け布団の隙間から、ひやりとした空気が流れ込んできて、裸の背中を撫でてゆく。
「ねえ、もう昼過ぎだよ」
僕の向かいで彼女は囁く様に言った。あれ、もうそんな時間なんだ。でも、僕はまだ眠いよ。
彼女の頬に触れる。やっぱり少しひやりとした。くすぐったかったのか、彼女はクスリと笑う。そうやって彼女の柔らかな頬や、コリコリとした耳や、脆そうな首や、少し肌の荒れた肩の感触を確かめていく。愛おしくて堪らなくなって、僕は彼女を抱き寄せた。
ただ触れ合っているだけなのに、何故だかこそばゆくて、思わず笑いが出る。
「もう服着ないと」
服を着てしまった方が、きっと寒いよ。
目が覚めるとトイレの個室だった。駅前の公衆トイレだ。安っぽいパーティションに区切られた狭い空間の中で、僕はズボンも下ろさずに座り込んでいた。
ドン、と右手の壁が太鼓を打つ。そして、耳をつんざく声がする。
「調子扱いてんじゃねえぞ」
酷く聞き取り難い声だったけれど、たぶんそう言った。もう一度ドンという。女の声が後に続いた。
「超ビビってんじゃん、やめてやれよ」
と言って、嬌声を上げる。言葉とは裏腹の意味がある様だった。
ドンとかガタンとか、隣で酷い物音がする。男の怒鳴り声と女の笑い声、神経に障るその声たちの合間に、ひ、と息を呑む音が聞こえた。たぶん、別の女のだ。
「てかさ、有り得なくない? ひとの彼氏に手ェ出すとかさ」
上擦った醜悪な声で、笑う女が言う。それで何となく事態が飲み込めた。
自業自得というやつだろう。ご愁傷様としか言い様が無い。何にせよ、僕には関わりの無い事だ。
関わりの無い事だ。
だから、ここから出してくれ。
目が覚めると自分の部屋だった。壁にもたれかかってテレビを見ている。時間は夕方五時くらい。報道番組は交通事故の現場を写している。
関わりの無い事だ。
目が覚めると足下に口紅が転がってきた。関わりの無い事だ。
目が覚めると彼女が泣いている。関わりの無い事だ。
目が覚めると個室のドアを激しく叩かれている。関わりの無い事だ。
目が覚めると電話が鳴っている。関わりの無い事だ。
いや、関わり無くなんかない。飛び起きると、もう待ち合わせ時間になっている。携帯電話を取り上げると、ディスプレイには彼女の名前。平謝りしてからものの数分で支度を済ませ、急いで家を飛び出る。
待っていた彼女はあからさまに不機嫌で、ご機嫌を取るのに一日中必死だった。
買い物帰りに高校へ立ち寄る。中学校時代の友人が、久しぶりなんて言いながら笑いかけてくる。僕は彼の事をあまり好きではなかった。
一時間近くも昔話をされて、ふと気付いたら彼女が居なくなっていた。慌てて探しに出るけれど、どこにも居ない。教室にも、渡り廊下にも、彼女と出会った部室にも、姿は無い。
静寂。
目が覚めると見慣れた天井があった。彼女の部屋の天井。肩の上には彼女の頭が乗っている。パジャマの背中が汗でぐっしょりと濡れていた。
何か怖い夢を見た気がする。
胸が苦しくなって、思わず彼女を思いきり抱き締めた。眠ったままの彼女は、唸りながら押し返そうとするけれど、僕は決して離さなかった。
例え今が夢でも良い。夢ならいっそ、このまま目を覚まさないでくれ。一生、ここに居させてくれ。
目が覚めると
一日一話・第三日。
最近見た怖い夢のサルベージ。
「ねむい!」とお題をくれたtaytayさんに感謝を。