解放区
レイジは氷壁を裏口から潜り抜け、仮想現実世界から、再び電子の世界へ戻っていた。
今いる世界は、数値化的なデータに支配された世界であり、仮想世界のように疑似体験用の五感情報が絶えず入出力されているわけではない。
光が飛び交うような、データが常時やり取りされている、さまざまなコードに彩られたプログラムとソフトウェアの世界を、五感で認識しやすいよう生身的な情報に変換翻訳し、さらに乗り物の航法システムや制御系AIへ神経を直結して思考制御する為のアプリをプラグインすることで、五感で感覚的に認識でき、神経レベルで迅速かつ容易にデバイスを制御することができる。
レイジ自身、今は極めて作業ファイルに近い存在と化していた。
作業ファイル化したレイジはマージ解体の為の業務を行なっていた。
レイジはマージのナノチップの構造内容を完全に把握していた。
オフィリアの言う通り、マージは三重構造だった。
成長管理ブロックとセキュリティシステム、そして情報処理ブロックの結合型マージである。
セキュリティブロックは機能が完全に停止し、現在、マージの各結合部の分離および、データの転送作業が進行し、成長管理ブロックのデータを抜き出している。
全データのダウンロード終了後、アンインストール作業の最終段階である、マージのCPUといえる核チップ区画の解体作業に入る予定だった。
ダウンロードは、オフィリアの論理人格データが進められている。
――……論理人格のダウンロード終了。DNAメモリー部へ作業を移行します。
朧が作業の進行状況を報告する。
朧とのコミュニケーションは脳内チャットに切り替わっている。脳内チャットは言語通信のみならず、さまざまな情報を添付し、同時に行なえる為、情報量のみならず伝達速度も格段に上がる。
特に今のような作業の場合は、そのほうが都合がよかった。
――……DNAメモリー内のデータが別の区画に流出しているようです。
朧の突然の報告に、レイジは驚く。
――どういうことだ……?
――確認します。
脳内にDNAメモリーのネットワークチャートが映し出された。
――DNAメモリーのデータがオーナーの記憶野にバイパス経路されているようです。データのみならず、論理人格の仮想精神活動もフォードバックしています。
説明を受けても、レイジには意味が分らなかった。
――マージのマスターの記憶野へ接続し、直接確認してみますか?
――ああ。
明那の記憶を覗き見するようで気が引けたが、レイジは承認した。後で問題が起きないよう、見定める必要があった。
明那の記憶野へアクセスすると、膨大な情報量がレイジの脳内に流れ込んできた。
翻訳された明那の脳内区画は、まるで澄み切った美しい膨大な記憶野の資源の海、いや宇宙空間そのものだった。
明那の記憶の一つ一つが精神活動とともにさまざまな成分として、混ざり合い、溶け合い、記憶区画を満たしている。
先ほどまで居た電子世界とはまったく異なる世界だった。
どちらかといえば、視覚的な世界である論理空間とは一変し、むしろ流れや圧力のような触覚的な感覚が全身を包む。
広大なる深海をダイビングするような感じだった。
記憶野の情報は確認することも認識することも困難である一方、レイジの動きに敏感に反応を示す。
温かく心地よい感触に、レイジも触発され、内に潜む過去の遠い記憶がかすかに蘇ってくる。
そんな記憶宇宙に、固形状のデータが幾つも浮遊していた。不法投棄された粗大ゴミや残骸が漂っているようだった。
明らかに異質なデータに対し、記憶の海は拒絶反応を起こし、互いにせめぎあっている。
記憶の海を泳ぎながら、投棄されている情報をレイジは確認する。
――開発中のソフトウェアエージェントと付属関連データ、……DNA解析データに、著作権保持プロテクト規格の動画……なんだこりゃ?
明那そのものの記憶がウェットでソフトな感触に満ちたものならば、オフィリアの活動記録はハード、あるいはソリッド的な感覚であった。
――記憶野へのバイパス……オフィリアの仮想精神活動の記録が、記憶野へ流れて、明那ちゃんの記憶と混在しているみたい。こんなのが流れ込んだら、そりゃ頭が痛くなるわ。
朧の情動活動が回復していた。人間味が増し、いつもの口調に戻っている。
状況分析に、情動活動は必要不可欠だった。
――何のために……?
レイジは朧に尋ねた。
――……一体化を促すためかしら。共生型ではなく、侵食制圧型だから。でも何の意味が――。
朧も情報不足のため、よく分らないようだ。
――データの変換も無しに……か?
――……うん、そうみたい。
曖昧な答えが続く。
――脳内に直接データを入出力するのは今の技術でも難しいのよ。マージの情報サーバーであるDNAメモリーは設計上容量の許す限り、情報をストックできる。でも情報を取り出す時は、あくまでマージを仲立ちにして、DNAメモリーから読込むの。ようは外部記憶装置を脳内に埋め込んでいるのと同じなのは、理解できるわよね……?
――ああ。
レイジは理解の意を示す。
――でも説明するまでもなく、記憶野とDNAメモリーは記録フォーマットがまったく違うでしょ? メモリー内のデータを、マスターの脳内にダイレクトに伝達すると、拒絶反応を起こし、データも勝手に変換され、大部分を破損しちゃう。最悪の場合、データが人格や精神を破壊しかねない。明那ちゃんが頭痛で苦しんでる原因がそれよ。
頭の中に異物を突っ込むことと同じだった。
朧の言葉に、レイジは明那が苦痛に何度も顔を歪めている様を思い出していた。
よく正気を保っていたものである。
いや、耐えられないから逃げ出したのだろう。
――マージが脳内伝達物質の制御による精神の安定を図ることはできても、思考を助けたり、天才的な発想を促すようなボトムアップ効果は望めない。マージが補助脳としての役割を担うには、幾つものブレイクスルーが必要なのよ。逆もまた同じ――。
朧の説明が続く。
――DNAメモリーはネットに転がっているような情報をストックするのは得意でも、ウェットウェア系の情報保存はあまり向かない媒体なの。記憶や経験、人格や精神活動などのバックアップは桁違いに情報量が多い上、非可逆圧縮してもオリジナルをそのまま保持することは極めて難しい……SFみたいに、事故などにより脳が破損して、埋め込まれた補助脳の保存データから、完全に脳を復元するなんて夢のまた夢――。
レイジは朧の説明に、沈黙する。
レイジの脳はマージ攻略の為に、瞑想寺院と結合化し、フル・パフォーマンスで動いているにも関わらず、創発的思考は反比例するように何も思いつかなかった。
――君の頭の中にあるアップグレードモジュール……ジャンクDNA式の情報保存形式なら可能なんじゃない……?
朧の発言に、レイジは呆れた。
――……適当ことを言うなよ。そもそもモジュールが、ジャンクDNA式なのかどうかさえも確かじゃないだろ……?
――……そうでした。
朧は自分の言葉を引っ込める。
父親が残したアップグレードモジュールに関しては何もわかっていない。
明那のことが片付き次第、早急に調べなければならない。
――……まあいいわ。どの道データは抜き出すつもりだったんだから。マージのアンインストール作業をどんどん進めましょう。明那ちゃんの記憶マトリックスのファイルチェック作業およびオフィリアのデータを抽出、その後一括ファイル化して瞑想寺院へ転送するわよ。
――……ああ。リムーバーを排除する抗体システムがある。まず、これを停止して、結線用ナノマシンを再自己組織化、アンインストール用にリフォームしろ。
――了解。
タスクバーが伸び、機能性ナノマシンが再自己組織化され、別のものに作り変えられていく。
さながら、別の素材から金を生み出そうとする錬金術師さながらだ。
――アンインストールの準備が完了し次第、各部結線をナノ単位で切断。セキュリティ・ブロックおよび記憶バイパス部からパージを実行するわよ。
オフィリアのマージはレイジや朧との接続を断ち切られないよう、比較的影響を少ない区画から切り離されていく。
――これで大分負担は軽くなるか――。
成長管理ブロックから抽出されるファイル名がレイジの眼に入ってきた。
マージの適合性や成長速度、侵食状況、マスターの健康状態など全ての経過観察データが全て記録されている。
――開発コード イモータル・プロジェクト……。これが例の……?。
仮想世界でオフィリアがレイジに語っていたことだった。
人類の永遠の夢。
ウィザードの究極の目標。
より高度に、より自由な存在へと化す方法。
オフィリアの話は、どこかカルト宗教じみていた。
――遊んでる暇ないわよ……今は作業に集中しましょう。データは教授が洗ってくれるわ。……防衛ブロックおよび記憶バイパス部終了。成長管理ブロックのデータ抜き出しはまだ時間がかかるみたいだから後回しにして、DNAメモリーのサブセクタのパージを実行するわよ。
――ああ。
進行状況を告げる朧の言葉を聴きながら、言いようの無い不安が、レイジの心を掠めていた。