天下の炉
安土の冬は、骨身に染みるような冷気が湖面から這い上がってくる。 空は鉛色に沈み、時折、風花が舞う中、織田信長は小姓の森蘭丸に促され、外套を羽織って城の裏庭へと足を運んでいた。
「上様、松庵殿がお待ちかねにございます。」 「フン、待たせておけばよいわ。」
信長は不機嫌に鼻を鳴らした。 先日の「盤上の合戦」以来、信長はこの正体不明の僧侶に対し、複雑な感情を抱いていた。その知恵は天下平定の助けとなるが、同時に底知れぬ深淵を覗き込むような薄気味悪さを感じさせる。 あれから信長は、密かに配下の乱破を放ち、松庵の素性を洗わせていた。だが、戻ってきた報告は「不明」の一点張り。京の妙心寺に現れる以前の足取りが、まるで煙のように掴めないのだ。 (何者だ、あの男は……) 警戒心と、それを上回る好奇心。それが信長を突き動かしていた。
庭に出ると、冷たい風が頬を叩いた。 そこには既に、袖を襷で吊り上げ、作業着のような姿になった松庵と、数人の下人たちが待ち構えていた。 彼らの周囲には、小ぶりの煉瓦、大量の砂利、そして薪や炭と思われる木の枝が山のように積まれている。
信長が姿を見せると、松庵は作業の手を止め、にこりと笑った。 「おや、信長様。寒空の下、ようこそお越しくださいました。」
「また貴様か。」 信長は思わず、憎まれ口を叩いた。 「前回の盤遊びで、儂に赤恥をかかせただけでは飽き足らぬか。今度は何じゃ。左官の真似事でもさせる気か。」
信長の刺すような視線にも、松庵は涼しい顔で答えた。 「信長様、『また貴様か』ではございませんぞ。学ぶに時を選ばず、遊ぶに相手を選ばず。これぞ求道者の姿にございます。」
松庵は足元の砂利と煉瓦を指差した。 「本日は童心に帰り、泥遊びと火遊びをいたしましょう。やり方は至って簡単。この煉瓦で炉を組み、鉄を得るだけでございます。この砂利は鉄鉱石、枝は炭とお考えくださいませ。」
「鉄じゃと?」 信長は眉をひそめた。 「刀鍛冶の真似事か。儂を誰心得る。名刀『へし切長谷部』を腰に差す男ぞ。鉄の何たるかを知らぬと思うたか。」
「ほう、ならば話が早い。」 松庵は挑発するように言った。 「では信長様、その博識を持って、ここに一つ、日本一の鉄を生み出す炉を作って見せてはいただけませぬか? 私は私のやり方で、鉄を作ってご覧にいれますゆえ。」
「競えと言うか。」 信長の中で、負けず嫌いの火が点いた。 「良かろう。日本の鉄作り、すなわち『たたら』の真髄、貴様に見せてくれるわ。」
信長は蘭丸や近習たちに指示を飛ばした。 「者ども、土を持って参れ! 粘りのある良い土だ! それとふいごを用意せよ!」
信長の号令一下、小姓たちが手際よく動き回る。 信長自身も袖をまくり、土を練り始めた。安土城築城の際にも、自ら現場監督として指揮を執った信長である。土木や建築の知識は並の大名とは比べ物にならない。 粘土を積み上げ、長方形の低い箱のような炉を形成していく。これぞ日本古来の製鉄法「たたら吹き」の炉である。
「風を送る管はここじゃ。炭と砂鉄を交互に入れ、低温でじっくりと還元する。さすれば、不純物の少ない、清浄なる玉鋼が生まれる。」 信長は土にまみれた手で、満足げに組み上がった炉を眺めた。 実物よりは遥かに小ぶりだが、その構造は紛れもなく、備前や美濃の刀匠たちが用いる本式のたたら炉であった。
「ほう、流石は信長様。たたらとは博識ですな。形も美しい。」 松庵が感心したように声をかけた。 「砂鉄から不純物を取り除き、折り返し鍛錬することで強靭な日本刀となる。まさに日本の美意識と根気の結晶。」
「ふん、世辞はよい。」 信長は土を払いながら、松庵の方を見た。 「して、貴様は何を作った。」
ふと見れば、松庵は信長のたたら炉の隣で、奇妙な構造物を築き上げていた。 それは、信長の低く平らな炉とは似ても似つかぬ、煉瓦を高く積み上げた「塔」のような形をしていた。高さは人の背丈ほどもあり、頂上は開いているが、下部はがっちりと固められている。
「何じゃそれは。」 信長は呆れたように言った。 「煙突か? そのような縦長の炉で、どうやって鉄を操る。風の通りも悪かろうし、中の様子も見えぬではないか。」
「おや? ご存知ない?」 松庵は、まるで物事を知らない悪童に教え諭すように、わざとらしく目を丸くした。 「これは大陸……漢の時代や、宋の時代より使われている『鉄炉(高炉)』の雛形にございますよ。」
「鉄炉……?」
「左様。」 松庵は、下人が持ってきた梯子に登り、塔の頂上から中を覗き込んだ。 「使い方はこうです。この上から、鉄鉱石に見立てた砂利と、石灰、炭に見立てた枝を、交互に投げ込みます。」 松庵は、ザラザラと音を立てて砂利を流し込んだ。
「馬鹿な。」 信長は鼻で笑った。 「そんな乱暴なやり方で良い鉄ができるものか。たたらはな、村下と呼ばれる長が、三日三晩、炎の色を見極め、神に祈りながら砂鉄を撒くのじゃ。それを上から放り込むなど……」
「それゆえに。」 松庵は言葉を遮った。 「それゆえに、日本の鉄は貴く、そして『少ない』のです。」
松庵は梯子を降りると、炉の下部に開けられた穴を指差した。 「この鉄炉は、ふいごで強烈な風を送り込み、炉内を高温に保ちます。たたらよりも遥かに高い熱で。するとどうなるか。鉄は飴のように溶け、ドロドロの湯となって、この下の穴から流れ出てくるのです。」
「鉄が……溶けて流れるだと?」 信長の常識では、鉄とは赤熱させて叩き、伸ばすものであった。溶かして型に流し込む鋳造の技術は日本にもあったが、それは鍋や釜を作るための脆い鉄であり、強靭な鋼とは別物という認識だった。
「漢の時代には、水車を使って巨大なふいごを動かし、絶え間なく風を送り続けました。宋の時代には、木炭ではなく『石炭』を使い、さらに火力を高めました。それにより、彼らは我々が想像もつかぬ量の鉄を、安く、大量に生み出してきたのです。」
松庵は、信長の作ったたたら炉と、自分の高炉を交互に見比べた。 「信長様のたたらは、芸術品を作るには最適です。しかし、数万の兵に武具を行き渡らせ、巨大な橋を架け、鉄の船を浮かべるには、あまりに効率が悪い。」
信長は沈黙した。 長篠の戦いで鉄砲を三千丁揃えた信長である。「数」と「効率」の重要性は誰よりも理解している。だが、その鉄砲の銃身を作るのにも、日本の鍛冶師たちは一本一本、鉄を叩いて巻いて作っているのが現状だ。もし、鉄を湯のように流し込み、型で作ることができたなら……。
「……石炭、と言うたな。」 信長が低い声で尋ねた。 「燃える石か。」 「はい。筑前や長門の地には、黒い金剛石とも呼べる石炭が眠っております。しかし、この国ではそれをただの火付きの悪い炭として捨てている。」
松庵は、嘆息するように首を振った。 「もったいないことですな。まだまだ大陸には、こちらに無い知恵が眠っております。元寇の役以降、この国は外を恐れ、内へ内へと閉じこもってしまった。その間に、海の外では知恵の歯車が回り続けていたというのに。」
松庵は手に持っていた木の枝を、パキリと折った。 「さて、鉄の話はこれまで。次は、その鉄を使って何を作るか、というお話です。」
松庵は地面にしゃがみ込むと、小枝を使って土の上に絵を描き始めた。 それは、船の絵であった。しかし、信長が見慣れた安宅船や関船とは、底の形が決定的に異なっていた。
「信長様。日本の船は、底が平らでございますな。」 「うむ。和船とはそういうものだ。浅瀬でも動け、旋回もしやすい。」
「ですが、波の高い外洋には出られませぬ。横波を受ければひとたまりもなく転覆しましょう。」 松庵は、自分が描いた船の底に、一本の太い線を描き足した。 「大陸の船、唐船には、背骨がございます。これを『竜骨』と呼びまする。」
「竜骨……。」 「船底を貫く太い梁が、船の背骨となり、波を切り裂き、嵐にも耐える強度を生むのです。これがあって初めて、人は島を離れ、遠い異国へと渡ることができる。」
信長は、その絵を食い入るように見つめた。 海。 天下布武の先にあるもの。 しかし、今の織田水軍が持っているのは、池や川、あるいは穏やかな内海を移動するための平底の船ばかりだ。
「信長様は、先の戦で毛利の水軍を破るために、大層な船を作られたと聞き及びます。『鉄甲船』とやら。」 松庵の口調に、微かな嘲りの色が混じった。
信長の眉がピクリと跳ねた。 「大層な、とは聞き捨てならぬな。あれは燃えぬ鉄の壁を持ち、大筒を備えた不沈の城ぞ。事実、村上水軍の焙烙玉も通用せず、見事に撃退して見せたわ。」
「ええ、確かに。」 松庵は頷いた。 「あれは、見事な『浮かぶ城』でございます。しかし、あれは『船』ではありませぬ。」
「何だと?」
「あのように鉄の装甲で重くし、底の平らな箱舟では、動きは鈍重そのもの。波の静かな瀬戸内や、琵琶湖でなら使えましょう。ですが、もし毛利が……あるいはその背後にいる者たちが、外洋から竜骨を持つ高速の唐船で攻め寄せてきたら? あるいは、南蛮の黒船が、風を操り、自在に長距離から大筒を撃ち込んできたら?」
松庵は、信長の顔を見据えた。 「動けぬ城は、ただの的にございます。」
信長は言葉に詰まった。 鉄甲船は、確かに強力だ。しかし、それはあくまで「敵が近づいてきてくれる」ことを前提とした防衛兵器に近い。機動力で翻弄され、遠間から叩かれれば、あの巨大な鉄の箱は沈む棺桶となりかねない。
「鈍重で内海でしか使えない鉄甲船に頼るより、竜骨を備え、帆を操り、波濤を越える宋代よりある唐船の知恵を学び直すこと。それが……」
松庵は一度言葉を切り、信長に顔を近づけた。その瞳の奥には、単なる技術論を超えた、冷徹な戦略眼が光っていた。
「……それが、毛利を真に平定する近道かもしれませんな。」
「毛利……。」 信長がその名を復唱する。 西国の雄、毛利輝元。 村上水軍を擁し、瀬戸内の制海権を握る宿敵。そして、石山本願寺に兵糧を運び込み、信長を長年苦しめてきた黒幕。
「毛利の強さは、海にあります。彼らは海を知り、海を生きてきた。しかし、彼らの船もまた、和船の域を出てはいない。もし信長様が、彼らの知らぬ『竜骨』の船を持ち、外洋から彼らの背後を脅かすことができたなら? 瀬戸内という狭い水槽に閉じ込められた彼らを、外海から袋叩きにできるとしたら?」
松庵は立ち上がり、パンパンと手についた砂を払った。 「ま、あくまで僧侶の戯言にございます。鉄も船も、仏の道には無用の長物。……おや、そろそろお勤めの時間だ。」
松庵は空を見上げた。いつの間にか風花は止み、雲の切れ間から薄日が差している。 「本日はこれにて。信長様、良い炉でございました。その土を練る手つき、職人顔負けにございます。」
松庵は恭しく一礼すると、用は済んだとばかりに踵を返した。 その背中は、粗末な衣を纏っているにもかかわらず、どこか王侯貴族のような優雅さと威厳を漂わせていた。
「待て、松庵。」 信長が呼び止めたが、松庵は振り返らず、片手をひらりと上げて去っていった。 下人たちも慌ただしく片付けを始め、信長の周りには、作りかけのたたら炉と、松庵が残した高炉の残骸、そして地面に描かれた竜骨船の絵だけが残された。
信長は、その場に立ち尽くした。 冷たい風が吹き抜け、地面の絵を少しずつ風化させていく。
(……おかしい。)
信長の中で、違和感が確信へと変わりつつあった。 唐船。竜骨。石炭。高炉。 そして、異常なまでの銀の動きへの敏感さ。 前回の鉛混じりの銀の話もそうだ。あれは単なる商人の知恵ではない。国家の財政を預かる官僚の視点だ。
そして、今の言葉。 『毛利を平定する近道』。
なぜ奴は、これほどまでに毛利に執着する? なぜ奴は、南蛮のガレオン船よりも先に、古い「唐船」の話を持ち出した? 南蛮の知識ならば、宣教師から聞くこともあろう。だが、漢や宋の技術、そして大陸との交易の歴史に、なぜこれほど精通している?
「……蘭丸。」 信長が静かに呼んだ。 「はっ。」 蘭丸がすぐに側に寄る。
「あの男の素性、乱破どもは『掴めぬ』と申したな。」 「はい。京に現れる以前の記録が、綺麗に消されていると。」
「消されている、か。」 信長は目を細めた。 記録がないのではない。消されているのだ。 一介の僧侶の記録を、誰が消す? いや、僧侶だから消したのではない。身分を隠すために、僧籍に入ったとしたら?
信長の脳裏に、ある仮説が閃光のように走った。 かつて、西国に覇を唱え、大陸との交易を一手に握り、莫大な富と文化を誇った一族。 京の都を凌ぐほどの栄華を極め、「西の京」と呼ばれた山口の街。 そして、家臣の謀反によって滅ぼされた、悲劇の名門。
大内氏。
日明貿易(勘合貿易)を掌握し、独自に大陸との太いパイプを持っていた彼らならば、漢や宋の技術書を持っていても不思議ではない。竜骨船の重要性を知っていてもおかしくない。 そして、大内氏を滅ぼし、その領土と利権を奪い取ったのは誰か。
陶晴賢。 そして、その陶を討ち、大内の旧領を飲み込んだのが……毛利元就。
現在の毛利家は、大内氏の死体の上に立っている。
「……そうか。」 信長は、地面に描かれた船の絵を足で踏みつけた。 「奴の狙いは、説法でも銭でもない。」
信長は口元を歪めた。それは、獲物を見つけた猛獣の笑みであった。 「復讐、か。」
あの穏やかな微笑みの裏に、国を一つ滅ぼされた怨念と、それを晴らすための冷徹な計算が渦巻いているとしたら。 松庵という男は、単なる「変わり者の僧」ではない。 彼は、滅亡した大国の遺産そのもの。 そして、その遺産を使い、毛利という巨人を倒すための「剣」として、織田信長を選んだのだ。
「面白い。」 信長は呟いた。 「実に面白いぞ、松庵。貴様のその知恵、儂が使いこなして見せよう。」
信長は、作りかけのたたら炉を一瞥もしないまま、城へと歩き出した。 その足取りは、来る時よりも力強く、そして速かった。 彼の中で、新たな戦略の地図が、急速に書き換えられようとしていた。
「蘭丸、長浜の秀吉に使いを出せ。船大工を集めよとな。それと、九鬼も呼べ。船の底を作り直させる。」 「は、はっ!」
冬の空から、再び白いものがちらつき始めた。 だが、信長の胸の内には、高炉のように熱く、激しい炎が燃え上がっていた。 大陸の知恵と、亡国の怨念。それら全てを薪としてくべ、信長は天下という巨大な鉄を打ち鍛えるつもりであった。




