後編
プツン。
耳の奥で、無機質な電子音が響いた。 それは、私の世界を支えていた最後の防波堤が崩壊した合図だった。 『Power off』 囁くようなガイド音声の後、ワイヤレスイヤホンはただの冷たいプラスチックの塊へと成り下がった。
同時に、濁流のような「音」が私の鼓膜を蹂躙した。 電車のブレーキが軋む高い音、酔客の品のない笑い声、点字ブロックを叩く杖の音、そして湿り気を帯びた他人の呼吸音。 今までノイズキャンセリングの裏側に押し込めていた世界のすべてが、牙を剥いて私に襲いかかってきた。
「……あ、……っ」
私はホームのベンチに座り込み、両耳を塞いだ。 けれど、指の隙間からノイズは侵入してくる。 これまで、倍速視聴で効率よく「消費」してきたはずの世界は、実際にはこんなにも冗長で、醜く、そして不快な響きに満ちていたのか。 私は、全裸で嵐の中に放り出されたような恐怖に震えた。
その時、コートのポケットの中でスマホが震えた。 タクミからのメッセージだ。
『さっきはごめん。でも、君にだけは、本当の僕を見てほしかったんだ。さようなら』
画面の端には、赤いバッテリーアイコン。残り1%。 彼のメッセージを読んだ直後、スマホの画面もまた、ブラックアウトした。 私の手元に残されたのは、何の役にも立たない「ワイシャツ」の死骸と、受け止める術を知らない他人の「重すぎる感情」だけだった。
「……見たくない」
私は呟いた。 タクミの悲しみ。彼の母親の死。彼の人生の迷走。 そんなものを等倍速で受け止めていたら、私の人生はあっという間に「他人の物語」に侵食されてしまう。 私の「部屋」は、私だけの静寂で満たされていなければならない。 そこに他人の涙や、救いを求める声が入り込む余地なんて、一ミリだってあってはならないのだ。
私は立ち上がり、ふらふらと駅の出口へと向かった。 街の騒音は相変わらず激しかったけれど、私の心の中では、ある「決断」が形を成し始めていた。 それは、毒入りのスープを飲ませるよりもずっと効率的で、ずっと現代的な「自己防衛」だった。
アパートに帰り着くと、私は真っ先に充電器へと向かった。 けれど、スマホやイヤホンに息を吹き込ませるためではない。 私は、それらをクローゼットの奥深く、普段使わない箱の中に放り込んだ。
そして、部屋中の照明を消し、窓を開けた。 都会の夜の騒音が部屋になだれ込んでくる。けれど、私はそれを拒絶しない。 拒絶するためにデバイスを使うから、デバイスを失ったときに崩壊するのだ。 最初から、この世界のすべてを「無意味な背景音」として定義してしまえばいい。
私は、暗闇の中で椅子に深く腰掛けた。 タクミという男。彼と過ごした時間。彼から投げつけられた重い告白。 私はそれらを、脳内のゴミ箱へとドラッグ&ドロップする。 「削除しますか?」という問いに、一瞬の躊躇もなく「はい」と答える。
彼を「ブロック」する必要さえない。 私自身の意識から、彼という「ノイズ」を消去してしまえばいい。 彼の悲しみも、私の動揺も、すべては「タイパ」の悪いエラーデータだったのだ。
その時。 窓の外、都会のビル群の間に、あのドローンの光が見えた。 赤と青のライトが、夜空に幾何学的な模様を描いている。
ドローンは、地上で何が起きようとも、そのレンズで淡々と風景を記録し続けている。 誰かが死のうが、誰かが愛を囁こうが、誰かが絶望に打ちひしがれようが。 それはドローンのプロセッサにとっては、ただの「光の乱反射」に過ぎない。 そこには同情も、共感も、温度もない。 ただ、冷徹で完璧な「観測」があるだけだ。
「……綺麗」
私は、初めてドローンの光を、心から美しいと思った。 私も、ああなりたい。 感情という名のノイズを、高度な演算によって無効化し、ただ最短距離で目的へと飛び続ける存在。 私は、暗闇の中で自分自身にノイズキャンセリングをかけた。 タクミの顔を消す。彼の声を消す。今日という一日を、一秒も残さず消し去る。
静寂が、戻ってきた。 イヤホンを使わなくても、私は私の「部屋」を、再び完璧なものに作り変えることができた。
私は、窓を閉めて鍵をかけた。 そして、自分自身の意識にログインし、今日のログを完全に消去した。 明日になれば、私はまた「チル」で効率的な莉奈として、2倍速の世界へと戻っていくだけだ。
もし、私の人生に、これ以上のノイズが入り込もうとしたら。 その時は、私の世界からその人間を「ログアウト」させればいい。 毒なんていらない。 ただ、私を「静かに」させておいてくれれば、それでいいのだ。
ドローンの光が、ビルの向こう側へ消えていく。 都会の夜には、また一つ、窓の明かりが消えた。 そこには、加工された静寂と、冷え切った効率だけが残されていた。




