マージ 朧
学校が終わると、レイジは自宅にもどった。
レイジの自宅は東京近郊のベットタウンで、東京都再構築化計画の再開発からもれた住宅街である。
中流階層が主に住む土地で、中古マンションや住宅団地、大型郊外店スーパーが周囲を固めている。
環境建築型タワーマンションの巨大な塔のような外観とは対照的に、レイジの住む自宅マンション周辺の建築物は、前世紀の姿を色濃く形を残したのもばかりだ。
東京都再構築化計画以降、老朽化の進むビルを補修するのに、ナノテクを利用する方法が主流となっている。
安価で短時間、しかも全盛期の建物をそのままの形で維持できるため、重宝がられていている。
また、ナノ補修は旧市街の町並みや風情を保全保護する意味合いもあった。
事実、大手スーパーなどが進出しているが、下町情緒も未だ健在していた。
レイジは中古マンションで、母親と二人暮らしである。
レイジのマンションもナノテク補修が施されたリフォームマンションであった。自宅ダイニングリビングルームのテーブルに伝言があった。
仮象体メッセージが主流に時代に、メモ用紙に手書きというきわめてアナログな方法で、伝言は残されていた。
「暖めて食べること。そして、なるべく自炊を心がける。コンビニ弁当は避けること」
母からの伝言だった。几帳面で丁寧な字は、母親の性格を現している。
カウンターキッチンのコンロの上の寸胴に入っているのはカレーだった。
母の職業は、バイヤーである。
腕利きのフリーのバイヤーで、複数の商社と契約し、日々商品の商談と買い付けに国内および海外に奔走している。
レプリケーターなどのナノテクにより安価に商品が製造できる時代、ヒット商品を探し出し、選定する能力は貴重な才能だった。
海外に出張の為、家を空けることが多い。
近々また、海外に出かける予定で、今日も帰りは遅いようだ。
レイジは自分の部屋に入り、制服から部屋着に着替えながら、黒光りするボディのアクセスポイント用のホームターミナルを起動する。
仮想現実への没入は、通常VRデバイスを装着してネットに接続するが、レイジには必要なかった。
レイジは部屋内のエレメントの濃度を確認する為、精神統一し、エレメントたちの存在を感じ取ろうとする。
この程度ならば、脳内の<マージ>により、感覚を研ぎ澄ませれば十分に知りうることだった。
レイジが行おうとしているのは、特定仮想空間への没入接続だった。
特定仮想空間へ結節点の形成――エレメントを仲立ち《インターフェイス》にし、さらにエレメントでゲートウェイを構築し、仮想空間への扉を開く。
レイジの目の前に突然、小柄な女性が出現していた。
白を貴重にしたミニスカートのコスチュームにニーソックスと、まるで電子コンパニオンのようないでたちだった。
「……まだ出てくるなよ、朧」
「別にいいでしょ」
朧と呼ばれた小さな女性は笑った。
朧――<マージ>と呼ばれるナノウェア型インプラントAIであり、ソフトウェアエージェントである。
脳内のAIというより、脳内に住む精霊という言い方が適している。
ファンタジー風に言えば、契約した使い魔そのものだった。
エレメントの位相制御による発光機能を利用し、現実世界へ仮象体として投射出現できることもできる。
朧は今仮象体モードで、現実世界へ出現していた。
仮象体――エレメントを媒介にした仮想物体のことであり、ホログラムのみならず触覚情報を付け足すことで、実在しているように錯覚させることができる。
「わたしが開けようか?」
朧がレイジに言った。
「……いや、これくらいできなきゃ、ウィザードじゃない」
レイジの周りのエレメントが励起し、活性化していく。
仮想現実へ接続を行うには、十分な量だった。
レイジは目を閉じ、精神を統一する。
「……よし」
準備が終了すると、レイジはベッドに横たわる。
「ゲートウェイ開放と同時に、違法接続用の追跡ソフト対策を展開してくれ」
レイジの命令に、朧の瞳に電子の光が瞬く。
「了解……じゃあ行くわよ」
朧の言葉に従い、レイジは目を閉じた。
意識の拡張を感じると、幽体離脱したような飛躍感が全身を包んでいた。