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雪国の告白

掲載日:2026/01/25

雪国の告白


1. 夜行列車の邂逅

国境の長いトンネルを抜けると、そこはすべてを拒絶するような白銀の世界だった。

夜行列車は、軋む鉄の悲鳴を上げながら、深い雪の闇を滑っていく。窓ガラスは外気との温度差で白く曇り、街灯の光が淡い絵の具のように滲んでいた。

久我奏太くが そうたは、ただ窓の外を見つめていた。規則的な列車の揺れが、彼の心の奥底に封じ込めていた記憶のおりを静かに揺さぶる。

「……少し、奇妙なお話をしてもいいかしら」

静寂を破ったのは、隣に座る老女の声だった。

深い皺を刻みながらも、その背筋は定規を当てたように真っ直ぐに伸びている。久我が視線を向けると、そこには「かつての美貌」という名の残骸を優雅に纏った、気高くも恐ろしい存在がいた。

雪のように整えられた銀髪。枯れた花びらを思わせる薄い肌。しかし、その眼差しだけは獲物を定める鷹のように鋭く、濡れたような光を湛えている。

久我は何も答えず、ただ窓の曇りを指先でなぞった。その沈黙を肯定と受け取ったのか、老女は静かに語り始めた。

「昔、ある無職の男がいたの。日雇いの仕事もままならず、毎日、空腹に耐えるだけの男」

彼女の唇から言葉が漏れるたび、車内に古い香水の匂いが漂い始める。それはかつて、多くの男たちの理性を狂わせたであろう、濃厚で退廃的な香りだった。

「ある日、男は一人の謎の老人に出会った。身なりは整い、言葉少なだが、目が深く光る人だったわ。老人は男を食堂へ連れて行き、豪華な食事を振る舞い、風呂に入れ、上質な服まで買い与えたのよ」

老女は口角を微かに上げた。

「普通なら疑うでしょう? 『何が目的だ』って」

久我の膝の上で、指先が微かに跳ねた。彼は老女の言葉の端々にこびりついた、古い痛みと恐怖を無意識に拾い始めていた。

「男は尋ねた。すると、その人物はこう言ったのよ――」

声が震えを帯び、雪の粒のように細かな音が列車の軋みと重なる。

「――君が欲しい。とても好きになったんだ。ただ、それだけだよ。君は何もしなくていい。ただ、僕に会ってくれればいいんだ」

列車がポイントを通過し、金属音が雪の夜に鋭く反響した。

「けれど、老人が男に触れることは一度もなかった。ただただ、不気味なほどに親切なだけ。そして……それが、日常になっていったの」


2. 赤い灯の下の日常

老女の声は、雪の静寂に溶け込むように低くなっていく。

「ある日、老人が言ったわ。『君はまだ、未経験だろう』って」

久我は視線を落とした。触れてはいない。しかし、隣り合う空気の振動から、老女の震えが伝わってくる。恐怖、怯え、そして歪んだ陶酔が、見えない糸のように久我の皮膚を這う。

「老人は男を、赤線の女のもとへ通わせたのよ」

久我は沈黙したまま耳を傾ける。

「最初の日、男は足がすくんでいた。扉の向こうから漏れる赤い灯り、湿り気を帯びた女たちの声……。身体が拒絶しているのに、逃げられない。背中を押す老人の手の温もりが、氷のように冷たく感じられて、男は吸い込まれるように中に入るしかなかった」

久我の脳裏に、雪の冷気とともにその感覚が流れ込む。それは数十年前に誰かが経験したはずの光景が、まるで今、自分の肌の上で起きているかのような鮮明さで蘇る。

「繰り返すうちに、通うことが日常になった。怖い、嫌だ……心はそう叫んでいるのに、身体は正直だった。逃げられない、拒めない。その事実を受け入れるたび、恐怖と微かな快感が、毎夜少しずつ心に刻まれていったのよ」

老女は小さく、喉を鳴らして笑った。

「羞恥も、痛みも、官能も……すべてが雪のように男の中に降り積もり、溶けていった。そしてある日、女も老人も、唐突に姿を消したわ」


3. たねの正体

「それからというもの、奇妙なことが起きた。男はやたらと死にかけの目に遭うようになったのよ」

老女の言葉に、久我の掌に冷たい戦慄が走る。

「車に轢かれそうになり、階段から突き落とされそうになる。まるで、誰かが自分の命を必死に回収しようとしているみたいに。そんなある日、男はアルバイトをしたの。国賓を迎えるような、格調高い演奏会の案内係をね」

列車の暖房は効いているはずなのに、久我の背筋には氷柱を押し当てられたような寒気が走った。老女は、ほんの一瞬だけ言葉を切った。

「最前列の来賓席に――あの人がいた」

「……謎の老人」

「ええ。そして、その隣に……あの女がいた。長いあいだ連れ添ってきた妻が」

老女の声が、わずかに掠れた。

「彼女ね、奇妙なほど穏やかな顔をしていたの。痩せていたはずの頬に、柔らかな丸みが戻っていて……まるで、長いあいだ大切に守られてきた人みたいに」

久我は、その言葉の意味を測りかねて眉を寄せる。

「そしてね……ドレスの上からでも、分かったわ。老人の手が、そこに添えられていたから。――女の、お腹が大きかった」

久我の喉が、ひくりと鳴った。

「男は、その瞬間にすべてを理解した。自分が何を“させられていたのか”。なぜ、もてなされ、なぜ赤い灯の下へ通わされていたのかを」


4. 雪に埋めた秘密

「そしてね、男は女に再会したのよ」

老女は窓の外を見つめたまま、言葉を置くように語り続ける。

「女は言ったわ。『私も、あなたが好きだった』って。……ふふ、滑稽でしょう?」

その震えは、もはや悲しみではない。過去を切り裂く刃のような冷徹さだ。

「思い出すわ。今日のような雪の日だった。あの人を車に乗せて、二人で山へ向かったの」

老女は、そこで一度だけ息を整えた。

「スコップを握る前、私は呼んだわ。――あなた、って」

返事はなかった。それで、十分だった。

「埋めたのよ。雪の中に、静かに……。でも、消えはしない。土の重み、罪の感触、あの夜の恐怖。長いあいだ、隣で生きてきた者にしか分からない重さが、いまも胸の奥で脈打っている」

久我は絶句した。

「分かるかしら? 男は単なる玩具ではなかった。閉じ込められ、利用され、恐怖を植え付けられた末に、『種』として選別されたのよ。でも、予定外のことが起きた。男と女の間に、本物の愛が芽生えてしまった。老人は不要になった男を処理しようとしていた。だから、二人は、自分たちの命を守るために……老人を終わらせた」

吹雪が窓を叩く。二人の間に、重苦しい沈黙が降り積もった。


5. 交錯する魂

列車が、雪に埋もれた小さな駅に滑り込んだ。ホームの弱々しい灯りが雪に反射し、幽霊のように揺らめいている。

「私は、今もあの頃と同じことをしている」

老女は自嘲気味に笑った。

「生きるために。命を削りながら、あの赤線の続きを生きているの」

老女は突如、久我の手を掴み、自分の胸へと導いた。厚いコート越しに、冷たさの中に残る微かな鼓動が伝わる。

「……いや、待ってください」

久我の声にならない声が喉を震わせる。しかし、彼の理性は老女の視線に圧倒され、力を失った。

掌に触れる絶望の重み。数十年分の孤独と怨念が、濁流のように心を押し流す。

赤い灯の下の咽せ返るような情欲。腹に宿った新しい命の重み。スコップを握る手の震え。裏切りの味。そして、今日まで彼女を突き動かしてきた、凄まじいまでの生への執着。

(――逃げられない)

久我の心は小さく呟いた。だが、その呟きすら、老女の笑みに飲み込まれていく。

「……なんてね。冗談よ」

彼女は手を放し、悪戯っぽく微笑んだ。だが久我には分かっていた。それが冗談などではないことを。彼の掌には、彼女の数十年分の絶望がべったりと張り付いている。

「あなたに触れられて、少しだけ……生きている実感が持てたわ」

「理解しました。あなたが、なぜここにいるのかも」

久我は深くうなずき、掠れた声で答えた。


6. 終わらない夜

「そうよ。かつて、死ぬしかないと思った。でも、日雇いの男と赤線の生活が、私を生かした。生きるか死ぬか、日々を天秤にかけながら」

老女の声は、雪の白に溶けるように深く静かだった。

「ねえ、今夜だけ。一緒に来て」

久我は、抗うことなくうなずいた。

二人は列車を降りた。

ホームに降り立つと、凄まじい雪煙が二人を包み込む。背後で列車の扉が閉まり、唯一の現世との繋がりが断たれた。

静寂の中、一台の黒い高級車が滑るように現れた。排気音が雪の夜を震わせ、静かにドアが開く。

運転席から降りてきた男の姿を見た瞬間、久我は息を呑んだ。

そこには、老女の話の中にいた「あの男」が、時を止めたような姿で立っていた。

「今日は、この人をお願い」

老女が静かに告げる。

「……え。どういう意味だ」

久我の問いに、老女は答えない。ただ、深い雪の向こうを見つめている。

「さあ、車へ」

久我は一瞬だけ足を踏み留めた。逃げるという選択肢を、遅すぎる理性が必死に探す。その瞬間、男の手が久我の腕を掴んだ。

考える暇はなかった。掴まれた腕から、抵抗という概念そのものが削ぎ落とされていく。逃げることを前提としない、鋼のような力。

遠ざかる駅の灯り。雪の中に佇む老女。

久我は、もはや彼女の胸に触れる必要はなかった。彼女が生きる理由を、そして今、自分がその「理由」の一部として取り込まれたことを、魂が理解していたからだ。

車は深い雪道を、どこまでも滑り出していく。

久我奏太は、底知れぬ心理の深淵に囚われたまま、運命という名の闇の中へ、静かに沈んでいった。

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