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「鐘守りなど誰にでもできる」と追放された元・保守点検令嬢ですが、歴代王三十七人の魂は全員わたくしに懐いております。~撞かない鐘は、ただの鉄屑ですよ?~

作者: uta
掲載日:2026/10/10

「セレスティア・ヴァンロー。お前との婚約を破棄する。鐘守りの任も、解く」


建国祭前夜、王城の大広間。


金髪碧眼の王太子アルベルト殿下は、シャンデリアの光を一身に浴びながら、実に堂々とそう仰いました。


楽団の弦が止まり、三百人の視線がわたくしの背中に刺さります。


「殿下。理由をお伺いしても?」


「ミレーユだ」


殿下の腕にしがみつくように立っていた桃色がかった栗毛の令嬢が、小首を傾げます。アルディ男爵家のミレーユ嬢。十七歳。自称・聖女。


「わたし、鐘楼で聞こえたんです。大鐘から……歴代の王様たちの声が」


「そうだ。真の聖女が現れた以上、お前が鐘にしがみつく理由はない」


――しがみつく。


なるほど。十二年間の業務を、そう表現なさいますか。


「そもそもだ、セレスティア」


殿下は鼻で笑いました。


「鐘など、撞けば鳴る。誰にでもできる仕事だろう」


会場に、遠慮がちな笑いが広がります。


(出た。出ました。『誰にでもできる仕事』)


前世で何度聞いたか分かりません。わたくしは日本という国の、地方自治体の設備管理課におりました。橋の点検も、下水管の清掃も、消火設備の年次報告も、全部そう言われました。


そして全部、やめた瞬間に人が死ぬやつです。


「お前は鐘の音の話しかしない。令嬢としての華がない。ミレーユを見習え」


(悪口の語彙まで貧しい。もう少し頑張ってくださいませ、仮にも次期国王でしょう)


わたくしは腰の真鍮の鍵束を外しました。十二年、毎朝握り続けた鍵です。手の脂で、把手のところだけ金色が濃くなっています。


深く、一礼。


「かしこまりました」


「……なんだ、素直だな」


「では、鍵をお返しいたします。宰相閣下、どうぞ」


鍵束が、宰相グレゴール様の手に渡ります。白髪を几帳面に撫でつけた五十八歳の能吏は、一瞬だけ眉を動かしましたが、何も言いませんでした。


「……確かに、お預かりいたします」


わたくしはもう一度一礼し、ドレスの裾を持ち上げて退出いたします。


誰も気づきません。


わたくしがお返ししたのは、鍵だけです。


《三十七人の名を、正しい発音で、正しい順序で呼ぶ手順》は――


引き継いでおりません。


誰にも、訊かれませんでしたので。


大広間の扉が閉まる音を背に、わたくしは思いました。


(建国祭は、明日ですね)


◇


鐘守りの官舎に戻り、わたくしは机の上に一冊の帳面を置きました。


角が擦り切れ、背が二度綴じ直されている点検記録帳。厚さは、親指一本分。


十二年分です。


最初の頁は七歳のわたくしの字。ミミズがのたくったような『ヴェルナム』の綴りに、当時の鐘守りだった祖母の赤字が入っています。


(おばあさま、わたくし、ちゃんと続けましたよ)


頁をめくります。


――三年前、春。鐘体南側に新規亀裂一。長さ四分。要観察。

――二年前、秋。亀裂二箇所に拡大。報告書第百七号、王室へ提出。

――昨年、冬至。共鳴に〇・三拍のずれ。七年前と同一の予兆。報告書第百十九号、提出。

――先月。亀裂三箇所。撞木の内部繊維に疲労の兆候。打鐘力は従来の七割に抑制のこと。報告書第百三十一号、提出。


提出済み。提出済み。提出済み。


(全部、開封されていないんですけどね)


知っています。一度だけ、王室書庫の七番棚を見たことがあります。わたくしの報告書は、封蝋がついたまま、胸の高さまで積み上がっていました。


段ボール換算で四箱分。


(燃やされていないだけマシ、と思うべきなのでしょうか)


後半の頁は、業務記録というより、観察日誌に近くなります。


【魂・性状記録】


初代ヴェルナム——食いしん坊。供物の蜂蜜パンの銘柄を毎回言い当てる。『今日のは前の店のだな』。繊細な舌。


第七代エイリク——人見知り。名を呼ぶと三秒黙る。※十二年目、一秒に短縮。進歩。


第十九代——甘えん坊。あらゆる提案に『いいんじゃないかな』と賛成する。※意見としての信用度、三十七人中最下位。


第二十二代——嫌味屋。毎朝『報告が二分遅い』と言う。※ただし一度も返事を欠かさない。実は律儀。


第三十一代——歌が下手。共鳴調整のたびに歌いたがる。※止めると拗ねて音が濁る。歌わせる。


彼らがわたくしに応えるのは、わたくしの血筋が尊いからではありません。


魔力量など、平民以下です。火種ひとつ出せません。冒険者ギルドの鑑定水晶に手を置いたときなど、職員の方が気の毒そうな顔をなさいました。


ただ、毎朝。


夜明けの鐘楼に上り、三十七人の名を、正しい発音で、定められた順序で、一人ずつ呼んだ。


「初代ヴェルナム様、おはようございます。本日の鐘体温度は十二度。異常ございません」


「第七代エイリク様、おはようございます。……はい、お待ちしております。……はい、おはようございます」


それを、四千三百八十日。


前世の設備管理課で叩き込まれたことが、ひとつだけあります。


――点検とは、機械と仲良くなることだ。


当時の主任の口癖でした。わたくしは内心、精神論だなと思っていました。


こちらの世界に来て、それが文字通りだったと知りました。


帳面を閉じます。


窓の外、月光の中に《大鐘ヴェルナ》の鐘楼が黒く立っています。


「……明日、あの方々は、ミレーユ様に応えません」


名を呼ばれないからです。


意地悪ではありません。


呼ばれていない人間は、返事のしようがないのです。


わたくしは荷物をまとめ始めました。


私物は、記録帳一冊と、腕カバーと、着替えが三着。十二年住んで、これだけです。


(そういえば、蜂蜜パンが二つ残っていましたね)


◇


退去の朝は、よく晴れておりました。


鐘楼の石段の下に、小さな影がひとつ。


「鐘守り様……っ」


茶色のくせ毛を跳ねさせた十一歳の少年が、袖の余った支給服の裾を握りしめて立っていました。


ニコ。六歳のときから鐘楼で雑巾がけと油差しをしている、下働きの子です。


「おはよう、ニコ」


「おれ、おれのせいですか」


「どうして?」


「昨日、ミレーユ様が鐘楼にいらしたとき、おれ、止めなかったから。おれが、おれが止めてたら、鐘守り様は」


言葉の途中で、顔がくしゃりと崩れました。


わたくしは紙包みを開きます。中には、蜂蜜パンがふたつ。


朝一番の、まだ温かいやつです。


「はい」


「……え」


「お食べなさい。泣くと体が冷えます」


ニコは泣きながらパンを受け取り、泣きながら齧りました。蜂蜜が指を伝って、袖に垂れます。わたくしは屈んで、親指でそれを拭ってやりました。


「あなたは悪くないのよ」


「でも」


「悪いのは、報告書を十二年間開封しなかった人です」


「……」


「そしてそれは、十一歳のあなたではありません」


ニコは口をもごもごさせながら、鐘楼を見上げました。


「鐘、どうなるんですか」


「鳴ります」


「え?」


「鳴りますよ。撞けば、音は出ます。――ただ」


わたくしも鐘楼を見上げました。


朝の光の中、巨大な青銅の影が、ゆっくりと息をしているように見えます。亀裂三箇所。撞木の繊維疲労。冬至の共鳴ずれ。


「鐘は、ちゃんと鳴りたがっているの」


「……鳴りたがってる?」


「ええ。正しく名を呼ばれて、正しく撞かれたいと、ずっと思っているの。とても我慢強い子たちですから」


ニコが、パン屑だらけの顔で頷きました。


「おれ、毎日来ます」


「お掃除は、新しい鐘守り様の指示に従いなさい」


「ちがう。鐘守り様が、毎朝来てたから。おれ、階段の下で、ずっと聞いてました」


わたくしの眉が、一ミリ上がったと思います。


「ヴェルナム様、エイリク様、ハルヴァート様、……ええと、それから、ミレディア様」


「……ニコ」


「半分くらいしか、覚えてないです。すみません」


十一歳の下働きの少年が、誰にも頼まれず、十二年分の朝の半分を覚えていました。


わたくしは、少しだけ、処理が追いつきませんでした。


記録帳で顔を隠すところでしたが、記録帳はもう鞄の中です。


「……ニコ」


「はい」


「それは、とても、立派なことです」


荷物を背負い直し、わたくしは石畳を歩き出しました。


三歩進んで、振り返ります。


「もうひとつ、お話ししておきますね」


「はい」


「わたくし、もう我慢いたしません」


ニコが目を丸くします。


「呼ばれても参りません。頭を下げられても参りません。求められても参りません」


淡青の瞳で、鐘楼の頂を見上げて。


「わたくしは、助けません」


鐘楼の上で、風が鳴りました。


不思議と、少し寂しそうな音でした。


◇


建国祭当日、正午。


わたくしは王都から馬車で三時間の宿場町におりました。宿の二階の窓から、遠く王都の方角を眺めております。


(そろそろですね)


伝え聞くところによれば、式次第はこうです。


白い祭服のミレーユ嬢が鐘楼に上り、歴代王への祈りを捧げ、撞木の綱を引く。鐘が三十七回鳴り、加護が国土に行き渡り、国境結界・作物の豊穣・魔物避けが一年分更新される。


群衆は歓声を上げ、王太子殿下は手を振る。


実に美しい段取りです。


――ひとつだけ、抜けている工程がございますが。


正午の太陽が真上に来た瞬間。


遠い空の向こうから、音が届きました。


ゴ、ン。


わたくしは、目を閉じました。


(ああ)


鳴りました。鳴ったのです。撞けば鳴ります。殿下の仰る通り。


ですが。


その音は、底が抜けていました。


青銅の張りがなく、芯のない、湿った布を叩いたような音。亀裂三箇所を通り抜けた響きが、途中で割れて、散って、空に昇りきらずに落ちてくる。


ゴン。ゴン。……ゴ、ン。


七回目で、音程がずれました。


十二回目で、倍音が完全に濁りました。


二十回目――撞木が、鈍く軋む音が混じりました。


(繊維疲労です。報告書第百三十一号。打鐘力は七割に抑制のこと)


三十七回。


一度も、《名》は呼ばれませんでした。


音が止んだあと、空気が、妙な静けさに沈みました。


風が、変な方向から吹いてきます。


宿の階下で、誰かが言いました。


「……今年の鐘、なんか変じゃなかったか?」


「気のせいだろ。鐘は鐘だ」


わたくしは窓を閉め、机に記録帳を開きました。


ペンを取り、本日の頁に記します。


《建国祭、打鐘確認。音響、著しく濁。倍音消失。撞木軋音あり。

呼名――行われず。

予想:結界強度、三日以内に臨界を下回る。北部国境から順に魔物避けが失効。作物は一夜で立ち枯れる可能性。

所見:報告書第百十九号および第百三十一号にて既出。》


そこまで書いて、ペンを止めました。


少し、迷って。


最後に一行、書き足します。


《第七代エイリク様。お返事がなくて、申し訳ございません。》


三日後。


北の街道にゴブリンの群れが出たと、宿場に早馬が駆け込みました。


四日後。


西の麦畑が、一夜にして立ち枯れたと聞きました。


五日後。


冒険者ギルドが緊急依頼を乱発し、報酬相場が三倍に跳ね上がり、国庫が溶け始めたと、商人たちが青い顔で話していました。


六日後の夕刻。


宿の扉を叩く音がしました。


王家の紋章を掲げた、早馬の使者です。


「セレスティア・ヴァンロー様。王宮へ――至急、ご出頭を」


わたくしは記録帳を閉じ、腕カバーの紐を締め直しました。


「かしこまりました」


(さて。開封なさいましたか?)


◇


王宮の控えの間で、わたくしは見知らぬ男性に声をかけられました。


黒髪に、深い藍の瞳。長身。表情が、見事なまでに動きません。


噂だけは知っております。王弟にして北方辺境伯、セディック・リンガルド様。『氷の辺境伯』『笑ったところを見た者がいない』。


その方が、わたくしの前に立ち、一度だけ唇を引き結んでから、言いました。


「あなたの報告書を十二年分、全部読んだ」


「……は」


「十四頁の、冬至共鳴の考察が、素晴らしかった」


(は?)


挨拶も、名乗りもなしに、いきなり十四頁。


「あの、辺境伯様。それはどちらの写本を」


「宰相に頼んで書庫から掘り出させた。七番棚。胸の高さまで積んであった」


「……開封されたのですね」


「俺が開けた。封蝋を百三十一個」


セディック様は、脇に抱えていた分厚い束を差し出しました。わたくしの報告書の写本です。


縁から、色とりどりの付箋が無数に飛び出しています。


「三百十二枚、貼った」


「数えられたのですか」


「数えた」


真顔です。微塵も崩れません。


(この方、まさか、これが花束のつもりでは)


「十四頁。あなたはこう書いている。『冬至前後、鐘体の収縮により共鳴に〇・三拍の遅延。この遅延は欠陥ではなく、鐘が季節を認識している証左と解釈すべきである』」


「……書きました」


「俺は十九年、鐘の前で声を聞いていた」


「え」


「『腹が減った』と。毎回それだけだ。十九年、ずっと空耳だと思っていた」


わたくしの眉が、一ミリ上がりました。


「……初代ヴェルナム様ですね」


「あなたの記録帳の写しに、こう書いてあった。『初代ヴェルナム——食いしん坊。蜂蜜パンの銘柄を言い当てる』」


無表情のまま、彼は少し目を逸らしました。


「それを読んだ夜、辺境伯邸で、三時間泣いた」


「三時間」


「使用人に心配された」


(この方、噂と全然違う)


「あなた様は、初代の末裔でいらっしゃる」


「血は関係ない」


セディック様は、はっきりと言いました。


「俺は十九年、聞いていただけだ。返事をしなかった。あなたは四千三百八十日、返事をした。――資格があるのは、あなたのほうだ」


胸の内側が、妙な具合に詰まりました。


わたくしは咄嗟に記録帳を持ち上げ、顔の前に構えました。


「……セレスティア殿」


「少々お待ちくださいませ。処理が追いついておりません」


「分かった」


彼は律儀に黙りました。三十秒ほど、二人で無言で立っていました。


記録帳を下ろすと、セディック様が付け加えます。


「もう一つある」


「はい」


「あなたの引き継ぎ書式は、王国の全部署に導入すべきだ」


(……それ、たぶんこの方にとっては、口説き文句ですよね)


「それは」


わたくしは一礼しました。


「わたくしへの、最大級の賛辞でございますわね」


セディック様が、ほんの少しだけ、目を細めました。


笑ったところを見た者がいない、と噂される方の、たぶん、笑顔でした。


奥の扉が開きます。


「セレスティア・ヴァンロー嬢。殿下がお呼びです」


「かしこまりました」


わたくしは記録帳を小脇に抱え、玉座の間へ向かいました。


十二年分の、重さを抱えて。


◇


玉座の間は、六日前の輝きを失っていました。


アルベルト殿下は目の下に隈を作り、ミレーユ嬢は泣き腫らした顔で椅子に座り込み、宰相グレゴール様は――なぜか、眼鏡を三度も押し上げていました。


「セレスティア」


殿下が立ち上がります。


「戻れ。鐘守りの任に戻ることを、許す」


(許す)


「北部の結界が落ちた。街道にゴブリンが出た。麦が枯れた。ギルドへの支払いで国庫が――とにかく、お前が鐘を撞け。今すぐだ」


わたくしは記録帳を胸の前で開きました。


「殿下。その前に、三点、ございます」


「……なんだ」


「一点目」


頁をめくります。


「大鐘ヴェルナの鐘体には、亀裂が三箇所ございます。最初の一箇所を確認したのは三年前の春。二箇所目が二年前の秋。三箇所目が、先月」


「は?」


「加えて撞木の内部繊維に疲労が進行しており、昨年の時点で『打鐘力は従来の七割に抑制のこと』と注記しております」


「……聞いていないぞ」


「はい。報告書第百七号、第百十九号、第百三十一号。全て、毎月一日に王室へ提出済みでございます」


わたくしは頁の端を、指で示しました。


「提出控えの受領印がございます。十二年分、百三十一通。欠けは一通もございません」


殿下の顔が、すっと白くなりました。


「な……開封していないだけだろう!」


大広間が、しん、と静まりました。


わたくしは微笑んで、一礼いたします。


「はい。それが問題でございます」


「……っ」


宰相グレゴール様が、両手で顔を覆いました。


「二点目」


わたくしは頁をめくります。間に挟んであった、古い写本を抜き出しました。


「建国法典、第四条。『鐘守りの解任には、大鐘を通じた歴代王三十七人の同意を要する。同意は打鐘の響きをもって示される』」


「……それが、なんだ」


「六日前の解任式。鐘は、一度も鳴っておりません」


殿下の喉が、ひゅ、と鳴りました。


「つまり――解任は、成立しておりません」


「……」


「わたくしは六日前から今この瞬間まで、第二十三代鐘守りでございます。その間の職務放棄につきましては、処分をお受けいたします」


宰相が、震える声で言いました。


「お待ちください。では、殿下は……無資格の者に、鐘に触れさせたことに……」


「はい」


わたくしは頷きます。


「建国法典第四条違反。鐘守り不在のまま行われた打鐘は、正式な建国祭の打鐘として記録されません。つまり本年、リンガルド王国の加護更新は――未履行でございます」


ミレーユ嬢が、椅子からずり落ちました。


「……だって、わたし、声が聞こえたんです」


か細い声でした。


「わたし、特別だって、言われて。だから、だから」


「ミレーユ様」


わたくしは、彼女のほうを向きました。


「鐘楼で目を閉じたとき、何と聞こえましたか」


「……『あなたは特別』って」


「どなたのお声で?」


「……え」


「三十七人の中の、どなたのお声でしたか。第七代エイリク様は人見知りですから三秒黙られます。第二十二代様は必ず嫌味を仰います。第三十一代様は、歌おうとなさいます」


ミレーユ嬢の唇が、震えました。


「……わからない、です」


「はい。それが、お答えでございます」


わたくしは静かに言いました。


「鐘は、あなたに嘘をついたのではありません。あなたが聞いたのは、あなた自身のお声です。――鐘は、名を呼ばれなかっただけでございます」


「三点目だ」


そう引き継いだのは、わたくしではありませんでした。


壁際から、低い声が響きます。


セディック様が、一歩前に出ていました。


「兄上。鐘は、あなたの戴冠を拒否している」


「……なんだと」


「俺は初代の末裔だ。十九年、声を聞いてきた。この六日間、鐘楼で彼らに問うた」


セディック様が、わたくしのほうを見ました。


わたくしは記録帳の最後の頁を開きます。


「集計いたしました。歴代王三十七名のうち、アルベルト殿下の戴冠に賛成――一名」


「い、一名」


「第十九代様でございます」


「……その方は」


「あらゆる提案に『いいんじゃないかな』とお答えになります。十二年間の記録によれば、反対なさった事例はゼロ件。信用度は三十七人中、最下位でございます」


静寂。


「反対、三十六名」


わたくしは記録帳を閉じました。


「殿下。鐘は、撞けば鳴ります。仰る通りでございました」


一礼。


「ただ――撞かない鐘は、ただの鉄屑ですよ?」


◇


玉座の間での沙汰が下るまで、三日かかりました。


その三日のあいだに、宰相グレゴール様がわたくしの前に現れました。


白髪は乱れ、眼鏡の奥の目は真っ赤に充血していました。


「読みました」


「何をでございますか」


「十二年分。百三十一通。三日三晩かけて、全て」


五十八歳の宰相が、わたくしに向かって深く頭を下げました。


「七年前の冬至の項に、今回とまったく同じ現象の予兆が記録されております。共鳴の〇・二拍遅延。あなたは『数年内に再発の恐れあり、要経過観察』と注記されていた」


「はい」


「我々は……知らされていなかったのではなく」


声が、震えました。


「読まなかったのですな」


「はい」


わたくしは短く答えました。それ以上、言うことがありませんでしたので。


宰相は頭を下げたまま、もうひとつ言いました。


「それから、あなたに見せねばならぬものがあります」


差し出されたのは、わたくしの記録帳の――予備の帳面でした。


官舎の机に置いてきた、空白の一冊。


開くと、余白に、歪んだ字が並んでいました。


《けんこくさいのひ ひびみっつ かわりなし》

《よくじつ ひびみっつ かわりなし きたのそらがへん》

《ひびみっつ かわりなし あぶらさしました》

《ひびみっつ かわりなし しょうもくがへんなおと きろくします》

《ひびみっつ かわりなし》

《ひびみっつ かわりなし》


日付の書き方は間違っています。月と日が逆です。


字は歪んでいます。罫線を三行はみ出しています。


一日も、欠けていませんでした。


「下働きの少年が」


宰相が言いました。


「誰にも命じられず、毎朝、鐘楼に上っていたそうです。鐘守り不在の鐘楼に」


わたくしは、記録帳で顔を隠しました。


今度は、ちゃんと手元にありました。


「……セレスティア殿」


「少々、お待ちくださいませ」


「はい」


宰相は、黙って待ってくださいました。


◇


その夜、わたくしは鐘楼に上りました。


六日ぶりの、三百段。


膝が笑いました。十二年上って、一週間休んだだけで、これです。


(人間の体というのは、本当に、維持管理ですね)


鐘楼の頂。月光の中に、青銅の巨体が沈黙しています。


亀裂三箇所。


わたくしは、腕カバーの紐を締め直し、記録帳を開きました。


そして、深く息を吸います。


「初代ヴェルナム様。おはようございます。――いえ、こんばんは」


鐘が、かすかに震えました。


『……遅い』


「申し訳ございません」


『蜂蜜パン』


「明朝、お持ちいたします。銘柄は、いつもの通りで」


『うむ』


「第七代エイリク様。こんばんは」


沈黙。


一、二、三――


『……こんばんは』


三秒に戻っていました。十二年かけて一秒まで縮めたのに。


(やり直しですね)


「ご無沙汰しておりました。また、一秒まで縮めましょう」


『……うん』


「第二十二代様、こんばんは」


『報告が、六日と二分、遅い』


「仰る通りでございます」


『……よく戻った』


鐘の表面が、淡く温かくなりました。


三十七人分。


わたくしは、全員の名を呼びました。


正しい発音で。正しい順序で。


階段の下で、小さな足音が止まる気配がしました。


振り返らずに、わたくしは続けます。


聞いている子が、いるようですので。


◇


三日後、玉座の間。


歴代王三十七人の総意として、こう示されました。


――セレスティア・ヴァンローを、第三十八代の王とする。


鐘が、自ら三十七回鳴ったのです。


王宮中が揺れました。宰相が崩れ落ち、貴族たちが床に跪き、アルベルト殿下が呆然と立ち尽くしました。


わたくしは一礼し、こう申し上げました。


「謹んで、ご辞退申し上げます」


「……は?」


「わたくしは、鐘を撞く者でございます。王になりますと、撞く時間がなくなりますので」


鐘が、ゴン、と不満げに鳴りました。


「ヴェルナム様。蜂蜜パンは、毎朝お持ちいたします」


『……うむ』


現金な初代です。


その代わりに、わたくしは契約書を用意しておりました。


全十七条。宰相グレゴール様と三日三晩かけて詰めたものです。


【鐘守り庁設置に関する勅令(抜粋)】


第一条 鐘守り庁を設置し、長官は第二十三代鐘守りセレスティア・ヴァンローとする。


第三条 長官の年俸は金貨四百二十枚。十二年分の未払分を含め、分割にて遡及支給する。


第五条 鐘体の定期点検は月次、撞木は季節ごと、共鳴測定は冬至・夏至の年二回とする。


第七条 鐘守りの提出する報告書は、受領より七日以内に王室および宰相府が開封し、閲覧印を押すものとする。


第八条 前条の開封を怠った者は、怠った日数分、鐘楼の清掃にあたる。


第十一条 鐘守りの解任には、建国法典第四条に基づき歴代王三十七名の同意を要する。解任式において打鐘が確認されなかった場合、解任は無効とする。


第十四条 鐘守り庁は、下働きを正式な職員として登用し、読み書きおよび記録作成の教育を施すものとする。


「第八条が、厳しすぎはしませんかな」


宰相が眼鏡を押し上げます。


「グレゴール様。胸の高さまで積んでおられた方の台詞ではございませんね」


「……仰る通りです」


彼は苦笑して、ペンを取りました。


「この仕事は」


署名しながら、小さく言いました。


「おそらく、私の生涯で最も誇らしい仕事になります」


沙汰も、下りました。


アルベルト殿下は、第三位継承権に降格。


そして鐘楼の清掃当番、三年間。


初日、殿下は箒を持って鐘楼の下に立ち、見上げ、そして言ったそうです。


「……三百段、あるのか?」


ございます。


十二年間、毎朝上っておりました。


ミレーユ様は、実家のアルディ男爵領へお戻りになりました。


処分は、領地の用水路台帳の作成業務。記録帳の書き方を、一から学び直していただきます。


三ヶ月後。


わたくしの手元に、彼女からの最初の報告書が届きました。


誤字が十一箇所。日付の書式が二種類混在。罫線からはみ出した文字が、四行分。


ですが。


提出されていました。


わたくしは赤ペンを取り、丁寧に添削を入れ、最後に一言添えて返送いたしました。


《受領いたしました。次回もお待ちしております。》


◇


よく晴れた日の午後、鐘楼の石段の下。


わたくしは紙包みを広げました。


蜂蜜パンが、三つ。


「ニコ、どうぞ」


「おれ、これ大きくないですか?」


「気のせいです」


「でも」


「気のせいです」


ニコは納得しない顔のまま、大きいほうを齧りました。蜂蜜が指を伝います。彼はもう、袖に垂らさなくなりました。支給服も、袖の長さが合うものに替わりました。鐘守り庁の正式な職員になりましたので。


字も、ずいぶん上達しました。日付の書式も直りました。


ただ、記録帳の余白に《ひびみっつ かわりなし》と書く癖だけは、残っています。


わたくしは直しておりません。


「セレスティア殿」


隣に、長身の影。


セディック様が、黒い外套のまま石段に腰を下ろし、三つ目のパンを受け取りました。


そして、懐から何かを取り出し、ニコに差し出します。


焼き菓子です。


「……食え」


無表情。むしろ、やや険しい。


ニコが、ひっ、と声を上げて涙目になりました。


「ニコ。辺境伯様は、あなたに菓子をくださっています」


「わ、わかってます、わかってるんですけど、顔が」


「はい」


「顔が怖いんです」


「はい」


セディック様が、わずかに目を逸らしました。耳が、少し赤くなっています。


ニコは泣きながら菓子を受け取り、泣きながら食べました。毎回この流れです。


「セレスティア殿」


「はい」


「鐘守り庁の月次報告書、第三号を読んだ」


「お早いですね。先週提出したばかりですが」


「九頁の、撞木の繊維置換についての提案が」


彼は真顔で言いました。


「素晴らしかった」


「……」


わたくしは記録帳を持ち上げ、顔を隠しました。


「少々お待ちくださいませ」


「分かった」


ニコが、もぐもぐしながら二人を見比べて、首を傾げていました。


そのときでした。


ゴ――ン。


頭上で、鐘が鳴りました。


誰も撞いていません。撞木には触れておりません。


青銅の巨体が、自ら震えて、音を放ったのです。


ゴン、ゴン、ゴン。


澄んだ、底まで抜ける、どこまでも昇っていく音でした。


亀裂は三箇所、ございます。


それでも、こんなに美しく鳴るのです。


ニコが口を開けて見上げています。セディック様が、袖で目元を押さえていました。


わたくしは数えました。


三十五、三十六、三十七。


三十七回。


音が空に溶けたあと、長い静けさが降りてきました。


「……今の、なんですか。誰も撞いてないのに」


ニコが小さく言います。


「ご機嫌が、よろしいのでしょう」


わたくしは膝の上の記録帳を開きました。


本日の点検結果を記入するためです。


《鐘体異常なし。亀裂三箇所、進行なし。撞木、置換後の経過良好。自鳴三十七回を確認。要因:不明。所見:――》


ペンが、止まりました。


頁をめくった、その先。


まっさらであるはずの、最終頁。


見知らぬ筆跡が、一行。


《第三十八代、よろしく頼む》


わたくしは、しばらくそれを見つめておりました。


風が、鐘楼を吹き抜けていきます。


「……お断りしたはずですが」


返事はありません。


三十七人分の沈黙というのは、なかなかの圧がございます。


わたくしはため息をひとつつき、ペンを取り直し、その下に書き足しました。


《検討いたします。まずは報告書の開封義務について、第三十八条をご確認くださいませ。》


隣で、セディック様が肩を震わせています。


笑っているのか、泣いているのか。


たぶん、両方でしょう。


「鐘守り様」


ニコが袖を引きました。


「明日も、名前、呼びますか」


「ええ。毎朝」


「おれ、全員ぶん覚えました」


わたくしの眉が、一ミリ上がりました。


「……順序も?」


「はい。発音も」


十一歳の職員が、胸を張ります。


わたくしは、笑ってしまいました。


十二年ぶりくらいに、ちゃんと笑ったかもしれません。


「では、明日は、あなたが呼んでごらんなさい」


「いいんですか」


「わたくしは、記録をつけます」


鐘楼の上で、青銅が、ことり、と鳴りました。


楽しみにしている音でした。


――引き継ぎというのは、鍵を渡すことではございません。


毎朝、名を呼ぶ時間を、渡すことでございます。


◇


(了)


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


もしセレスティアの記録帳に一行でも心が動きましたら、ブックマークと評価をいただけますと、鐘守り庁一同(三十七人+三名)が大変喜びます。


第三十八条の草案は、ただいま作成中でございます。

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