中編
タクミの口から漏れ出した言葉は、私の脳内にある「予定調和」という名のインデックスを、次々と無慈悲に書き換えていった。
「仕事を辞めて、田舎に戻ろうかと思ってるんだ。母さんが死んでから、なんだか全部が空っぽに見えて……」
彼の声は、カフェの雑踏に溶け込むような低いトーンだったけれど、私にとっては耐えがたいほどの「ノイズ」として響いた。 母の死。喪失感。人生の迷走。 それらはすべて、私が最も嫌う「処理不能な非効率」の塊だ。そんな重い話を、マッチングアプリで出会って一時間も経たない人間に投げつけるなんて、タイムパフォーマンスに対する冒涜ではないだろうか。
私は、テーブルの上で磨き上げられたワイヤレスイヤホンのケースを指先でなぞった。 このデバイスさえあれば、私はいつでもここから逃げ出せる。ノイズキャンセリングをオンにすれば、彼の湿った声も、その瞳に宿る絶望も、すべては「存在しない波」として打ち消される。 かつての女性たちが、夫の機嫌を伺いながらワイシャツの皺を伸ばしたように、私は今、自分の感情の波を平坦にするために、必死にデバイスという名の盾に触れていた。
「……莉奈さん、聞いてる?」
タクミが顔を上げた。その瞳には、私の「スペック」ではなく、私の「内側」を見透かそうとするような、嫌な熱が宿っていた。
「聞いていますよ。お母様のこと、それは大変でしたね。でも、それを今、私に話すことで、タクミさんは何を解決したいんですか?」
私の声は、自分でも驚くほど冷徹だった。 タクミは一瞬、呆気に取られたように目を見開いた。
「解決……? いや、解決したいわけじゃない。ただ、誰かに聞いてほしかったんだ。君なら、静かに話を聞いてくれる気がして」
「『ただ聞いてほしい』というのは、コミュニケーションにおけるコストパフォーマンスが最も低い行為だと思いませんか。ゴールが設定されていない会話は、お互いの時間を浪費するだけです」
私は早口でまくしたてた。 心臓が少しだけ速く打っている。これは「チル」ではない。私は今、彼というノイズによって、ペースを乱されているのだ。 私は左耳のイヤホンの音量を、さらに一つ上げた。 Lo-fi Hip Hopの微かなビートが、タクミの言葉の隙間を埋めていく。私は彼の顔を見ながら、心の中ではYouTubeの動画を1.5倍速、2倍速にするのと同じように、彼の話を「スキップ」しようとしていた。
「莉奈さん、君は……いつもそうやって、自分を守ってるの?」
タクミの声が、イヤホンの隙間を縫って届く。
「守る? 何からですか」
「痛みとか、悲しみとか……そういう『無駄』に見えるものからさ。でも、それって生きてるって言えるのかな。ノイズを全部消して、綺麗な音楽だけ聴いて、倍速で情報を詰め込んで……。君の人生には、誰かの涙が入り込む余地もないの?」
タクミの手が、テーブルを越えて私の手に伸びてきた。 その瞬間、私は弾かれたように手を引いた。 彼の指先が触れそうになった場所が、火傷をしたように熱い。 生身の人間が持つ、生々しい温度。コントロールできない熱量。 それは、私が最も遠ざけてきた「汚れた現実」そのものだった。
「やめてください」
私は立ち上がった。
「私は、自分の時間をコントロールしたいだけです。あなたの『等倍速』の悲しみに付き合わされる義理はありません」
カフェのテラス席に、一瞬の静寂が訪れた。 周囲の客が、何事かとこちらを見ている。 恥ずかしさ。苛立ち。そして、自分でも理解できない「焦り」。 それらが一気に押し寄せ、私の完璧な「静寂の聖域」を侵食していく。
ふと見上げると、ビルの谷間の切り取られたような空を、ドローンが再び横切っていった。 赤と青のランプが、冷淡に、規則的に点滅している。 太陽の光を跳ね返すレンズは、地上で感情を露わにしている私たちを、解像度の高い静止画として切り取っているだろう。 あのアクリルと金属の塊になりたい。 高度な計算能力と、完璧な自律制御。 悲しみも、焦りも、温度もない。 ただ、プログラムされた通りに、最短距離で空を飛ぶだけの存在に。
「莉奈さん。君のイヤホン、光ってるよ」
タクミが静かに言った。 見ると、テーブルに置いていたケースのインジケーターが、充電不足を示す赤色に点滅していた。 昨夜、確かに満充電にしたはずなのに。どこかで放電していたのか、それとも私の設定ミスか。
完璧だった私の装備に、決定的な綻びが生じていた。 充電が切れれば、ノイズキャンセリングは機能しない。 私は、この世界のあらゆる騒音を、タクミの嗚咽を、雑踏の叫びを、そのまま受け入れなければならなくなる。 それは、私にとって「全裸」で戦場に立つことと同じだった。
「……お会計、済ませておきます。失礼します」
私は逃げるように席を立った。 後ろでタクミが何かを言った気がしたが、私はそれを聞かなかった。 バッグの中にケースを押し込み、私は中目黒の雑踏へと駆け出した。
街は、情報のゴミで溢れていた。 看板、広告、誰かの笑い声、車のクラクション。 ノイキャンが弱まり始めたイヤホンからは、外界の音がじわりじわりと染み込んでくる。 「逆位相の波」が、もう現実の波を打ち消しきれなくなっている。
私は駅のホームに駆け込み、電車を待った。 線路の向こう側、高架の上を、あのドローンがゆっくりと並走していくのが見えた。 まるで行き場を失った私を、嘲笑うように。
「……消えて」
私は呟き、耳元のイヤホンを強く押し付けた。 けれど、音楽は途切れ途切れになり、代わりに不快な金属音が脳内に響く。 バッテリー残量、残り1%。
私の世界が、音を立てて崩れようとしていた。 効率と、タイパと、チル。 それらですべてを塗り固めてきた私の二十五年間が、たった一人の男の「悲しみ」というノイズに負けようとしている。
私は震える手でスマホを取り出した。 けれど、画面に映る自分の顔は、フィルターをかけていないせいか、ひどく青白く、そして怯えているように見えた。




