中編
中目黒からの帰り道、私たちはほとんど口を利かなかった。 東急東横線の車内、窓に映る自分の顔をチェックする。窓ガラスに映る私は、照明のせいで酷く顔色が悪く、目の下のクマが強調されていた。私は慌てて視線を逸らし、手元のiPhoneに逃げ込む。
カフェで撮った動画を編集しなければならない。 アプリを立ち上げ、大輝のTシャツにドレッシングが飛んだ瞬間を「カット」する。AI消しゴム機能を使って、テーブルの上の汚れをなぞる。一瞬の計算時間の後、画面の中の汚れは魔法のように消え去り、そこには最初から何もなかったかのような「完璧な清潔」が復元された。
「……ねえ、これ見て。綺麗に消えたよ」
私は大輝に画面を見せた。仲直りのきっかけのつもりだった。 しかし、大輝は画面を一瞥しただけで、力なく首を振った。
「消したのは、画面の中だけだろ? 俺のシャツは、まだ汚れたままだよ」
彼の視線は、自分の胸元に落ちた茶褐色のシミに固定されていた。 私は、それ以上何も言えなくなった。私にとっての解決は「記録を修正すること」であり、彼にとっての解決は「今ここにある汚れを拭うこと」だった。私たちの優先順位は、平行線のまま交わることはない。
アパートに戻ると、部屋の中は朝よりもさらに荒れていた。 撮影のために端に寄せたゴミ袋、脱ぎっぱなしの靴下、そしてホコリを被った鏡。私はその景色を見ないようにして、すぐにベッドに潜り込み、スマホのブルーライトに顔を照らされる。
画面の中の私は、今まさにカフェでの「最高の休日」を世界に発信している最中だった。 『トラブルもあったけど、それも良い思い出。やっぱり彼と過ごす時間は特別。』 そんな嘘くさいキャプションを添えて投稿すると、一分も経たないうちに「憧れます!」「素敵なカップルですね」というコメントが並ぶ。
大輝は隣で、背中を向けて眠っている。 いや、眠った振りをしているだけだということは、その硬い肩のラインで分かった。 私はその背中に向かって、心のなかで毒を吐く。
(どうして分かってくれないの? 私がこうして「素敵な私」を維持しているから、あなたは「素敵な彼女を持つ彼氏」でいられるのに。)
数時間後。深夜二時。 大輝の寝息が聞こえ始めた頃、私はスマホの「アカウント切り替え」をタップした。 本垢ではない、フォロワー数人だけの裏アカウント。通称「病み垢」。 そこは、加工もフィルターも一切排除した、私のドロドロとした本音の掃き溜めだった。
『隣で寝てる男が、私の世界を壊そうとしてくる。等身大の君がいいなんて、無責任なこと言わないでほしい。等身大の私なんて、誰も愛してくれないのに。』
そんな投稿をしようとした時だった。
「……何書いてるの?」
心臓が跳ね上がった。 いつの間にか大輝が起き上がり、私の手元を覗き込んでいた。 私は反射的にスマホを胸に抱え込んだが、彼は既に、画面に表示された不穏な文字列を目にしていた。
「芽衣、それ……何?」
「何でもない! 見ないでよ!」
「見せてくれ。お前、いつもそんな風に思ってたのか? 俺のこと、邪魔だって思ってたのか?」
大輝の手が、私のスマホに伸びる。 それは、私という人間の核を、喉元を掴もうとする動きだった。 私にとってスマホは、自分自身を保護する「外骨格」のようなものだ。中身は空っぽで、傷つきやすく、自己肯定感なんて欠片もない。だからこそ、このチタニウムの筐体と、そこから発信される「加工された虚像」で自分を武装し続けてきた。
「やめて! 触らないで!」
「現実を見ろよ、芽衣! 部屋はゴミだらけで、俺たちの仲もボロボロで……なのに画面の中だけ幸せな振りして、何が楽しいんだよ!」
大輝が私の手首を掴み、スマホを奪い取ろうとする。 私たちはベッドの上で、醜くもつれ合った。 かつての『部屋とワイシャツと私』なら、ここで愛ゆえの狂気がスープに毒を盛る展開になっただろう。けれど、令和の私の狂気は、もっと冷たく、無機質な場所にあった。
その時、閉め忘れていた窓の隙間から、冷たい夜風が入り込んだ。 ふと外を見ると、遠くの夜空を、あのドローンの光が再び横切った。 赤と青のランプが、規則的に点滅している。 それはまるで、地上の滑稽な争いを記録し、クラウド上にアップロードし続けている巨大な監視カメラのようだった。
「……離して」
私は、冷え切った声で言った。 大輝がひるんだ隙に、私はスマホを取り返した。
「分かったよ。大輝がそんなに言うなら、もう『私たち』の発信はやめる」
「……分かってくれたのか?」 「うん。もう、大輝に不快な思いはさせない」
私は大輝を見つめ、今日初めて「本物の笑顔」を見せた。 それは、フィルターを通したどんな笑顔よりも美しく、そして残酷なものだった。 大輝は安心したように、私の肩に手を置いた。
けれど、彼は気づいていなかった。 私の頭の中では、すでに「修正」が始まっていることに。 傷ついたシャツ、汚れた部屋、価値観の合わない恋人。 これらすべては、私の美しいタイムラインにおける「ノイズ」に過ぎない。
私は、画面の底にある「非表示」や「削除」というボタンを思い浮かべる。 邪魔なものは、消せばいい。 デジタル上の記録さえ消去してしまえば、私たちの三年間の月日も、今この瞬間の痛みも、最初から存在しなかったことになる。
「明日、早いからもう寝よう?」 私は優しくそう言って、大輝を促した。 スマホの画面は、設定した「おやすみモード」によって、すべての通知を遮断していた。 けれど、私の指先は暗闇の中で、静かに、確実に、ある操作を完了させていた。
「毒入りスープ」なんて、もう古い。 今の時代、人を殺すのに毒はいらない。 ただ、その存在を「なかったこと」にすればいいだけなのだ。




