雨と焼香
五月の雨は、アスファルトの匂いと湿った土の香りを運んでくる。
斎場の外に並んだ花輪が、雨に打たれて頭を垂れていた。
「お父さん、お母さん。ねぇ、なんで…………」
花村梨華は、遺影の前に立ち尽くしていた。
三十数年、当たり前にそこにあった《家族》という居場所が、一台の乗用車の暴走によって、文字通り粉々に粉砕された。
焼香の列が途絶え、親戚たちも言葉少なに引き上げた後の、静まり返った式場。
そこに、その男は現れた。
黒い傘を深く差し、大きなマスクで顔を隠している。
しかし、隠しきれない独特のオーラと、モデルのようにすらりとした四肢。
そして、何より梨華の視線を釘付けにしたのは、傘の隙間から覗いた、見間違うはずのないその【瞳】だった。
(……駿、くん……?)
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
枝嶺駿。
私の部屋の壁に、何枚も貼られているポスターの中の男。
スマホの待ち受けも、カバンに忍ばせたお守りも、飾りきれずクローゼットに隠した大量のグッズも、すべてこの男のためにあった。
人生のすべてを捧げ、生活費を削ってまで追いかけ続けた、私の【推し】――。
その彼が今、私の両親を奪った《加害者》として、目の前に立っている。しかも、こんな近くで。昔なら絶対に叶わなかったそんな距離に。
「この度は……、誠に申し訳ございませんでした……」
男は梨華に向かって、床に額がつくほど深く、長く、頭を下げた。
かつてドームを沸かせたあの艶やかな声は影を潜め、絶望に掠れている。
「警察からは、連絡を受けていました。加害者の……枝嶺さんが来ると。」
梨華は、自分の声が震えないよう、奥歯を噛み締めた。
「でも、まさか……引退発表をしたばかりの、あなたが……」
本当はさっきのさっきまで、梨華は人違いであって欲しいと思い、願っていた。
「……弁明の余地もありません。すべて、僕の不注意です。」
駿は、ぐちゃぐちゃに濡れた顔で梨華を見上げた。
その瞳には、かつてステージで放っていた輝きは微塵もない。
(やめて。そんな顔で、私を見ないで。)
ファンだと言えば、彼は少しは救われるだろうか。
けれど、そんなことは許されない。
彼は、私の両親を殺したのだ。
大好きだった笑顔も、歌声も、今はただの毒でしかない。
「情状酌量だそうですね。ブレーキの不具合、そして、あなたの当時の体調。あなたは刑務所に行かなくていい。……でも、私は一人になりました。」
梨華は、冷え切った指先で彼の顎をすくい上げた。
「私は明日から、誰もいない家に帰ります。部屋の明かりが先についていることもなく、『ただいま』と言っても、『おかえり』と言ってくれる人はいない。そんな真っ暗な家に……。ねぇ、幸せで明るかった私の世界を、あなたが壊したんです。」
梨華の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「あの……僕、何でもします。僕にできることなら、本当に何でも……。一生をかけて、償わせてください。」
梨華は心のどこかで、その言葉を待っていた気がした。
「本当に……何でもするんですね?」
そう聞いても、彼は『何でもする』と言った。
でも、その言葉の重さを、この男は分かっていない。
「なら、私と結婚して、私の家族になってください。」
自分でもいくらファンだったからといって、狂っているのは分かっていた。
でも、かつての愛など、そこには一滴もなかった。
これは、最愛の元推しに贈る、世界で最も残酷なプロポーズという名のファンレターだった。
「私は独りになりました。あなたが奪ったんです。だから、あなたが私の『家族』になって、一生、私のそばで、奪ったものの代わりに私を支え続けて……。それが、あなたの償いです。心なんていりませんから。」
これが彼への《復讐》なのか、それとも、失った《家族》の欠片を彼で埋めようとする梨華の執着なのか。
「え……?」
駿は、呆然としたまま梨華を見つめていた。
自分を憎んでいるはずの女性からの、あまりにも奇妙な要求。
けれど、今の彼には、その地獄のような提案を拒む権利などないことも理解していた。
「……わかりました。あなたの……花村さんの言う通りにします。これから、よろしくお願いします。」
雨音だけが響く斎場で、二人の《家族》としての契約が結ばれた。
(私は、この人を絶対に好きにならない。この人は、私の両親を奪った男。……ただの、人殺しなんだから。)
梨華は心の中で、自分に永遠の呪いをかけた。




