前編
朝、視界に飛び込んできたのは、窓から差し込む無慈悲なまでの直射日光と、その光に照らされた「現実」の成れの果てだった。
二十三歳の私の部屋。築三十年の木造アパート、六畳一間。床には一昨日脱ぎ捨てたユニクロのスウェットと、中身の干からびたコンビニのサラダボウル、そして読みかけのまま放置された自己啓発本が重なっている。夏場の湿気を含んだ空気はどこか重く、埃の匂いがした。
しかし、私はその惨状を一切視界に入れない。寝起きのまま、枕元で充電ケーブルに繋がれた「それ」を手に取る。
iPhone 15 Pro。チタニウムの冷たい質感が、私の指先に「今日」という社会との接続を告げる。
私は慣れた手つきで、床に転がっていた真っ白なリネン素材のシーツを、日当たりの良い一角にだけ広げた。そこだけが、私の部屋における聖域だ。その上に、昨夜わざわざ買っておいた「映え」専用の高級なクロワッサンと、お気に入りのブランドのマグカップを置く。カップの中身は、インスタントの粉を溶かしただけの冷めたカフェラテだ。
「……よし」
三脚を立て、ポートレートモードを起動する。画角の中に、埃っぽい床やゴミ箱が入らないよう、ミリ単位で調整を繰り返す。画面の中には今、世界で一番丁寧で、清潔で、幸福な朝が切り取られている。
シャッターを切る。加工アプリを開く。 彩度を少し下げ、粒子を加え、コントラストを調整する。少しだけ「エモい」影を落とし、キャプションには短くこう綴った。
『お気に入りの光と、ゆっくり流れる朝の時間。 #丁寧な暮らし #morningroutine #朝ごパン』
投稿ボタンを押した瞬間、私の心臓が小さく跳ねる。数秒後、画面の底から赤いハートの通知が湧き上がってくる。十、二十、五十。見知らぬ誰かからの「承認」が、私の枯れかけた自己肯定感を、点滴のように潤していく。
私にとっての「部屋」は、この六畳間のことではない。 私をフォローしている五千人の目に映る、あの美しく整頓された正方形のフィード。それこそが、私が守るべき本物の「居場所」だった。
「芽衣、またスマホ見てんの?」
背後から聞こえた声に、私は現実に引き戻される。 ベッドの端で、不機嫌そうに髪を掻き上げているのは、付き合って一年の大輝だ。彼は私と同じ、デジタルネイティブ世代のはずだが、私のこの「儀式」に対してはいつも冷ややかだった。
「仕事なの。SNSマーケの会社に勤めてるんだから、トレンドは追わないといけないの」
「朝ごはんの写真撮るのが仕事かよ。それ、もう冷めてるだろ?」
「冷めてても関係ないよ。綺麗に見えることが一番大事なんだから」
私は、画面の向こう側の五千人に微笑みかけるのと同じ熱量で、目の前の恋人に接することができない。 私にとって、スマホは単なる通信機器ではない。かつての女性たちが、愛する人のために心を込めて「ワイシャツ」にアイロンをかけたように、私はこの薄いデバイスを磨き上げ、加工という名のアイロンをかけ、自分という商品を社会に提示し続けている。これこそが、私の正装であり、盾なのだ。
「今日、午後から中目黒のカフェ行くって約束したよね。新しいコンセプトの店がオープンしたから、一緒に行ってほしいんだけど」
「いいけど……。また『俺、写真撮り終わるまで待機』のやつだろ?」
「お願い。大輝、写真撮るの上手くなったじゃん。あそこの内装、私のフィードの世界観にぴったりなんだよ」
大輝は溜息をつき、再び枕に顔を埋めた。 私はそんな彼を横目に、鏡の前でメイクを始める。鏡に映る自分の顔を見る時間は、スマホの画面を見ている時間に比べれば、ごくわずかだ。だって、鏡の中の私は加工ができない。毛穴も、クマも、少し歪んだ口角も、すべてが残酷に露出している。
私は、画面の中の「完璧な私」に近づくために、塗り重ねる。 コンシーラーで不都合を隠し、ハイライトで虚構の光を当てる。 スマホのレンズを通したとき、一番「愛される」顔になるように。
「……ねえ、大輝。もし私が、SNSを全部やめたら、どうする?」
ふとした拍子に、そんな問いが口を突いて出た。 大輝は顔を上げず、くぐもった声で答える。
「いいんじゃない。やっと、普通に会話ができるようになるかもな」
普通。 その言葉が、私の胸に冷たく刺さる。 大輝が求める「普通」は、血の通った、温度のある、そして不細工でノイズだらけの日常だ。 けれど、私が求めているのは、ノイズを一切排した、静止画のように美しい「永遠」なのだ。
私たちは、同じ部屋にいながら、決定的に違う世界を見ていた。
正午過ぎ。私たちは予定通り、中目黒のカフェへと向かった。 街は、私と同じような人々で溢れていた。誰もがスマホを構え、レンズ越しに世界を見ている。 日差しは強く、アスファルトからは陽炎が立っている。
カフェのテラス席。運ばれてきた色鮮やかなエディブルフラワーが散らされたサラダを前に、私は再び「仕事」を開始する。 大輝は、スマホを持たない方の手をテーブルの下で弄んでいた。
「一口も食べないの?」
「待って、まだ逆光。あと動画も撮りたい。リール用に、フォークで持ち上げるシーンだけ撮らせて」
私の指示に従い、大輝はロボットのような手つきでフォークを動かす。 その時だった。
「……あ」
大輝の不自然な動きのせいで、ドレッシングが彼の白いTシャツに飛び散った。
「あーあ、汚れちゃったじゃん。芽衣、これ……」
大輝が困ったようにシャツを見せたが、私の反応は冷酷だった。
「ちょっと! 今いい感じに撮れてたのに。汚れが入っちゃったじゃん。撮り直しだよ」
大輝の顔から、急速に表情が消えていく。 汚れたのは、彼の服だ。彼の時間だ。彼の尊厳だ。 しかし、私にとっての損失は、動画の中にノイズが混じったことだけだった。
「……芽衣、お前、本当に俺のこと見てる?」
低い、地這うような声。 私はスマホの画面をタップする指を止め、ようやく彼の顔を見た。 大輝の瞳の奥に、暗い、底知れない感情が渦巻いているのが見えた。 それは、私が今までどんなフィルターを使っても消し去ることのできなかった、ドロリとした「現実」の拒絶反応だった。
その時。 カフェの遥か上空、真っ青な空を横切るように、小さな黒い点が動いた。 ブーン、という微かな羽音。 それは、観光用か、あるいは空撮用のドローンだった。
キラリと、太陽の光がドローンのレンズに反射する。 その光は、まるで神様の冷ややかな視線のように、地上の私たちが演じている「幸福な茶番」を、はるか高い場所から静かに見下ろしていた。
「……ごめん。大輝、拭くもの持ってくるね」
私はようやく立ち上がったが、私の右手は、無意識のうちにスマホを固く握りしめたままだった。 これが、私たちの終わりの始まりであることに、私はまだ気づいていなかった。




