ナノテク環境概論
「――みんなが知っているとおり、と……都市環境の大気汚染やヒートアイランド現象による気温の上昇化、そして当時流行していた都市型テロ対策に対し、そ……、その解決策として使用されたのがナノテクです」
大型スクリーンをバックに教壇に立ち、女性教師が授業を行っていた。
「ナノテクによる局地的リフォーミングを行うために散布されたのが、て……、東京の都市環境を管理する、ゆ……、ユーティリティー・フォグレット・ナノマシン<エレメント>です」
ところどころ言葉を噛む教師の説明に、薬師レイジは欠伸を噛み殺した。
授業が始まって何度欠伸を飲み込んだか分からない。
実に、退屈極まりない内容だった。
特にナノテク学は基礎中の基礎であり、レイジが熟知している内容だけに、余計だった。
ナノテクが世間に溶け込んでいる以上、ナノテクに関する一般教養は必須項目であり、一般学科に組み込まれている。
ナノテクは国家的戦略を担うため、授業に取り入れている学校は少なくない。
レイジが通う学校は、ナノテク制御の実習授業もある。
ナノテク学を授業で行うことにより、国から助成金を受けている。
だが、ナノテク環境概論はナノテク学でも特に基礎的な内容を延々と繰り返すため、ナノテクに詳しい人間にはつまらないものだ。
教科書を見る振りをしながら、レイジは授業を聞き流していた。
本日最後の授業であり、疲労は溜まり、眠気はピークに達している。
講師の川越みなみは女子大生といっても、おかしくないほどの若い教師だ。
大学院を出た程の才媛だが、就職難のため、大学や企業の研究室に入ることはできず、臨時で教師をやっている。
ショートカットの童顔のため、美人というより可愛いという言葉がよく似合う。
男子に人気はあるが、対照的に女子にあまりいい印象は無い。
ベテランの教師のような軽妙で、分かりやすい授業には程遠く、たどたどしい説明に、余裕の無い授業はおおむね生徒、特に女子に不評であった。
「――エレメントは……今こうして、わたし達の教室内にも、そ、存在します。……この空気中を漂っているわけです。あっ、……この表現はあまり正しくないかな……」
みなみは焦りながら、
教師の背後の大型モニターにエレメントの構造図が映る。
分子サイズのナノマシンだった。映像の端には分子サイズを示す縮尺率が入っている。
無数のナノマシンがアームを伸ばし、格子状に幾重にも組み合わさっているナノデバイスの構造体へと切り替わった。
「先生、さっきから噛みまくりでーす」
レイジの後ろの内村祐樹から揶揄が飛ぶ。レイジは思わず吹き出した。
「うるさい……! どこ説明するか忘れちゃうでしょ。……エレメントは通常エミュレート機能により大気を模しています。環境の調整のみならず、大気汚染物質や伝染病、テロ兵器の濾過防止フィルター、そして情報処理媒体としての側面も大きく、主に広告や情報の提供を低コストで行うことができます」
エレメントを利用した広告の一例がモニターに映し出される。
「最近東京では、新型のインフルエンザが流行ってますけど、これは現在のエレメントのバージョンでは対応できないタイプだからです。インフルエンザの感染拡大を防ぐために、大々的なアップグレードが行われる予定です」
みなみがモニターから生徒の方へ向き直る。
「エレメントもそうなのですが、ナノマシンは厳重なプロテクトが施されているので、それを無断で書き換える事は違法行為です。ところがこのナノマシンにハッキングを行い、構造を書き換える<ナノ・ハッカー>という存在が最近問題視されています」
レイジの興味を引く内容が教師の口から出たとたん、授業の終了を知らせるチャイムが鳴った。
眠気は覚め、レイジの体に活力が戻る。
「……あー、次回は引き続き、ナノテク環境概論に関する講義を行いまーす。期末テストの重要ポイントなので、しっかり聞くように!」
生徒が次々と勝手に行動する中、みなみが釘を刺す。
「……あーっ、マジだるかった」
レイジの後ろの席からの裕樹のボヤキ声に思わず笑った。
「あんまからかうなよ」
「川越ちゃん、カワイんだけどさあ……。授業ほんと面白くねえよな」
「ったく、お前は」
「ツッコまれて、キョドった顔がたまんねえんだよ。ぜったいMだぜ」
「……発想が厨坊なんだよ。否定はしないけど」
そういいながらレイジは大きく身体を伸ばした。
「ホームルール終わったら、マックにでも行かねえ?」
祐樹がレイジを誘う。
「悪い、今日はちょっと用事があるんだ」
「あ、そう。どこ行くの?」
「母親のお使い。ちょっと頼まれてさ」
レイジはとっさに嘘をついた。
「ああ、そういえば知ってか?」
「何が?」
「幕張一帯でのエレメントのシステムダウン」
祐樹の話に、レイジは身構えた。
「広告関係が機能障害起こしたんだと」
「……へえ」
「多分、<ウィザード>によるテロだよ、テロ」
祐樹の話を聞きながら、レイジは後で確認する必要性を感じていた。
急に裕樹はレイジに顔を寄せる。
「……でさあ、話は変わるんだけどさあ」
裕樹は指先大の記録媒体をレイジに差し出す。
「……またかよ」
「頼むよ」
裕樹は手を合わせると、外部端末のホログラムウインドウを表示する。
この程度ならば、エレメントを介さなくても本体の表示能力で映し出せる。
「オフィリアの最新ハイパーアルバムが発売されてるんだけどさあ……ちょっと高すぎて手が出ねえんだよ。どうしても欲しくてさあ……。ディーバノイドと収録したロンドンの仮想世界データ入りのコンプ盤。なんとかデータ入手してくんねえかな……?」
祐樹は外部端末を弄びながら言った。
オフィリア――Jポップを牽引するトップアーティストの一人である。
デビューすぐ、人々を魅了し、ミュージックシーンに躍り出たポップ・クィーンで、アイコニック社のヒット商品にして、ディーヴァノイドである。
私生活を一切明かさないことから、人間であるのか、仮想であるのかその存在は謎に包まれている。
ハイパーアルバムとは曲のみならず、ビデオクリップや画像データ集、ライナーノート、歌詞、ディーヴァノイドの複製プログラム、さらに歌の世界観などを仮想現実化した音楽世界が収録されている。
ディーヴァノイドと仮想現実データにより、音楽と共に、アーティストの世界観を体感できる双方向型体験音楽である。
ディーヴァノイドはソフトウェア・エージェントとしても単独で利用でき、歌のみならず対話や会話が可能である。
「オフィリアってアイコニック社の……?」
「そ」
レイジの中で軽い不快感が沸き起こっていた。アイコニック社のメディア戦略の巧みさに、毎回のことながら腹立たしさを覚える。消費者を巧みに取り込むやり方は反吐が出そうだった。
「……どうした? 怖い顔して」
「いや……。ディーバノイドとデータヴァースのデータ入りだとこれじゃおさまんねえぞ」
「うっそ」
「――千円、まあデータが入手できたらの話だけど」
「いつも悪いなあ」
「……まあ、探してみるわ」
手を合わせ、謝罪する友人に、苦笑しながらレイジは記録媒体を受け取る。
「ディーバノイドねえ……」
レイジは思わず呟いた。
「レイジはどうなの? こういうの」
「あんま興味ないね」
もっと関心のあることが、レイジの頭を占めていた。
「何……。男同士で、また悪いことでも相談してんの?」
横から口を出してきたのは、川越みなみだった。
「な、なんすか、先生」
記憶媒体を隠しながら、祐樹が尋ねる。
手際のよさに、レイジは舌を巻いた。
「実習課題。分子配列制御の結晶構造体の提出。二人とも忘れてるでしょ?」
すっかり忘れていた。
ナノマシン制御による分子構造の製作実習課題である。
ナノマシンで絵を描くことと似ていた課題である。
外部デバイス型のインターフェイスを用いて、ナノマシンを制御するのだが、<マージ>に慣れているレイジは苦手な作業だった。
レイジくらいの歳でナノテクを胎内に組み込んでいる者は珍しい。
エンハンスメントを目的とした物はもとより、医療用ナノテクなどを胎内にインプラントするなど、今だ抵抗感を持つものも少なくない。
グレイ・グーなどに代表されるナノテクテロやフランケンシュタイン症候群のようなナノテクが制御不可能となり、人間を排除する行動を常に想定する考えは根強い。
人為的進化や能力の飛躍を求め、ナノマシンをインプラントする人工主義者を、人として、有りのままを望む自然主義者にとって、人工主義は忌むべき存在であった。
「……すみません。忘れてました」
レイジは正直に言った。
「こら、早急に提出すること。評価に響くわよ。レイジ君はナノテク学は成績いいんだから」
「だって」
祐樹が笑う。
「……うっせえなあ、お前はどうなんだよ?」
「俺はもうできてるよん」
祐樹の要領の良さに、レイジは思わずむっとしていた。