後編
絶望の一夜が明け、僕の四畳半の「倉庫」に、再び白々とした太陽の光が差し込んできた。
かつて、この光は僕にとって、リアの輝きを反射させるためのスポットライトだった。けれど今、光に照らされているのは、棚に積み重なったプラスチックの残骸と、埃を被ったグッズの山だ。 僕は、カバンのポケットに無造作に放り込んでいたリアのアクスタを取り出した。 表面には、昨日までの僕なら決して許さなかったはずの、僕自身の指紋がベタベタと付着している。透明だったプラスチックの板は、皮脂と埃で薄汚れ、惨めに曇っていた。
「……アイロンをかける必要も、もうないんだな」
僕は独り言を呟き、それを机に放り投げた。 カラン、と乾いた音がして、アクスタが転がる。 かつての『部屋とワイシャツと私』の主人公は、愛する人が裏切ったら毒入りのスープを飲ませると歌った。情念を、呪いという形で永遠に繋ぎ止めようとした。 けれど、僕は違う。 僕たちの世代にとって、裏切られたあとに残るものは「怒り」ですらない。それは、費やした時間と金に対する「サンクコストの計算」だ。
僕は、スマホを手に取った。 裏切った彼女に対して、殺意を抱くほど僕は彼女を人間として見ていなかった。僕が愛していたのは、僕の人生を彩る「完璧なコンテンツ」だったのだ。 そして、不祥事を起こし、僕を現実に引き戻してしまった彼女は、もはや「不良品」に過ぎない。
僕は慣れた手つきで、フリマアプリ『メルカリ』を起動した。 これが、僕にとっての「毒入りスープ」だ。
僕は、棚に並んだ限定盤のCD、サイン入りのチェキ、そして汚れ一つなかった(はずの)アクスタを、次々と床に並べた。 写真は、なるべく綺麗に見えるように撮る。皮肉なことに、長年のオタ活で培われた「映え」の技術が、ここで最大限に発揮された。
『【美品】ルミナス・レイ リア アクスタ・生写真セット(おまけ付き)』 『商品の状態:目立った傷や汚れなし』
「汚れなし」という言葉を打ち込むとき、僕の指先が少しだけ震えた。 彼女の魂は、僕の中ですっかり汚れてしまった。けれど、このプラスチックの板には、相場通りの価値がまだ残っている。僕はそれを、一円でも高く、効率的に「処理」しなければならない。それが、僕なりの、この歪な愛への決別だった。
出品ボタンをタップする。 かつて宝物だったそれらは、瞬時にデジタル空間へと放流され、数字へと変換されていく。 数分も経たないうちに、「購入されました!」という通知が連続して届いた。 購入者は、まだ彼女の「嘘」を許せる熱量を持っている誰かか、あるいは新規のファンだろう。 僕にとっては価値を失ったゴミでも、誰かにとってはまだ「聖遺物」になり得る。 この無機質な需給の一致が、今の僕には最高に心地よかった。
「……ふぅ」
僕は、黒いビニール袋とプチプチを用意し、梱包作業を始めた。 かつて、僕がこの部屋で彼女のグッズを一つ一つ丁寧に開封し、うっとりと眺めていたあの時間は、一体何だったのだろう。 部屋の中が、少しずつ「空」になっていく。 リアのポスターを剥がしたあとの壁は、驚くほど白く、そして寒々しかった。 けれど、その白さが、僕には救いだった。
作業が終わる頃、外はすっかり暗くなっていた。 僕は梱包した荷物を抱えて、コンビニへ向かう。 夜の街を歩きながら、僕はふと、自分の心が驚くほど軽くなっていることに気づいた。 「推し事」という義務から解放され、僕はただの、何者でもない健斗に戻ったのだ。
コンビニで荷物を発送し、レジでレシートを受け取る。 その瞬間、僕のスマホに「売上金」がチャージされた。 数百時間を注ぎ込み、数えきれないほどの情熱を捧げた僕の「愛」は、数万円という電子マネーに姿を変えた。 僕はその金で、迷わず一缶のストロングゼロと、少し高いコンビニ弁当を買った。
帰り道。 公園の入り口で、僕は足を止めた。 あのベンチの向こう側、都会の夜空を、ドローンの光が静かに横切っていくのが見えた。 僕が昨日見上げた、あの冷徹な光。
ドローンは、都会の夜に蠢く無数の孤独な光を、淡々と記録し続けている。 僕が彼女を「売った」ことも、その金で安っぽい酒を買ったことも、すべては巨大なデータベースの一行に過ぎない。 「愛してる」なんて言葉は、データには残らない。 残るのは、取引の履歴と、残高の数字だけだ。
「……あ、そうか」
僕は、酒のプルタブを開けながら呟いた。
「次、どのアクスタ買おうかな」
僕の口から出たのは、反省でも後悔でもなかった。 僕の四畳半の「部屋」には、新しいコンテンツを受け入れるためのスペースが、すでに十分すぎるほど空いている。 そこに新しい「ワイシャツ」を立たせれば、僕は再び、透明な幸福の中に逃げ込むことができる。
僕は、スマホをスワイプした。 SNSのトレンドには、すでに「新星アイドルグループ」の名前が踊っている。 僕は、新しい「推し」の候補を探し始めた。 今度は、もう少しスキャンダルのなさそうな、優等生タイプがいいな。 そんなことを考えながら、僕は夜の闇に消えていくドローンの光を見送った。
毒なんて飲ませない。 ただ、システムの中で「更新」すればいいだけだ。 僕たちの愛は、いつだって使い捨ての、美しいプラスチックでできている。




