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松庵 信長語り  作者: 松庵
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謀議

六月の京には、湿り気を帯びた風が吹くはずであった。しかし、その日の風は焦げ臭く、そしてどこか乾いた死の匂いを運んできていた。 本能寺の変と呼ばれることになった明智光秀の謀反は、松庵の献策と、蘭丸が指揮する志能備しのびたちの活躍により、未遂という奇妙な形で幕を閉じた。燃え落ちたのは本能寺の伽藍と、そこに詰め込まれていた藁人形のみ。光秀の軍勢は、主君不在の寺を囲んだ背後から、逆に織田の別動隊によって包囲され、総崩れとなっていた。


二条城の奥まった広間にて、織田信長は茶碗を畳に置いた。 眼下には、まだ黒煙を上げる本能寺の残骸が見える。その煙の向こうで、天下の情勢が大きく音を立てて変わりつつあった。光秀という最大の腫物を取り除き、かつ、その背後に蠢く朝廷や諸大名の不穏な動きすらも、この「死んだふり」によって炙り出したのである。


「……美味い。」 信長は短く呟いた。 死地を脱した安堵からではない。勝利の美酒ならぬ、勝利の茶の味を噛み締めていたのだ。 その正面には、相変わらず古びた袈裟を纏い、枯れ木のような静けさで座す僧、松庵がいた。


信長は、この得体の知れぬ男をじっと見据えた。 鉛の銀、盤上の合戦、たたらと鉄炉、そして今回の情報戦。この男の頭の中には、信長が欲してやまない「新しい国」の設計図が入っている。 先刻は、安土に学び舎を作り、そこで教師になれと命じた。だが、茶を飲む間に、信長の考えは変わっていた。 これほどの劇薬、野に放つのも、単なる師匠として飼い殺すのも惜しい。そして何より、危険すぎる。


「気が変わった。」 信長は、茶碗を小姓に下げさせると、鋭い眼光を松庵に向けた。 「松庵。貴様、教師などという還俗した隠居のような真似は許さぬ。儂に仕えよ。直臣として、儂の傍らでその知恵を振るえ。」


それは命令であった。拒否権など端から与えていない。天下人からの直々のスカウトである。並の者ならば、感涙にむせび、額を床に擦り付けて受諾するところだ。 しかし、松庵は困ったように首を振り、あろうことか、声を上げて笑った。


「ははは、これは手厳しい。私に仕えよと仰いますか。」 松庵は、自分の膝をポンと叩いた。 「ありがたき幸せにございますが、ご覧の通りの老骨。目も霞み、足腰も弱っております。これ以上、修羅の道を歩むには、少々草鞋が重すぎまする。」


「謙遜するな。その目は千里先を見通しておるわ。」 信長が詰め寄るが、松庵は柳に風と受け流す。 「いえいえ、引退した身でしてな。俗世の栄達には興味がございませぬ。……ですが。」


松庵は、いつもの胡散臭くも穏やかな笑みを深めた。 「信長様が私の知恵を惜しんでくださるのであれば、代わりの者を用意しておりました。私などより遥かに若く、私の教えを受けて知恵を継ぐ、有望な若者がおりまする。」


「若者、だと?」 「はい。……おい、入りなさい。」


松庵が乾いた音を二つ、パン、パンと手で鳴らした。 その合図に応えるように、襖が静かに開いた。 そこに控えていたのは、一人の男であった。


年は三十ほどであろうか。 着ている物は質素な袴であったが、その佇まいは、武骨な三河武士や、派手好きな尾張の者たちとは明らかに異なっていた。 色が白く、線が細い。まるで公家のように優雅で、しかしどこか儚げな印象を与える。戦場に連れ出せば、槍の一突きで死んでしまいそうな頼りなさがあった。


男は静かに進み出ると、信長の前で平伏した。 その所作一つとっても、板についた洗練さがあり、足の運びは「すり足」そのものであった。


信長は、その若者を値踏みするようにじろりと見た。 どこかで見たことがある。いや、会ったことはないはずだ。だが、この雰囲気、この顔立ち。信長の記憶の底にある、ある人物の面影が、亡霊のように浮かび上がってきた。


かつて、京の都よりも栄え、雅な文化を誇った西の都。 信長がまだ尾張のうつけと呼ばれていた頃、遥か西国で、公家のような衣装を纏い、大陸との交易利権を一手に握り、栄華を極めていた大名。


「……ほう。」 信長の声色が低くなった。 「こやつは、だいぶ大内義隆に似ておるな。」


カマをかけた一言であった。 平伏していた若者の肩が、わずかに、本当にわずかにビクリと跳ねた。視線が泳ぎ、松庵の方へ救いを求めるように彷徨う。 だが、松庵は微動だにしなかった。その顔には、相変わらず穏やかな微笑が張り付いている。


「なんと、あの大内周防介すおうのすけ様に似ているとは。」 松庵は、まるで世間話でもするかのように軽く言った。 「それは光栄なことにございますが、信長様の気のせいでございましょう。世に似た人は三人いると申します。さあ、義房殿。信長様に御挨拶を。」


促された若者、義房は、震える声を抑え込むようにして口を開いた。 「……お、お初にお目にかかります。義房、と申しまする。以後、お見知り置きを……。」


その挨拶もまた、妙であった。 「ござる」ではなく「申しまする」。語尾の余韻、首の垂れ方、扇子の扱い。無理に武家の真似事をしようとしているが、骨の髄まで染み込んだ「やんごとない」育ちが、隠しきれずに滲み出ている。


信長は、確信を深めた。 「義房、か。名は体を表すというが、義隆の『義』に、誰かの『房』か。……時に松庵。」


信長は若者から視線を外し、松庵を見据えた。 「大内卿の子らは、家臣であった陶晴賢すえはるかたの謀反により、長門の大寧寺たいねいじにて討たれたと聞き及んでおる。だが……」


信長は扇子を弄びながら、記憶の糸を手繰り寄せた。 「嫡男の義尊よしたかは父と共に死んだが、三男の歓寿丸かんじゅまるという者は、すぐには殺されず、一年近くも長門に隠れ潜んだのち、女装して逃げようとしたところを捕らえられ、殺されたそうな。……妙だとは思わぬか?」


「……何がでございましょう?」


「一年もの間、わざわざ敵地に隠れ潜んだことよ。そして、生きていれば、そこな義房ほどの年頃になるということよ。」


信長の視線が、再び義房を射抜く。 義房の額には、玉のような脂汗が浮いていた。天下人の威圧感に、今にも押し潰されそうになっている。


「一年もあれば、幼子一人を逃し、身代わりの首を立てることなど、路傍の石を拾うより容易であろうなあ。特に、大陸との船を持ち、金に糸目をつけぬ忠臣がいればな。」


信長は、松庵の反応を待った。 松庵は、揺るがなかった。表情一つ変えず、ただ深く頷いた。


「そうですなあ。乱世の習い、そのようなことも、あるいはあるかもしれませぬなあ。」


肯定も否定もしない。ただ「可能性」として流す。その老獪な態度は、長年修羅場を潜り抜けてきた者だけが持つ胆力であった。


信長は、さらに一歩踏み込んだ。 この男の正体を、白日の下に晒さねばならぬ。 「松庵。貴様、ただの博識な僧ではないな。」


信長は立ち上がり、ゆっくりと松庵の周りを歩き始めた。 「大内卿が大寧寺で討たれたのが、天文二十年のこと。その前後から、博多の町から、幾名かの有力な勘合商人が姿を消しておる。……湊屋、友之屋、そして……唐松屋からまつや。」


信長が「唐松屋」の名を口にした瞬間、松庵の瞼がピクリと動いた。 信長はそれを見逃さなかった。 勘合貿易。日明貿易とも呼ばれるそれは、莫大な富を生む打ち出の小槌であった。大内氏は博多の商人と結託し、その利権を独占していた。大内氏の滅亡は、彼ら御用商人にとっても死活問題であり、また、大内氏への忠誠が厚い者もいたはずだ。


「唐松屋 源衞門げんえもん。大陸の言葉を操り、船を操り、そして銀の相場を知り尽くした男。……その男は、主君である大内と、そして陶に殺された己が子の菩提を弔うために、僧籍にでも入ったか?」


信長の言葉は、推測の域を出ていた。確信に満ちた刃となって、松庵の喉元に突きつけられた。 松庵は、一瞬、虚を突かれたような顔をした。 しかし、すぐにぴしゃりと自らの禿げ上がった頭を叩き、おどけたように首を擦った。


「ははは、これは参った。信長様の想像力には恐れ入ります。」 松庵は、その細い目をさらに細め、信長を見上げた。 「私は生まれながらの僧にございます。幼き頃より仏門に入り、経を読んで暮らしてまいりました。……ですが、なんとも恐ろしい話ですなあ。商人が主の仇を討つために、僧に化けて時を待つとは。」


言葉では否定している。 だが、その目には、「よくぞ見抜いた」という色が宿っていた。 嘘の中に真実を混ぜ、真実の中に嘘を隠す。 自らの正体を明かさぬことで、相手に恐怖と興味を抱かせる。 それはまさに、松庵自身が信長に説いてきた「情報戦」の極意そのものであった。


「貴様が教えた手法であろう。」 信長がニヤリと笑うと、松庵もまた、ニヤリと笑い返した。


広間に、奇妙な静寂が落ちた。 笑い合う二人。しかし、その目は笑っていない。 知識と謀略、そして「天下」という巨大な獲物を共有する者同士の、共犯関係にも似た、冷たく重い空気が漂っていた。


やがて、松庵の笑いがふと止まった。 その口元の笑みは深まり、三日月のような形を作っているが、瞳の奥は氷のように冷徹な光を放っていた。


「……して、いかがなさいますか?」


松庵は問うた。 正体はバレた。大内の遺児と思しき若者も連れてきた。 殺すか、生かすか。


信長は考えを巡らせた。 この者らは危険だ。獅子身中の虫になりかねぬ。滅びた家の再興などという妄念に取り憑かれた亡霊は、時として生きている人間よりも厄介な動きをする。 しかし、ここで斬るのは容易いが、そうすれば松庵の持つ大陸の知識、人脈、そして「新しい国」を作るための叡智は永遠に失われる。 逃せば、彼らは別の有力大名……例えば島津や、あるいは北条、下手をすれば日の本の外まで走り、織田の脅威となるだろう。 虫どころか、大狼となって牙を剥く。


そして、この老獪な男が、何の勝算もなしに、大内の遺児をこの虎の穴へ連れてくるとも思えぬ。 必ず、信長が「殺さぬ」という選択をするだけの餌を用意しているはずだ。


信長は、あらゆる可能性を天秤にかけ、最も合理的で、かつ最も残酷な道を選んだ。


「良かろう。」 信長は決断を告げた。 「その義房とやら、儂の配下とする。」


義房が、顔を上げて信長を見た。その瞳には、恐怖と、微かな希望が揺れていた。


「ただし、直臣ではない。まずは、佐久間か丹羽、あるいは何某かの武家の猶子ゆうしとして姓を与え、武士としての作法を叩き込ませる。その上で、儂の側仕え(そばづかえ)とする。」


猶子。すなわち、養子である。 大内という姓は名乗らせない。どこか忠義の厚い家臣の家に押し込み、その家の人間として管理させる。そして「側仕え」として常に信長の目の届く場所に置く。 これは、事実上の人質であり、同時に徹底的な監視下に置くことを意味していた。大内再興などという夢を見させる隙を与えず、飼い殺しにしつつ、その血筋と知恵だけを利用する。使えるようならば血縁を通じて取り込んでも良かろう。


松庵は、深く頷いた。 「……御意にございます。義房殿も、武家の端くれとして生きられるならば本望でしょう。」


義房は、あからさまに安堵した表情を浮かべ、再び深々と頭を下げた。彼にとって、大内再興という重すぎる荷物よりも、安寧な生の方が重要なのかもしれなかった。あるいは、松庵にそう言い含められているのか。


信長は、これで「義房」という駒は手に入れた。 だが、肝心なのは、この「松庵」という怪物をどう動かすかだ。 金や地位では動かぬ。信仰心など欠片もない。 ならば、この男を突き動かしている原動力は一つしかない。


かつて栄華を極めた主家。それを裏切り滅ぼした佞臣。そして、その混乱に乗じて領土を掠め取り、今や西国一の大大名となった毛利。 唐松屋源衞門という男が、本当に大内氏の御用商人であり、その恩義に報いようとしているのなら。 彼の心にあるのは、ただ一つ。


復讐。


それも、単なる敵討ちではない。己が愛した文化、経済、そして主君の血脈を根絶やしにした者たちへの、骨の髄まで焼き尽くすような怨念。


信長は、口の端を歪めた。 それならば、話は早い。 信長にとっても、毛利は天下統一の最後の、そして最大の障壁である。 利害は一致している。


信長は、松庵の真の目的を完全に理解し、最後の仕上げとなる言葉を投げかけた。


「松庵。」 「はっ。」


「もし、儂の軍勢が西へ進み、大内を乗っ取り、文治の主の夢を喰らい尽くした毛利を滅ぼせば……」 信長は、松庵の目を覗き込んだ。 「その時、真っ先にその当主、毛利輝元の首を、貴様に見せてやろう。」


その瞬間であった。 松庵の表情が、劇的に変わった。


これまで貼り付けていた、あの飄々とした、胡散臭い僧侶の仮面が、音を立てて砕け散った。 口角が見たこともないほど吊り上がり、顔中の皺が深くなり、まるで鬼面のような形相となった。そして、その細められていた瞳がカッと見開かれ、そこには暗い、底なしの沼のような狂気と、赤黒い復讐の炎が煌々と燃え上がっていた。


「……ふふ。」 松庵の喉から、風が漏れるような音がした。 「……ふはは、信長様。……仮にも僧に対し、なんと罰当たりな。」


松庵は震える手で合掌した。だが、それは仏への祈りではない。摩羅との契約を喜ぶ姿であった。 「その光景……。我が手で育てた交易の都を焼き、主の血を啜った者たちが、泥に塗れて首だけになる光景。……それを見られるのであれば、この老骨、地獄の業火に焼かれようとも構いませぬ。」


信長は、その凄まじい形相を見て、むしろ満足げに頷いた。 これが、この男の本来の顔だ。 聖人君子のような顔をした説教臭い僧侶よりも、怨念と欲望に塗れた人間の方が、よほど信用できる。 これならば、裏切らぬ。 毛利が滅ぶその瞬間まで、この男は信長の最も鋭利な知恵袋として機能するだろう。


「契約、成立じゃな。」 信長が言うと、松庵は鬼の形相のまま、ゆっくりと、しかし力強く額を床に押し付けた。


「ははっ! この松庵、義房を通し信長様にお仕えいたしましょう。共に、焼き尽くしましょうぞ。古き世も、裏切り者たちも、全て。」


二条城の広間に、本能寺の焼け跡から吹く風が流れ込んできた。 その風は、新しい時代の幕開けを告げると同時に、西国へと向かう血なまぐさい嵐の予感を孕んでいた。


ここに、亡国・大内氏の復讐心と、織田氏の天下統一という二つの巨大な目的が、「毛利打倒」という一点で結びつき、強固な同盟が結ばれたのである。 義房という「種」は織田の庭に植えられ、松庵という「毒」は織田の剣に塗られた。 西へ。 信長の視線は、既に燃える京を越え、遥か西、瀬戸内の海へと向けられていた。


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