アプマーシュ 7
クオンが腕を組もうとした時だった。背後で扉が開いた。出てきたのは初老の男性。先ほどクオンが話していた執事っぽい男だった。
「やや、どうなされましたかな、こんなところで。逢瀬か何かですかな、おうらやましい」
セバスはイラッとした。
「はっはっは、御冗談を。私にとってこんなちんちくりんは路傍の草ですよ」
「お前は死ね!」
セバスの靴のヒールがクオンのつま先を襲った。
「ぐぎゃああああああ!」
変な声が出た。
「はっ、はっ・・・ところでご老人。ご老人はどうしてこんなところに?」
悲鳴を上げつつも紳士さは崩さない。クオンの執念が感じられた。
「ええ、私はちょっとした野暮用でしてな」
「ふーん、そっかー野暮用かぁ。背中に隠していたケースからバイオリンを取り出してー、おもむろに右手で掴みー、そのままフリスビーの要領でー・・・ってヴァティムスファ!?」
ヴァティムスファは宙を舞う・・・その直前でクオンの手に渡った。
「ほう、これは良いバイオリンですね。捨ててしまうにはもったいないのではないですか?」
「ぅぅ・・・・・・」
老人は唸り声をあげて膝をついた。額には脂汗が流れている。
「展開早いな・・・・・・」
唸る老人とバイオリンを片手に肩をすくめるクオンを前にして、誰にともなくセバスはつぶやいた。
「いくらだ・・・?」
「はい?」
突然の老人の言葉にクオンは目をぱちくりさせた。
「いくら出せばそれを渡す?」
老人は真剣な目でクオンを見上げている。クオンは首をかしげつつ、バイオリンを眺めた。
「なるほど、あなたはどうしてもこれを破壊したいのだと。ああ、わかりました、そうですかそうですか。さてはあなたはヘビメタロッカーですね」
「クフォンの発見は決して的を射抜かないね・・・」
セバスが突っ込むのはクオン相手だけだ。彼女は人見知りなのであった。
「いくらと言われれば私としても渡さざるをえませんね。おっと失礼、私としても渡したいとは思います」
「なぜわざわざ『わたし』でつないでみちゃった!?」
「そうですね・・・・・・2ドルで」
「安っ!?行きがけの駄賃レベルじゃん!!」
老人は怪訝な顔でクオンを見始めた。彼が真剣なのか、冗談を言っているのかを測りかねているようだ。まあ、言うまでもなく彼の人生そのものが冗談みたいなものなのだけれど。
「まあ、私の所有物ではなく、恐らくエリザのヴァティムスファとお見受けするので渡そうが壊されようが別にかまわないのですが、事情をお聞かせ願いたい。こう見えて私、好奇心の塊のような男でね。友人はみな塊男と呼ぶのですよ」
中指で小粋に眼鏡を上げた。ちゃんと様になっている所がセバスの苛立ちを加速させる。
「その呼び名は好奇心関係ないじゃん!そしてお前に友達はいない!」
「断定するなっ!」
否定したものの、その必死な感じが全てを物語っている気がした。
「仕方がない。話したら渡してくれるんだろうな?」
老人は丁寧な口調をやめたらしい。クオンを前にしてそうするのが馬鹿らしくなったというのが本音かもしれないが。
クオンはその場に体育座りした。個室ではなくここで聞く、ということらしい。しかし手足の長い大人の男の体育座りほど様にならないものはなかった。それを受けずにセバスと老人は座らない。
「私はエヴァンズ家の執事をやっているものだ。今はエリザベートお嬢様の付き人をやっている」
「セバス、セバス・・・」
クオンがセバスをつつき、呼んだ。
「なにさ、クフォン。人が話してる時は静かにって先生に習わなかったの?」
「エヴァンズって・・・・・・何だ?」
「貴様の脳みそはスポンジか何かかっ!?」
無視して、老人に話を促した。老人もクオンを無視する。
「そのバイオリンはお嬢様の亡きお父上がお嬢様に贈られたものでな、お嬢様はそれはそれは大事にしていた」
「それなのになんで・・・」
「壊れているからだ」
言われてセバスはクオンが大事そうに、まるで最愛の女性の様に抱えていたバイオリンを見た。専門家でも何でもないセバスにはかなり古くて傷んでいる、ということしかわからなかった。
「本来楽器は定期的にメンテナンスをしなければすぐに音が狂ってしまう。しかしお嬢様はそのバイオリンを片時も手放そうとせず、あまつさえ名前をつけ、その日のテンションによっては一緒に食事まで取ろうとなさる」
「うわあ・・・・・・」
本気で救えない気がしてきた。あるいはこの場合、報われない、とでも言った方がいいのかもしれない。
「あれ?ていう事は『ヴァティムスファはソの音が嫌い』って言うのは・・・」
「そう、ソのフラットが出ない。どうしても半音下がってしまう。それなのにお嬢様はどうしてもこのバイオリンでコンサートに出るといって聞きわけになられないのだ」
「・・・・・・」
セバスは言葉が出なかった。何というか、あきれてしまって。
「それでご老人はそれを壊すことで未練を断ち切ろうと?」
黙って聞いていたクオンがふと口を開いた。
「そうだ。さあ、事情を話したのだから渡してもらおう」
老人はいつの間にか胡坐をかき、前髪をいじって遊んでいるクオンに向かって手を伸ばした。
「・・・・・・」
クオンはその指先をなめまわすようにじっと見つめる。それどころかあまつさえ舌を出した。
「なめるなよ」
「なめないさ。若きセバスの白魚のような手であれば私の唾液で余すところなくなめまわすことも吝かではないのだがね」
セバスは自分の発言に激しく後悔した。
「ご老人。いや、ここはあえてこう言わせてもらおう。ご神木」
「なんでっ!?」
「あなたの望みはかないそうにはありません。つまり、私はこの彼女のヴァティムスファをあなたに渡すわけにはいかない」
「なにっ!話が違うぞ!」
「話の1つや2つ簡単に違えますよ、私はね」
クオンはゆっくりと立ち上がり、前髪をいじっていた手で老人の背後を指差した。
「美人のためですから」
驚いて老人は振り返る。