玻璃の夢
天正十年、六月二日。 未明より京の都を覆っていた喧噪と怒号は、陽が昇ると共に不気味なほどの静寂へと変わっていた。ただ、空の一部だけが、どす黒い赤色に染まっている。本能寺が燃えているのだ。
その猛火を、少し離れた二条城の庭から見下ろしている二つの影があった。 一人は、天下人、織田信長。 もう一人は、粗末な袈裟を纏った怪僧、松庵である。
本来であれば、今頃信長はこの世になく、本能寺の灰となっていたはずであった。明智光秀による謀反。それが現実に起こったからだ。 だが、信長は生きていた。それどころか、優雅に野点の茶を点てている。
「……結構なお手前で。」
信長から茶碗を受け取った松庵は、作法通りに茶碗を回し、一口啜ると、満足げにほうと息を吐いた。その所作には、長年修練を積んだ茶人のような、あるいは高貴な身分に連なる者のような、洗練された品格が漂っていた。
「貴様、茶の湯も嗜むか。」 信長が茶筅を置きながら問うと、松庵は薄く笑った。 「たしなみ程度にございます。荒れ狂う修羅の巷にて、一服の茶を喫する。これほどの贅沢はございませぬゆえ。」
松庵は、眼下で燃え盛る本能寺へと視線を移した。 巨大な伽藍が、音を立てて崩れ落ちていくのが見える。炎の勢いは凄まじく、黒煙が天へと昇り、京の空を焦がしていた。
「ほう、見事なものですな。本能寺はよく燃える。」 松庵は、まるで他人事のように、あるいは美しい絵巻物でも愛でるかのように言った。
「明智日向殿も、まさかあそこには藁人形が並べられているだけで、肝心の信長様は影も形もおらぬとは、夢にも思いますまい。そして、己らが凱歌を上げる間もなく、背後から蘭丸殿らの軍勢に包囲されているなどとは。」
信長は、茶碗を洗う手を止めず、苦々しげに答えた。 「……全ては、貴様の入れ知恵よ。」
数週間前、松庵は信長に忠告していた。『光秀の瞳に、主君を見る色はなく、獲物を見る色が宿っている』と。 そして、かつて松庵が盤上の遊びで示したように、信長は情報の網を張り巡らせた。かつて天正伊賀の乱で滅ぼそうとした伊賀者たちを、松庵の助言に従い、金と厚遇で手なずけ、光秀の陣営に潜り込ませていたのだ。
「伊賀の志能備は、よくやってくれましたな。」 松庵は茶碗を置き、懐紙で口元を拭った。 「『ときは今』と光秀が句を詠んだ時点で、謀反の意図ありと通報してきました。おかげで、信長様は悠々と本能寺を抜け出し、二条城にて高みの見物。……まさに、情報の勝利にございます。」
「勝ちはした。」 信長は立ち上がり、燃える寺を睨みつけた。 「だが、儂の腹心中の腹心、あの光秀が……。キンカ頭め、魔が差したか、それとも儂の天下が気に入らなんだか。」
信長の顔には、勝利の安堵よりも、深淵を覗き込んだような暗い影が落ちていた。 天下布武が近づくにつれ、敵は外だけではなく、内側にも生まれる。忠義という仮面の下に、誰もが野心と不満の刃を隠し持っている。情報の罠を使わねば生き残れぬほど、天下人の座とは孤独で、危ういものなのか。
「信長様。」 松庵の声が、信長の思考を遮った。 振り返ると、松庵は懐から何かを取り出し、朝日にかざしていた。 それは、親指ほどの大きさの、透明な玉であった。
「……何じゃ、それは。水晶か?」 「いいえ。」 松庵は玉を指先で回した。中には細かな気泡が無数に含まれており、決して上質な宝石には見えなかった。 「これは玻璃……南蛮で言う、ビードロにございます。」
「ビードロだと? そのような濁った玉が?」 信長は、南蛮人から献上された、透き通るような美しいガラス器を知っている。それに比べれば、松庵の持つそれは、川原の石ころにも劣る出来栄えであった。
「笑わないでやってくだされ。これは、この国の職人が焼いたものにございます。」 松庵は、燃え盛る本能寺の炎を、その濁った玻璃玉を通して覗き込んだ。炎の赤が、気泡の中で乱反射し、万華鏡のように揺らめく。
「さて、信長様。日本が古来に捨ててしまった技術、この玻璃を、もう一度作りたくはありませんかな?」
「捨てた、だと?」 信長は訝しげに眉を寄せた。
「左様。はるか昔、正倉院の御物に見られるように、この国には瑠璃や玻璃を作る技がありました。しかし、いつしかその技は途絶え、職人は消え、今では南蛮や明から渡ってくるものを、ありがたがって買うばかり。」
松庵は、信長に玻璃玉を放り投げた。 信長は片手でそれを受け止める。ひんやりとして、少し歪な感触が掌に伝わった。
「南蛮や明にしか玻璃は無い? いいえ、この国も捨てたものではありませんぞ。探せばまだまだ、古く有望な知恵が泥の中に埋もれている。この玉のように、少し磨けば光るものが。」
「……講釈は良い。何を言いたい。」 信長は玉を握りしめ、松庵を見据えた。この男が、ただのガラス玉の話をするために、こんな時に口を開くはずがない。
松庵はニヤリと笑い、本能寺の煙を指差した。 「破壊の次は、創造でございましょう。信長様は、古き権威、古き仏教勢力を焼き払われました。では、その焼け跡に、何を建てられますか? また寺ですか? それとも城ですか?」
「国じゃ。」 信長は即答した。 「誰もが仰ぎ見る、強き国を作る。」
「ならば、知恵を育てなされ。」 松庵の言葉には、不思議な重みがあった。 「まずは、儀式だ、内裏の補修だと騒ぐ朝廷や公家に、闇雲に銭を送るのはおやめなさい。あれは、底の抜けた柄杓に水を注ぐようなもの。」
「公家どもがうるさいのでな。官位を餌に使うには、多少の銭も要る。」
「その銭を、別の処へ流すのです。」 松庵は一歩、信長に近づいた。 「天文寮や、大学寮の再建から打診してみるのはいかがでしょうな。」
「天文と、大学?」 信長は意外な提案に目を丸くした。武力や経済の話ではなく、学問の話が出るとは思わなかったからだ。
「暦でございますよ、信長様。」 松庵は空を指差した。 「今の日本の暦は、数百年前の唐の宣明暦。ズレにズレて、日食の予言すら外す始末。時を支配できぬ者が、どうして天下を支配できましょう。」
信長はハッとした。 確かに、京の暦は狂っていると聞く。種まきの時期、戦の吉凶、全てに関わる「時」の基準が揺らいでいるのだ。 「天文寮を再建し、新しい、正しい暦を作る。それはすなわち、信長様が『時』の支配者であることを天下に示すことになりましょう。」
「なるほど……。帝に代わり、儂が時を定めるか。」 信長の目に、野心の光が宿った。
「そして大学寮。……算博士や明法博士など、かつてこの国には専門の知識人を育てる仕組みがありました。しかし、それも今は形骸化し、家柄だけで無能な者が博士を名乗っております。」
松庵は、信長の手にある玻璃玉を指差した。 「鉄砲を作るにも、船を造るにも、そしてこの玻璃を焼くにも、計算(算術)が要ります。薬を作るには本草学が、城を築くには地理と土木が要ります。……戦が終われば、槍働きだけの武者は用済みとなりましょう。その時、国を動かすのは誰か。」
信長は沈黙した。 天下布武の先。戦のない世。そこで必要になるのは、敵の首を取る剛力ではなく、治水を行い、検地を行い、交易を管理する「知恵」である。
「大陸にはかつて『科挙』というものもありましてな……。」 松庵は、さらに踏み込んだ話を始めた。
「科挙?」 「身分や家柄を問わず、試験によって才ある者を選抜し、官僚として登用する制度にございます。農民の子であろうが、商人の子であろうが、書を読み、知恵があれば国の中枢に立てる。……信長様がお好きな、『実力主義』の極みにございましょう?」
信長の心が動いた。 信長自身、身分の低い秀吉や、他国から来た流浪の者でも、能力さえあれば重用してきた。古い権威や血筋を嫌う信長にとって、能力のみで人を測る「科挙」というシステムは、理想的な統治機構に思えた。
「家柄だけでふんぞり返る公家や、親の七光りで威張る無能な二世武将を廃し、真に才ある者たちが国を動かす……。」 信長は、松庵の描く未来図を脳裏に描いた。それは、今の日本とは全く異なる、合理的で、精緻な機械のように動く国家の姿であった。
「天文寮で空を知り、大学で地を知り、玻璃や鉄を作り出す技を磨く。……これぞ、百年先を見据えた『国造り』にございませんか。」
松庵は、いつになく熱っぽく語った。 その横顔を見つめながら、信長の中に、ある確信が、冷たい刃物のような鋭さを持って突き刺さった。
(……この男、やはり。)
松庵の知識は、一介の僧侶が書物で読んだ程度のものではない。 国家の統治、官僚制度、天文、技術、貿易。それら全てが、一つの体系として彼の頭の中に完成されている。 まるで、かつて「どこかの国」で、実際にそれを行おうとしていたかのように。
信長は、松庵が茶碗を持つ指先を見た。 節くれだってはいるが、その動きは優雅で、無駄がない。生まれついての貴人か、あるいはそれに準ずる高貴な教育を受けた者の手だ。
信長の脳裏に、西国の都、山口の情景が浮かんだ。 かつて「西の京」と謳われ、京が応仁の乱で荒廃していた時も、雅な文化と大陸の先進的な文物で溢れかえっていた街。 そこを支配していた大内氏は、多くの公家や学者を保護し、雪舟のような芸術家を育て、私財を投じて書物を集め、独自の文化圏を築き上げていた。彼らは武士でありながら、文の力を知っていた。
(大内義隆。……文治政治を目指し、家臣の武断派に討たれた男。)
松庵が語る「知恵の国」は、まさに大内氏が目指し、そして道半ばで潰えた夢そのものではないか。 この男は、信長という強大な武力を借りて、あの日灰になった「大内の理想郷」を、この日の本全土に再現しようとしているのではないか。
「……松庵。」 信長は静かに名を呼んだ。
「はっ。」
「貴様の言うことは、いちいちもっともだ。天文寮も大学も、再建を検討してやろう。」
「おお、それは重畳。」 松庵は嬉しそうに目を細めた。
「だがな。」 信長は、握りしめていた玻璃玉を、松庵に放り返した。 松庵は慌ててそれを空中で掴み取る。
「儂は、貴様の操り人形にはならぬぞ。」 信長の眼光が、鋭く松庵を射抜いた。 「玻璃も、暦も、科挙も、全て儂が天下を統べるための道具よ。貴様の懐かしむ『どこかの都』の夢を、儂の天下に勝手に重ねるでない。」
一瞬、松庵の微笑みが凍りついたように見えた。 しかし、すぐにまた柔和な仮面を被り直す。 「……何のお話やら。私はただの僧侶、夢などとっくの昔に捨てましてございまする。」
「嘘をつけ。」 信長は鼻で笑った。 「その玻璃玉を見る貴様の目、まるで失くした我が子を見るようであったわ。」
信長は背を向け、燃え落ちる本能寺に別れを告げた。 「行くぞ、松庵。光秀の首、検分せねばならぬ。……それとな、蘭丸に命じて、安土に『学び舎』を作る土地を用意させる。貴様が教師となれ。儂の家臣どもに、その腐るほどの知恵を叩き込んでやれ。」
松庵は、去りゆく信長の背中を呆気にとられたように見つめていたが、やがて深く、深く頭を下げた。 「……御意。」
その顔には、信長に見透かされたことへの苦笑と、そして自分の種が確かに蒔かれたことへの、暗く静かな喜びが混ざり合っていた。
二条城の庭には、松庵一人が残された。 彼は手の中の濁った玻璃玉を、再び太陽にかざした。 「……殿。ご覧になられましたか。」 松庵は、誰にともなく呟いた。 「あの御方は、破壊者でありながら、誰よりも建設者でございます。……あるいは、貴方様が成し遂げられなかった『文武の国』を、あの男なら……。」
松庵は玉を懐にしまうと、衣の裾を翻し、信長の後を追った。 京の空には、まだ黒煙が立ち込めていたが、その向こうには、新しい時代の太陽が白々と輝き始めていた。 灰の中から生まれるのは、単なる武家の政権ではない。知識と技術、そして合理性が支配する、全く新しい「日本」という名の玻璃の器なのかもしれなかった。
天正10年6月2日 本能寺の変
早朝、明智光秀が謀反を起こし、京都本能寺に滞在する主君である織田信長を襲撃した。




