逃亡と裏切り
レイジが目を開くと、真っ先に見えたのは明那の顔だった。
「気が付いた……?」
疾走する車の中だった。
車は表向きはオートナビモードで走っている。
駐車場にある車を違法ハッキングして強奪し、その場を離れていた。
緊急措置による行為とはいえ本来許されるものではない。
「大丈夫? レイジ君――」
レイジは明那の膝枕で、後部座席に寝ていた。
「……ああ」
レイジは身を起こす。
身体はだるく、精神的にも無力感が渦巻いていた。
「今、走りながら車と明那ちゃんのマージの逆探知プログラム両方を妨害する囮プログラムを走らせているけど、時間の問題ね。どっかで乗り捨てるから」
朧は状況をレイジに説明した。
「ごめんね。わたしのために……」
明那はレイジに謝罪した。
「……くっそぉ!! 負けた!!」
レイジは悔しそうに大声を出すと、シートで仰け反った。
「しょうがないでしょ。騒いだってどうにもならないんだから。軍人相手に健闘した方よ」
朧もどこか苛立っている。
感情面においてオーナーであるレイジのフィードバックを受ける。
明那は突然痛みに耐えるように顔を歪ませ、シートにもたれると、そのまま意識を失った。
「明那!」
レイジは明那の頬を軽くたたくが、反応を示さない。
明那は眼を見開く。
「……警告します。マージの成長侵食が再開しました」
いつもの明那とは違う口調だった。
「侵食……? どういうことだ?」
レイジは思わず訊いていた。
「わたしはマージ<オフィリア>の論理人格。シンカー比嘉明那ではありません」
「成長侵食って……状況をもっと詳しく説明して」
朧は尋ねる。
「マージに組み込まれた機能により、シンカー比嘉明那は、神経ネットワーク構造の再構築を行っています。このままでは比嘉明那はまったく別の人格に完全に変貌してしまいます。マージごとわたしを自閉休眠状態にすることで、侵食を食い止めていましたが……」
「変貌って……? 明那はどうなる?」
レイジもオフィリアに質問した。
「神瀬明那の人格が破壊され、わたしが完全に主人格となります」
「……マージは共生関係が基本。オーナーを占領支配するなんて設計思想が狂ってるとしか言いようが無いわ」
朧は言った。朧もかなりショックを受けている。
「何でそんなことを……?」
レイジは質問を続ける。
「ディーバノイド開発の関連事項であるイモータル・プロジェクトの為です」
「イモータル・プロジェクト……?」
「――アイコニック社およびナノテックス社の機密事項です。これ以上は説明できません」
そういい残すと、明那は再び意識を喪失した。
「俺のせいだ」
朧がレイジの頬を張る。
「……しっかりなさい! もう四の五の言ってる場合じゃないわよ」
「……ああ」
「――教授から瞑想寺院へのアクセスの許可が降りたわ。車を乗り捨てて、彼女達と一緒に行きましょう」
「わかった」
レイジの言葉に朧はうなずいた。
「インタラクティブボイスとエレメントハーモニーをこの身で味わうとはな……」
頭を揺さぶりながらブラックシェルは言った。
レイジと明那を取り逃がしたブラックシェルはアイコニック社本社の戻っていた。
「お前まで取り逃がすとは……なんてザマだ」
田宮の言葉に、ブラックシェルは苦笑する。
「マージの追跡機能をアクティブ状態でロックした。場所はどこにいても分かる」
ブラックシェルの言葉はあくまでも冷静だった。手抜かりは一切無い。
「……まさかワザと引き下がったのか?」
「シンカーと一緒に居たウィザードのガキ――奴のバックボーンを知りたかったので、な。一網打尽にしたほうが、後々禍根を残さずにもすむだろう。で……?」
田宮はブラックシェルに封筒を放り投げた。
「調査部からの報告書だ」
ブラックシェルは報告書に目を通していく。
ある事実に、ブラックシェルは顔を上げた。
「あのウィザード……薬師レイジの父親は、元々ナノテクベンチャー企業の起業家兼開発者だったのか……?」
「そうだ。新型の胎内型大容量高速情報処理ナノテクチップを開発し、販売を行うも、生命倫理法に違反しているという疑いがあり、暴走の危険性を指摘され、販売中止になった」
「……なるほど、マージの入手先はここか」
ブラックシェルは納得したように言った。
「柔軟性の高い新型チップは異種知性の誕生を促すものとされ、フランケンシュタイン症候群を助長する思想とか、グレイ・グーの危険性が極めて高いと競合相手から風評被害を起こされた。株価は暴落、ナノテックス社にM&A《敵対的買収》を仕掛けられ、吸収合併。パテントや権利関係も同社に委譲した。追い込まれた社長は自殺……まさか息子にこんな形で仕返しをされるとな」
田宮は憤慨したように言った。
「PR会社のネガティブキャンペーン――会社買収を仕掛けるとき、貴様たちがよくやる手だろう……?」
「言いがかりだな。恨まれる筋合いはない」
アイコニック社の存在理由の一つである情報操作工作である。
風評被害に、アイコニック社が動いたのは明らかだった。
「奴の母親は現在海外に出張中だ。母親の身柄をおさえるか?」
「必要ない」
ブラックシェルは即答した。
「くだらん真似をして、水を差すな」
「……つまらないプライドは、身を滅ぼすぞ」
「手を出すな、黙って見ていろ……と言っている」
「誰に向かって口を聞いている……!?」
田宮は席から立ち上がり、ブラックシェルの方に近づいていくと、突然、口から泡を吹くと、絨毯に倒れた。
もがき苦しむ田宮を、ブラックシェルは田宮を見下ろしていた。
蔑む様な冷たい目だった。
「舐めるなよ、社畜風情が……。親会社の奴隷に等しいお前と一緒にするな。ウィザードがお前たちにただ従うだけだと思っていたか……?」
ブラックシェルの言葉に反応するように田宮は激しく咳き込む。
体内にはもちろん自己管理の一環として、生命維持および代謝制御ナノマシンが駆け巡っている。
社内の出世競争に生き残ってきた、勝ち組エリートサラリーマンとしては当然の処置である。変死対策として、おかしなナノマシンを投与されても問題ないはずだった。
「な、何……?」
「マインドハックを仕掛けるまでもない。俺の質問に答えろ」
「何を……」
「オフィリアの秘密だ。イモータル・プロジェクト……だったな?」
田宮は涙を流しながら首を振る。
「心筋梗塞で死ぬか……? それとも脳卒中がいいか……? ナノテクテロで使用された逆転写酵素ナノマシンはどうだ……? エボラ出血熱の如く、全身の細胞が溶解しながら血を噴出し、ウイルス死するのは中々壮観だぞ」
田宮は顔を青ざめ、全身を震わせている。
「死因を特定させずに殺すのは、得意中の得意でな。暗殺こそがPMCウィザードの真骨頂だからな」
ブラックシェルは薄く笑っていた。それ以上笑うことは許されない、そんな感情の制限が掛かっているような微かな笑いだった。
「――久しく忘れていた感覚を思い出した。このゲーム、最後まで楽しませてもらうぞ」
ブラックシェルは資料を手にしながら言った。