中編
最高潮のライブから一週間後。 僕の日常は、一つのプッシュ通知によって、いとも容易く、そして無惨に崩壊した。
その夜も、僕はバイト終わりの重い体を引きずり、四畳半の「倉庫」で明日のライブに向けた準備をしていた。カバンの中に予備の電池を詰め、応援タオルを丁寧に畳む。そして最後の一仕上げとして、机の上に立たせたリアのアクスタを専用のクリーニングクロスで磨き上げる。 プラスチックの板は、蛍光灯の光を跳ね返して白く輝いている。汚れひとつない。僕の愛に一点の曇りもないことの証明のように。
ピコン。
机の上に置いたスマホが、短く震えた。 SNSの通知だ。最初は、明日のライブに関する公式のアナウンスか、あるいはファンの仲間の威勢のいい投稿だろうと思っていた。 けれど、画面に表示された見出しを見た瞬間、僕の指先から血の気が引いていくのが分かった。
『【独占】ルミナス・レイ不動のセンター・リア、長身イケメンモデルとのお泊まり愛をスクショ撮り!』
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
「……嘘だろ」
乾いた声が、狭い部屋に響く。 震える指でリンクをタップする。読み込み中の数秒間が、まるで数時間のように長く感じられた。表示されたのは、夜の港区を親密そうに歩く二人の姿だった。 相手の男は、僕のような日陰の人間とは正反対の、光の中に生きる側の人間だった。高価そうなジャケットを羽織り、自信に満ちた笑みを浮かべている。 そしてその隣で、彼の腕に抱かれるようにして歩いているのは、間違いなくリアだった。
彼女は、僕たちが見たこともないような、一人の「女」の顔をしていた。 ステージで見せる、すべての人を救うような聖母の微笑みではない。特定の誰かだけに向けられた、甘く、無防備で、生々しい熱を帯びた表情。
「……っ」
吐き気がした。 僕はスマホを投げ捨て、机の上のアクスタを見つめた。 そこには、十五センチの板に閉じ込められた、永遠に変わらないはずの「僕だけのリア」がいた。彼女は今この瞬間も、透明なプラスチックの中で無垢に微笑んでいる。 けれど、その微笑みが、今はひどく空虚で、欺瞞に満ちたものに見えた。
僕がバイト代を削り、睡眠時間を削り、人生を切り売りして注ぎ込んできた金の数々。 それは彼女のダンスレッスンのためでも、グループの存続のためでもなかった。 写真の中の男が着ている、あの高価そうなブランド物のジャケットの一部になり、彼らが飲むシャンパンの一滴に変わっていたのだ。
かつての『部屋とワイシャツと私』では、浮気した相手に毒入りのスープを飲ませるという情念が歌われていた。 けれど、僕には毒を盛る権利さえない。 なぜなら、僕は彼女にとって「ただの透明な歯車」の一人に過ぎないからだ。僕がどれほど傷つこうが、どれほど裏切られたと感じようが、彼女は僕の存在すら知らない。 「現場」という部屋の中で、僕たちは繋がっていると錯覚していた。 けれど、実際には巨大な防弾ガラスで隔てられていて、僕の叫び声はあちら側には一分も届いていなかったのだ。
僕はフラフラと立ち上がり、部屋の隅に積まれたグッズの山を見た。 限定盤のCD、サイン入りのチェキ、何種類ものタオル。 それらは数時間前まで、僕にとっての「聖遺物」だった。けれど今は、部屋を狭くしているだけの、ただのプラスチックと紙の塊にしか見えない。 部屋の中に漂う埃の匂いが、急に鼻につくようになった。
SNSを開くと、界隈は地獄絵図と化していた。 「信じてたのに」「裏切り者」「金返せ」 怒号に近い言葉がタイムラインを埋め尽くしている。 一方で、「恋愛くらい自由にさせてやれ」「プライベートは別だろ」という、物分かりのいい「全肯定オタク」たちの言葉が、さらに火に油を注いでいる。
僕はどちらにも属せなかった。 怒るだけの気力もなく、許せるほど心は広くない。 ただ、自分が今まで信じてきた「世界」の土台が、音を立てて砂のように崩れていく感覚に耐えていた。
深夜。 僕は何もかもが嫌になり、薄暗い公園へと向かった。 そこは、僕が最高の幸福を噛み締めていた、あのベンチがある場所だ。 カバンの中には、あのアクスタが入っている。 僕はベンチに座り、ケースから彼女を取り出した。
月明かりの下で見ても、アクスタのリアは完璧に美しかった。 指紋ひとつ付いていない、磨き上げられた透明な板。 僕が彼女のために捧げてきた「清潔さ」は、まだここにある。 けれど、その中身はもう死んでいた。 僕の中にいた「アイドル・リア」という偶像は、港区の夜の闇に溶けて消えてしまった。
「……ねえ、リア」 僕は、返事のないプラスチックに話しかけた。 「君にとって、僕たちは何だったの? 便利な財布? それとも、自分の輝きを反射させるための鏡?」
その時だった。 遥か上空、ビルの屋上の影から、ドローンの光が現れた。 赤と青のライトが、冷淡に夜空を刻んでいる。 ドローンは迷いのない動きで、僕の頭上を通過していった。 そのレンズは、公園のベンチで十五センチの板を抱えて泣きそうになっている男の姿を、データの一つとして冷酷にスキャンしている。
ドローンに搭載されたAIは、僕のこの絶望を「非効率な感情の揺れ」として片付けるだろうか。 あるいは、僕が注ぎ込んできた何百万円という数字の損失を、ただの統計として処理するだろうか。
ドローンの光が遠ざかっていく。 その後に残されたのは、街灯の冷たいオレンジ色と、僕の手に残った冷たいプラスチックの感触だけだった。
「……ああ、そうか」 僕は、ふと気づいた。 僕が愛していたのは、リアという人間ではなかったのだ。 僕は、自分の空っぽな人生に意味を与えてくれる「完璧な記号」としての彼女を、このアクスタという依代の中に閉じ込めて、一方的に消費していただけなのだ。
僕が守っていた「ワイシャツ」は、最初から僕自身の独りよがりな幻想で編まれたものだった。 そしてその幻想は、現実という名の鋭い刃によって、今、決定的に切り裂かれた。
僕は立ち上がり、アクスタをじっと見つめた。 割る勇気はない。けれど、もうこれを磨く理由は、どこにも残っていなかった。
「……さよなら」
僕はアクスタをケースに戻さず、直接カバンのポケットに突っ込んだ。 擦れて傷がつくかもしれない。指紋がつくかもしれない。 けれど、もうどうでもよかった。 透明だった僕の世界に、消えない汚れが染み付いていくのを、僕はただ無言で受け入れていた。




