魔法の錠前
レイジが午前九時を回った頃、自宅近くのコンビニに向っていた。
都市内の温度は極めて快適に保たれている。
都市を取り巻く空気が、避暑地にように管理され、適温となっていた。
それでも若干肌寒い。
かつてこの東京が温暖化の影響で、灼熱の都市だったなどレイジは信じられなかった。
ユーティリティー・フォグレットがもたらす都市型情報環境である。
官民政の一大事業である東京都再構築化計画は、追加事案である都市環境の正常調整化に、ナノテクを利用した。
ユーティリティ・フォグレット<エレメント>の散布である。
エレメントはもともと惑星改造用に開発されたナノマシンであり、それを都市環境改善型に転用したものだ。
普段は大気を模倣し、一種の生態圏を形成し、都市防衛を担うと共に、都市環境の正常化と大気を媒介にした情報伝達機能を持ち、空気の清浄化に加え、ヒートアイランド現象の都市気温の冷却化や都市環境の改善に勤め、より安価な情報処理環境を促した。
ナノマシンが持つ情報処理能力を最大限に活かし、都市空間の情報環境は飛躍的に拡大し、情報は元より仮象オブジェクトであるアバターやエージェントを現実世界に投影することができる。
エレメントは文字通り四大精霊そのものであり、メタスフィア内は精霊と魔力に満ちた魔法の国だった。
世界有数のナノテク都市東京は、ナノテクフォーミングされた自動管理都市である。
仮想現実と現実は可能な限り溶け合い、境を失いつつある。
それは言ってみればファンタジー世界と現実世界の融合そのものであった。
ナノマシンは科学も医学も宗教も生活も、そして戦争のあり方すら一変させた。
電話が入ってきた。
――身体、大丈夫か? 川越ちゃん心配してたぞ。
裕樹からだった。
「……ああ、風邪引いちゃってさあ。インフルかもしんねえ」
――……マジかよ。でも、合法的に学校休めるな。
祐樹の言葉に、エイジは笑う。
レイジは対ウイルス用ナノマシンを体内に持つ。エアロゾル型ガス兵器など通用しない。
風もめったにひくことは無い。
「データの件だけど、入手できたぞ」
――サンキュ、持つべきものは友達だぜ。
「金、用意しておけよ」
――お前こそ、早く身体直せよ。
電話を終えると、レイジはコンビニに入っていった。
――情報検索は終了しているわ。
朧との脳内チャットだった。
――それで?
レイジは雑誌コーナーに向った。
愛読している漫画雑誌を手に取る。
――紅龍……多分仕事名ね。PMCウィザードで、別の戦争代理派遣会社の傭兵やら軍役経験者と一緒に紛争地帯に派遣されているわ。画像データが残されてた。
――そんな連中を使って……。一体何が目的なんだ?
――そこまでは分らないわ。
――彼女の身元の確認は?
――さあ……。
――おい。
――……あのさ、彼女の名前が本名だとして、彼女のことを調べたら、向こうに私達の居場所伝えるようなもんでしょ? 追われてんだから……。
朧の言うことはもっともだった。
比嘉明那――レイジは彼女のことを思い浮かべていた。
助け出した後、結局自分の自宅にに匿っていた。
明那に付き合い、今日は具合が悪いということで学校を休んでいる。
レイジのベットで明那は眠っている。
――PMCの方は比較的入手しやすかったから、問題ないでしょうけど、明那ちゃんの件は、彼女から直接聞いたほうが早いよ。
コーヒー缶を二本買い、コンビニを出ると、レイジの目の前に朧の仮象体が出現していた。
「彼女のことで頭がいっぱいみたいね」
仮象体エージェント・モードだった。
「……何、言ってんだよ」
慌てるレイジを、朧はニヤニヤ顔でからかう。
「……まあ、彼女可愛いし、若いからしょうがないけど、家にかくまうのは感心しないな」
「……仕方ねえだろ」
「あんま浮かれてると痛い目見るよ。多分、向こうは君を洗って追ってくる。たどり着くのも時間の問題。半人前の君が相手をするのは、荷が重いんじゃない。昨日は不意打ちでどうにか逃げられたけど……。一度、教授と相談したほうがいいんじゃない……?」
「教授が許す訳ないだろ」
「……そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。クールなようでいて、直情型。すぐにアツくなって、物事が見えなくなる……。君の悪い癖だよ」
「……人を勝手に精神分析すんな」
「わたしをインプラントした時もそうだったでしょ……? 熟慮って言葉知らないの?」
反論できなかった。
勢いに任せ、行動するのは自分の欠点だと、レイジも自覚していた。
「特に君の場合は因縁もあるでしょ……? アイコニック社、正確にはナノテックス社に」
ナノテックス社と言う言葉に、レイジは反応した。
「でも、まあ、ここで逃げるのも男の子じゃないよね」
「いいのか……?」
「わたしの行動原理は、オーナーの命が最優先、次に社会的責任を全うすること……ロボット系の基本でしょ?」
朧の言葉にレイジは苦笑した。
「とりあえず、彼女が起きたら、マージの撤去作業を行いましょう。話はそれから」
やっぱり朧は頼れる相棒だった。
自宅マンションに着き、レイジはドアの前に立つと情報ウインドウが浮かび上がった。
情報ウインドウには、鍵穴のような視覚記号が描かれている。
レイジは、自宅にエレメントによる防護プログラムを施していた。『魔法の錠前』と呼ばれるウィザード・スキルである。
明那を保護するために偽装映像や電子トラップ、そして防壁などさまざまな防衛プログラムを同時展開していた。
文字通り、魔法の錠前であった。
「解除キーを」
レイジは朧に命じると、レイジの手に、鍵が出現していた。
もちろん本物ではない。朧や情報ウインドウ同様、仮象体である。防護プログラムを解除するキーファイルを仮象体化したものだった。
レイジはキーを鍵穴に差し込む。
ドアを中心に電子の光が走り、エレメントの防護プログラムが解かれていく。
朧も姿を消した。
本来のカードキーを出すと、本来備え付けられている鍵を開け、ドアを明けた。
部屋はカーテンを閉め切り暗かった。
浴室のほうから歌が聞こえてきた。
オフィリアの新曲で、歌っているのは明那だった。
かなり上手かった。
本人と同じ、いやそれ以上かもしれない。
明那は素肌にバスタオルを巻いている姿で、奥から現れた。
レイジは思わずドキッとする。
「……ごめん、お風呂勝手に借りちゃった。シャワー浴びてたの」
濡れた髪をドライヤーで乾かしながら、明那は答えた。
レイジは明那の無防備ぶりに、すっかり言葉を失っていた。
「のんきに風呂入ってる場合かよ。追われてんだろ……?」
レイジは不満そうに言った。
「……だって匂いを追ってきてたんでしょ?」
「体の匂いだけ消しても意味無いんだよ。化粧品とかメイク道具とか全部取り替えないと……」
「そっか」
明那から漂う石鹸の匂いが、レイジの鼻に届いた。
女性に免疫が無いわけではないが、若い健康な男子にはあまりにも刺激が強すぎた。
考えてみれば自分の部屋に女の子を招いたのも初めだった。
母親が知れば、どんな顔をされるか、わかったものではない。
「エレメント制御で匂いの化学物質も変えて、その線では追跡できないようにしてあるから。もう対策済みだって」
「そういうことは、もっと早く言って欲しかったな」
「……何だよ、その言い草は」
レイジの言葉に、明那はしゅんとなる。
「……そんな怒らなくてもいいじゃん」
そういった後、明那はくしゃみをした。
「ごめん、すぐ着替えるから。ちょっと待って」
戸惑うレイジに、明那は再び奥へ行った。
服に着替えると明那は出てきた。
「改めまして、比嘉明那です。昨日は本当にありがとう……」
「……礼はもういいって」
レイジは買ってきたコーヒーを差し出す。
明那は「ありがと」と言いながら、缶を受け取った。
「どこの高校行ってんの?」
「××高の芸能コース。最近はほとんど行ってないけど……」
明那は缶のプルトップを開ける。
「へえ……、芸能人なの?」
「……まあ」
明那は返答を濁し、缶に口をつけた。
レイジは明那の歌唱力に納得がいっていた。
「レイジ君の親は……?」
「……ああ、母親は海外に出張中。バイヤーやってて、商品の買い付けに行ってんだ。しばらくは帰ってこない。親父は……いない」
レイジの言葉に事情を察したのか、それ以上明那は尋ねてこなかった。
急に明那は身体をふらつかせた。
「どうした?」
レイジが尋ねると、明那は首を振った。
「……ゴメン。最近頭痛がひどくて……。薬飲んでいい……?」
明那はバックからピルケースを出す。
「……大丈夫かよ」
明那は数錠口に入れると、噛み砕く。
「……うん。たんなる偏頭痛持ち」
薬を飲み干すと、
「レイジ君ってもしかしてウィザードなの……?」
と明那は尋ねてきた。
レイジは溜息を吐くと、頷いた。
隠しても仕方のないことだった。
「っていうかどうして言ってくれなかったの……?」
明那はレイジを睨む。
「……会って間もない、見ず知らずの人間に言えるか。世間じゃ犯罪者扱いなんだから」
ウィザードの修行は周りは知らなかった。
違法行為に等しいウィザードの技能を身に着けることは危険であり、自慢できることではない。
サイボーグの進化系、トランスヒューマニズム思想の最先端モードであるウィザードに対し、アンダーグラウンド的偏見が強く、チート行為と称され世間では批判的意見も多い。
「そっちこそ、何でウィザードを探してるんだ?」
レイジは本題に入る。
「……クラブで言ったでしょ? マージの除去と分離。できれはマージのメモリーに保存されているデータを取り出した上で行いたいの」
リムーバーのチューブを、明那はバックから出していた。
「マツキヨとかハンズとかで買ってきて、いろいろ試してみたんだけど、ダメみたい」
レイジはナノテク除去用リムーバーを手に取り、確認する。
「とにかくマージを分離すればいいだろ? ……朧」
レイジが名を呼ぶと、電子の光と共に朧はフィギュア程の大きさで姿を現した。
「レイジ君のマージ……?」
明那が尋ねると、レイジは頷いた。
「名前は朧よ。よろしくね、明那ちゃん」
朧は明那に挨拶する。
「かわいいけど……こういうの好きなんだ」
「……言っとくけど俺の趣味じゃないからな」
明那のどこか冷めた視線に、レイジは明那に弁解した。
「嘘嘘。こいつ引くくらい、ナノテクオタクだから」
「……いいから、さっさとやれよ」
朧は微笑むと、明那の額に触れた。
「――アクセス開始」
朧は明那のマージに接続した。
アクセスに伴う情報交換に反応するように、朧の瞳が揺れ、高速運動を起こす。
「きゃっ!!」
朧が悲鳴を上げ、何かにぶつかったように、跳ね飛ばされる。
「……どうした?」
「何これ……!?」
朧が信じられないような声を上げる。
「データポートから接続してみたんだけど、拒絶されちゃった……。プロテクトがハンパない……!」
朧の様子に、明那も困惑している。
「……論理人格および保存データのプロテクトレベルはAAA……国際基準第一級著作権保護規格指定。マージおよび内部データの所有権は、アイコニック社に帰属――」
朧は判明した事実を告げていく。
「マージのスペックは、本人との連動同調型……仮想現実接続ポートなど基本機能を搭載……現在自閉休眠モードのため使用不可……その他特化機能は不明――。アンインストールの際は、所有者の認証許可が絶対条件……例外は一切認められず、何これ……?」
「……やっぱり無理か」
明那は溜息を吐く。
「専門医でも難しいかも……。AAAって、軍事機密レベルだよ。どんなデータが入ってるの……?」
朧が明那に尋ねる。
「それは――」
明那の言葉をさえぎるように、自身の腹が鳴る。
明那は顔を真っ赤にした。
緊張感の無さに、怒りを通り越し、レイジは笑った。
「腹減ってんの……?」
レイシが尋ねると、明那は恥ずかしそうに「実は」と言った。
ごまかす様に明那はレイジの手に腕を絡めた。
「外に食べに行こ。お礼じゃないけど、奢るから」
急に身体に密着され、レイジは再び明那から石鹸の匂いを嗅いでいた。