アップグレード・モジュール
18:30:24 <MEDITATION.TEMPLE> LOGIN
「……大丈夫か?」
レイジは明那に尋ねていた。
「ちょっと楽になった……」
明那は笑顔を見せる。
あまりにも痛々しい笑顔だった。
レイジは何もできない、自分の力の無さを再確認した。
「……脳内ナノマシンを弄っただけだ。直ったわけじゃないからな」
「うん」
返事をする明那の声はどこか弱弱しい。
教授が指定したのは、新宿パークハイアットのスウィートルームだった。
グレイン教授がリザーブした部屋に入ると、明那と共にレイジはすぐ様瞑想寺院へアクセスした。
明那は横たわり、脳内の診断を受けている。
マージ<オフィリア>の論理人格は情報処理速度を遅延させることで、活動を停滞させている。
グレイン教授と朧は二人の目の前に浮かぶキューブを見ていた。
レイジの父から受け継いだ謎の構造体である。
「……ウィザード・フォームウェアのアップグレード・モジュールか」
グレイン教授は呟く。
「こいつが突然起動し、わたし達を守ったの。しかも超強力な防壁を展開して……。今まで情報すら開示しなかったくせに――」
朧が教授に説明した。
「おそらくレイジの脳内状態がキーファイルそのものなのだろう」
「……どおりで。いくらやっても暗号解除ができないわけだ」
朧自身何度かキューブの暗号解読にはトライしていた。
「で、こいつが解放されると、パワーアップするの?」
「アップグレードというくらいだ、君の演算能力とレイジのウィザードとしての能力は向上するだろうな」
「……そう都合よくいくのかしら」
「マスターの成長とウィザードとしての能力の覚醒に対して、マージの性能が追いつかないという事態が生じるのは当然予測されることだ。君の設計者であり、レイジのお父上である薬師キョウジは、その対策として、このキューブをオプションとして設けたのだろう」
「……オヤジが」
レイジは父親の話に大きく反応した。
「マージのデータ貯蔵庫の根幹を担うDNAメモリは、DNAの情報保存能力を記憶媒体に利用したものだ。君のお父上はDNAに潜むジャンクDNAの応用を目指していた。ジャンクDNAは通常のDNAとは情報の保存パターンが違い、分子進化に大きく関わる領域でもある。このキューブ自体がジャンクDNA領域を利用したものならば、マージとは仕様の違うセルオートマトン型人工知能の類なのかもしれんな」
「……セルオートマトン? これが……?」
教授の説明に、朧は尋ねる。
「君の言葉を信じるならば、このプログラムが強固な防壁を展開できた理由がそれだろうな。DNAメモリでもジャンク領域のDNA遺伝的アルゴリズムを利用したセルオートマトン――マスターおよびマージに将来訪れるだろう危機的状況に対処する為に備えて成長する――脳内宇宙は、コンピュータ内で処理される仮想現実以上の資源に満ちた世界だろうからな」
「脳内宇宙で成長するセルオートマン……か。どんな夢を見ているのかしらね……?」
詩的なことを言う朧を、グレイン教授は見ていた。
「君自身がいい証拠だろう? 現行の最新型マージとスペック的にまったく見劣りがないからな。……そういう意味では、やはり薬師は天才だな」
そう言うと、教授はレイジの方に視線を移す。
「……惜しい男を亡くしたな」
「――そんなことより、明那ですよ」
レイジは耐えられなくなったのか、二人の会話に入った。
グレイン教授は明那の周りに展開されるいくつもの情報ウインドウを確認する。
「……侵食率が加速度的に上昇しているな」
「ええ」
「マージの追跡システムはアクティブ状態でロックが掛かり、解除はできない。ここを見つけ出すもの時間の問題か……」
明那のマージは、場所を知らせる追跡プログラムが走っている。
妨害用の囮プログラムが動いているが、どこまで誤魔化せるか不透明だった。
「アイコニック社は森川ハルナのDNAデータを持ってるんでしょう? なんでクローニング技術による複製を行わなかったのかしら……? 生命倫理法には触れるけど、マージとの適合性だって格段に高くなるわけだし……」
朧もウインドウを見ながら言った。
「……考えられるのは、時間的コストの問題だろうな。プロダクト・クローンは時間が最大のネックだ。それ以上に、能力や才能までは受け継がれる事はない」
「いわゆる模倣子の問題……?」
朧の問いに、教授は頷く。
「生活環境、文化、嗜好そして境遇が動機や才能を形作る。よりオフィリアのオリジナルに近い境遇の娘をリフォームすることにより、音楽的才能を手に入れたかったのだろう」
「より商売になるってことね」
「……トランスヒューマニズムをこんな風に扱うとは、嘆かわしいことだ。利益追求において倫理観は簡単に踏みにじられる。……だが、それだけではないな」
「……イモータル計画だっけ? それが関係しているの?」
朧は明那に尋ねた。
「……わたしもよく聞かされてないの。ゴメンなさい」
明那は謝った。
「ねえ、瞑想寺院に保存されている強力なITウイルス兵器あったでしょう? あのファイルを注入してマージごと破壊するのは?」
朧が教授に提案する。
「ここまで融合が進むと、神経も一緒に破壊しかねない。危険すぎるな」
グレイン教授は思案するように、明那の周りを歩いている。
「彼女が言うとおり、データを抜き出すことができれば、アイコニック社の犯罪行為の立証も可能になるだろうし、交渉材料にもなる。データのロードは行うべきだな。……実地レッスンだ。マージへのウェットウェア部およびソフトウェア部への同時ハッキングを敢行する」
「マージを両面から攻めるの……!?」
「その通りだ。データの抜き出しとマージの分離を同時進行で行う」
「外科的アプローチでは無理なのですか? マージを取り出した後で、データをサルベージするとか?」
レイジが教授に尋ねた。
「マージのプロテクトシステムは極めて強固だ。血液脳関門の関係もある。防衛システムを破壊、いや別のものに再構築する形で管理セクタに侵入する方法が最適だろうな」
「管理セクタを掌握してから、マージをパージしつつ、データも抜き出す……か」
朧は興奮を抑えられないように言った。
「怖いかね」
教授は明那に尋ねた。
「いいえ――大丈夫です」
明那は笑顔で答える。
教授はレイジと朧のほうに向き直った。
「……では、さっそくはじめよう。レイジ、接続シークエンスを開始したまえ。君のマージ殿と瞑想寺院の情報処理マトリックス機能と連結し、処理能力を可能な限り拡張しろ」
朧が口笛を鳴らしながら、「了解」と答えた。
「気をしっかり持っていなければ、君もデータの海に埋没する。十分に注意したまえ」
教授はレイジに注意を促した。
「心得てます」
「……教授こそ気をつけてよね」
朧は教授に言う。
「誰にものを言っている……?」
朧の言葉に教授はにやりと笑っていた。