アプマーシュ 9
「明日はやっと駅に着くのか。なんでこんなにしんどいんだろう」
「なんだ、今日は2日目か?」
「死ね」
夜になって、窓の外はただの闇になった。しかし、見えたところでどうせ荒野が続くだけ。さしたる意味などないのだから何も考えることはない。
「私は楽しいぞ。生きているだけではにかみ笑いが止まらない」
「軽く病気の域だな」
「陽気だから陽性なのだ」
セバスは旅行記を開き、何かを書いている。
「そうだそうだ、さっきから聞こうと思っていたのだ。どうしてその旅行記は白紙だらけなのだ?てっきり恥かしいことが網羅されているかと思いきや、何も書いていなかったのでつまらなかったのだが」
そういうクオンに対して、セバスは旅行記を高く上げ、顔を隠した。
「どうしたセバス?何を書いたのだ、見せてみろ」
「いやだって言ってんじゃん。プライバシーの侵害だ」
「なにを言うか、私たちの間にプライバシーなどあっていいわけがない。さあ、全てを共有しようではないか」
「なんだよ全てって、クフォンと分け合うものなんて何にもないよ」
「いいではないか。主に下着を共用しようではないか」
「どんだけ頭わいた変態だお前はっ!」
「私はTバックなるものをはいてみたい」
「気持ち悪い!だいたいそんなものはかないし!」
「なんだ、かぼちゃパンツ派か」
「はくかっ!」
「話がそれるなまったく。そうそう、秘密を持つのは互いのためによくないという話だった」
クオンは立ち上がる。セバスは嫌な予感がした。
「さあ、見せてみろ。私が文章を添削してやろう」
「僕が旅行記をどうかこうが僕の自由だ!」
「そう言うな。さあ、おじさんにすべてを委ねればいいんだよ」
「セクハラおやじ!・・・やめろ、やめろやめろやめろ!!ひゃっ、やっ、やめ・・・」
「んん~?セバスは脇が弱いな~」
「やっ、ちょっ・・・ひゃん!」
「ふははははははは」
旅行記が奪われた。
「なんだ、ずいぶんつまらないな。これではただの出来事の羅列ではないか。その時に自分が何を思ったか、それが重要であるのに・・・」
「地獄に堕ちろくそごみやろぉぉぉぉぉぉ!!」
セバスは右足でクオンの左膝を踏み、左膝をクオンの顎にクリーンヒットさせた。
それはすなわち・・・シャイニングウィザード!!
床に倒れ、悶えるクオンの腹に追い打ちとばかりに蹴りをくらわせ、旅行記を抱きしめるように抱えると、個室を飛び出した。
「死ね!死ね死ね死ね死ね!!むしろ僕とボス以外の全人類が死ね!箱舟を残して地球は水没しろ!!」
こうして若者の心は荒んでいく。この場合、責任が誰にあるのかは言うまでもない。
ふと、大股に進んでいたセバスの足が止まった。今度は誰かにぶつかったわけでもない。夕食が終わったので、客は皆個室に戻り、明日に備えて眠ったり談笑したりしているのだろう。セバスの視界には誰もいなかった。セバスの足を止めたもの、それは旋律だった。
「バイオリン・・・?」
どこかの部屋から響くバイオリンの旋律。それが通路いっぱいに広がって、セバスの心を震わせた。
「ヴァ―――ティ―――ム―――ス―――ファ―――」
覚えている音でソのフラットを出してみる。それに合致する音が確かに聞こえてくる。それはつまり、引かれているのはエリザベート=エヴァンズのヴァティムスファではなく、別のバイオリンだという事だ。
「なんだっけ、この曲」
何度も聞いたことのある曲だったが、それだけにタイトルが出てこない。セバスは目を閉じて聞き入った。
「パッへルベルの『3つのバイオリンと通想低音のためのカノンとジークニ長調』第一曲だな。通称『パッヘルベルのカノン』普通3つのバイオリンで追いかけ合うように演奏されるのだが、1つのバイオリンでここまで表現できるとは、見事だ」
いつの間にか自分の右後ろに会った気配に対して、セバスはひじ打ちを食らわせた。
「うっ、ぐっ・・・」
先ほど思いっきり蹴りを食らった部分なので効果覿面だった。セバスは振り返り、左手で痛みに屈んだクオンの前髪を掴んだ。
「せめてなんか喋ろうっ!?」
右拳を掲げたセバスにクオンは懇願する。彼の身体は悪ふざけの末にボロボロだった。
「ふん!クフォンなんか軽犯罪で投獄されて無念のうちに衰弱死すればいいんだ」
髪から手を放す。クオンは背筋を伸ばし、襟を正した。
「ムキになるところがかわいいな、セバスよ。つまんでもいいか?」
「お前は本当にもう救いようのない大人だな!」
「自覚はしている」
「改めろっ!」
「やーだー」
「子供かっ!!」
バイオリンの音が止まった。セバスの左側の扉がスライドして開き、真新しいバイオリンを手に持ったエリザが出てきた。
「あら、いたのね」
「おお、エリザ!君を誘おうと思ってね。街に着いたらディナーでもいかがかな」
「いやよ、だってあなためんどくさいもの」
即答だった。
セバスは噴き出した。その瞬間エリザの視線がセバスの方を向いたので、慌ててクオンの背後に隠れた。
「ふふ、女心と秋の空というからな。気が変わったら言ってほしい。ではもう一曲お願いできるかな」
「それならいいわよ」
エリザはバイオリンを構えた。プロなのに随分と出し惜しみをしないんだな、とセバスは感心する。
通路に旋律が溢れた。
ブラームス『アヴェ・マリア』
「すごい・・・・・・!」
いつものほほんとしている、というかぶっとんでいるエリザのまるで別人のような魂のこもった演奏。旋律に色があるとしたら黄金色だろうか。その色は荒みきったセバスの心に確かに潤いを取り戻させた。
曲が終わって、旋律が止まった。エリザが息をはいて、バイオリンを体から離すまで、セバスは身動き一つできなかったし、クオンは目を閉じたままだった。
「素晴らしい演奏だ。感謝する」
拍手喝采。・・・といっても2人だけだが。
「そうだ。1つ聞きたかった。どうして君はバイオリニストをやっているんだ?この時世に旅を続けるなど危険以外の何物でもないのに」
眼鏡を中指で上げながらクオンは尋ねる。対するエリザの答えは単純明瞭だった。
「好きだからよ」
笑顔とともにエリザは言い放った。
「なるほどそうか。ありがとう、では私たちはこれで失礼する」
「ええ、さようなら」
「さようなら」
最後にセバスも言葉を返した。それに対してエリザが激高することはなく、胸をなでおろした。