志能備
晩秋の風が、安土城の天主を揺らすように吹き荒れていた。 障子の向こうでは、時折、乾いた葉が舞う音が擦れるように響き、城内の張り詰めた空気をさらに冷たく引き締めている。織田信長は、南蛮渡来のビロードの椅子に深く腰掛け、苛立ちを隠そうともせずに膝を指先で叩いていた。
先の「鉛の銀」の一件以来、信長の心には常に澱のようなものが沈んでいた。天下布武の道は、ただ敵を切り従えればよいものではない。目に見えぬ経済の鎖、人の心の機微、そして海の外から忍び寄る巨大な影。それらが、信長の眠りを浅くさせていたのである。
「申し上げます。松庵殿が参られました。」
小姓の森蘭丸が、平伏して告げた。 信長は、叩いていた指を止めた。 「通せ。」
襖が開き、松庵が現れた。 いつものように古びた袈裟を纏い、足音もなく部屋へと滑り込んでくる。だが、信長の鋭い眼光は、松庵の一瞬の揺らぎを見逃さなかった。入室の際、松庵の眉間には微かな、本当に微かな焦燥の色が浮かんでいたのである。それはすぐに、いつもの穏やかな、何を考えているか読めぬ微笑みの仮面に覆い隠されたが、この男にしては珍しいことであった。
「お久しぶりでございます、信長様。」
松庵は深々と頭を下げた。その手には、またしてもあの風呂敷包みがある。
「今日は何用じゃ。また説法か、それとも新たな商いの真似事か。」 信長はあえて冷淡に問うた。
「いえいえ。本日は少々、趣向を変えまして。」 松庵は顔を上げ、部屋の隅に控えていた巨漢の従者に目を向けた。 「弥助殿もご一緒にお願いしたく存じます。ちょっとした、盤上の遊びでございますゆえ。」
「遊び、か。」 信長は鼻を鳴らした。この男の言う「遊び」が、単なる戯れであった試しがない。常にその裏には、国家の根幹を揺るがすような毒が含まれている。だが、それを知ることは、今の信長にとって何よりも必要な毒消しでもあった。 「良かろう。弥助、参れ。」
信長の命を受け、漆黒の肌を持つ弥助が、巨体を縮めるようにして信長の側へと歩み寄った。 松庵は、部屋の中央に置かれた碁盤の前に座り、風呂敷を解いた。中から現れたのは、以前にも見たことのある、粗末に削られた木の人形たちであった。松庵はそれを手際よく二つの山に分け、盤上の両端に配置していく。
「さて、信長様。方法は至って簡単でございます。この人形を兵に見立て、二手に分かれて合戦を行うだけのこと。」 松庵は淡々と言葉を紡いだ。 「しかし、ただ向かい合って動かすのでは、面白くありませぬ。実際の戦場を思い描いてくださいませ。総大将たる信長様の本陣から、敵の全ての動きが見えましょうか? 遠くの森の陰、谷の底、敵がどこに伏せているか、全てが見渡せるわけではございますまい。」
「無論じゃ。だからこそ斥候を出し、物見を放つ。」 信長が答えると、松庵は深く頷いた。
「左様。戦場とは、すなわち闇の中を手探りで進むがごとし。そこで、本日はその闇を再現いたします。」 松庵は立ち上がり、部屋の壁を指差した。 「信長様は、あちらの壁に向かってお座りくださいませ。決して、盤面をご覧になってはなりませぬ。」
「何だと? 儂に背を向けよと申すか。」 信長の声に不機嫌さが混じる。天下人たる自分に、壁に向かって座れとは、無礼にも程がある。だが、松庵は涼しい顔で続けた。
「私と信長様は互いに壁を向き、盤面を見ずに指図を出します。そして、その間の伝令役を、弥助殿にお願いするのです。」 松庵は弥助に向き直り、ゆっくりとした口調で説明した。 「弥助殿。あなたの役目は重要です。私が動かした駒、そして信長様が命じた駒の動きを、盤上で実際に動かすのはあなたです。しかし、伝えてよいのは、信長様には『信長様の軍の状況』のみ。私には『私の軍の状況』のみです。」
弥助は戸惑ったように大きな目をぱちくりさせたが、やがて真剣な表情で頷いた。 「ワカリマシタ。ワタシ、メトナル。」
「そして、勝敗の決め事ですが……」 松庵は信長にも聞こえるように声を張り上げた。 「部隊が正面からぶつかれば、互いに駒を一つ取り除く。側面から攻撃を受けた場合は、受けた側から二つ取り除く。そして、背後から急襲された場合は、受けた側から三つ取り除くこととします。」
「背後を取られれば壊滅、か。理には適っておる。」 信長は立ち上がり、愛用の扇子を帯に差すと、不承不承といった体で壁際の席へと移動した。 松庵もまた、反対側の壁に向かって座る。二人の間には碁盤があり、その前に弥助が一人、緊張した面持ちで座っている。
「では、始めましょうか。」 松庵の声が合図となった。
静寂が部屋を支配した。聞こえるのは、庭の松風の音だけである。 信長は白壁を見つめながら、頭の中に戦場の地図を描こうと試みた。敵は正面。数は互角。ならば、まずは定石通りに押し包むか。
「弥助。右翼の三隊、前へ出せ。敵を探れ。」 信長が命じた。 弥助が盤上で駒を動かす微かな音がする。カチ、カチ、カチ。 「……テキ、イナイ。」 弥助の声が響く。
「おや、敵は見当たりませぬか。」 松庵の声が、背中合わせの彼方から聞こえた。 「では、私は中央を二歩、前進させましょう。」
盤上で駒が動く音がする。 信長は次の一手を案じた。中央が出てきたか。ならば、手薄になった側面を突く好機。 「弥助、左翼の部隊を大きく迂回させよ。敵の横腹を喰い破るのじゃ。」
「……ハッ。」 弥助が駒を動かす。 その直後、松庵の声がした。 「おや、風の音が変わりましたな。……右の林に鳥が立たぬか?」
独り言のような松庵の呟きに、信長は眉をひそめた。何を言っている。ここは座敷の中だ。 その時、松庵が信長には見えぬ何合図か送った気配がした。
「……信長サマ。」 弥助の声が震えていた。 「ナニゴトじゃ。」 「ヒダリ……敵、イタ。ウシロカラ、キラレタ。」
「何?」 信長は思わず振り返りそうになったが、ぐっと堪えた。 「後ろからじゃと? 迂回させたのではなかったのか!」 「マチブセ……サレテタ。信長サマノ兵、ミッツ、キエタ。」
三つの駒が盤上から取り除かれる乾いた音が、信長の耳に痛く響いた。 (馬鹿な。こちらの動きが見えているかのような……)
「さて、次はどうされます?」 松庵の声は、どこまでも落ち着いていた。 「私の番ですな。……全軍、そのまま待機。」
動かぬ敵。情報の遮断。 信長は焦りを感じ始めた。見えない敵と戦うことが、これほどまでに神経を削るとは。壁の染みが、嘲笑う敵兵の顔に見えてくる。
「ええい、正面突破じゃ! 全軍、鶴翼の陣にて押し潰せ!」 信長が叫ぶ。 弥助が慌ただしく駒を動かす。 「……敵、イナイ。」
「なに?」 「敵、ソコニ、イナイ。」
「おやおや、空振りでございますか。」 松庵の含み笑いが聞こえた。 「では、手薄になった本陣へ、ご挨拶に伺いましょうか。」
カチ、カチ、カチ。 駒の動く音が、信長には死への足音のように聞こえた。 「信長サマ!」 弥助が悲鳴のような声を上げた。 「ホンジン、カコマレタ! シホウカラ、敵!」
「馬鹿な!」 信長は扇子を握りしめた。 「いつの間に回り込んだ! 斥候は何をしておった!」 「ワカラナイ……突然、敵、アワラレタ。」
「終わり、でございますな。」 松庵が静かに宣言した。
「信長様の盤上に、もはや戦える駒は残っておりませぬ。」
信長の背中を、どっと冷や汗が流れた。 完敗であった。手も足も出ないとはこのことだ。こちらの攻撃は全て空を切り、敵の攻撃は全てこちらの急所を穿った。まるで、こちらの作戦筒抜けであったかのように。
「……参った。」 信長は屈辱に震えながら、絞り出すように言った。
「勝負あり。」 松庵の声と共に、張り詰めていた空気が緩んだ。
信長は荒い息を吐きながら、猛然と振り返った。 「松庵、貴様、何んたる妖術を使いおった。儂の心の中を読みおったか。」
信長が盤面を見ると、確かに自軍の駒は散り散りになり、本陣であった場所は松庵の駒によって完全に包囲されていた。これでは、いかな名将といえども戦えぬ。 そして、信長の視線が、松庵の隣に控えていた人物に止まった時、彼の目は驚愕に見開かれた。
そこには、小姓の森蘭丸が、蒼白な顔をして座っていたのである。
「……蘭丸?」 信長の声が低く、地を這うような響きを帯びた。 「貴様、そこで何をしていた。」
蘭丸はガタガタと震え、床に額を擦り付けるようにして平伏した。 「も、申し訳ございませぬ! 信長様、お許しください!」
信長の視線が、蘭丸と松庵を行き来する。そして、全てを悟った。 「松庵! 貴様、蘭丸を使って儂の手を覗き見ておったな!」
信長の怒号が部屋を揺らした。 「卑怯千万! これが合戦か! 幼子を使い、覗き見をして勝つなど、武士の風上にも置けぬ所業!」
信長は立ち上がり、腰の刀に手をかけんばかりの勢いであった。弥助が慌てて信長を止めようと腰を浮かす。 しかし、松庵は動じなかった。 彼は、震える蘭丸の肩にそっと手を置き、まるで出来の良い弟子を庇う師のように、信長を真っ直ぐに見据えた。
「蘭丸殿ですか? ええ、使わせていただきました。」 松庵は悪びれる様子もなく、平然と言い放った。 「銭をやり、厚遇し、信長様の駒の動き、その布陣、その狙い、全てを逐一、手信号にて伝えていただきました。」
「それを不正と言うておる!」 信長が吠える。
「不正? 異なことを仰せられる。」 松庵の目が、冷ややかな光を帯びて細められた。 「これは盤上の遊びにあらず。信長様、あなたは先ほど、これを『戦場の闇』と認められたはず。」
松庵は蘭丸の肩から手を離し、静かに語り始めた。 「私は蘭丸殿を、単なる卑しい裏切り者として使ったのではございませぬ。かつて、厩戸皇子が使ったという、志能備として用いたのです。」
「志能備……?」 信長の怒りが、未知の言葉への興味によってわずかに削がれた。
「左様。一般には乱破、透波、あるいは草などと呼ばれ、使い捨ての道具として扱われる者たち。しかし、本来の『志能備』とは、志を能くし、忍ぶ者。敵の懐深くに入り込み、その情報を持ち帰る、高度な知略の使い手にございます。」
松庵は、まだ震えている蘭丸に優しい視線を送った。 「私は蘭丸殿にこう申しました。『信長様は、今、目隠しをして断崖の縁を歩こうとされている。もし貴殿が信長様を真にお救いしたいなら、その足元を照らす松明となり、私にその危うさを知らせよ。さすれば、信長様は手痛い敗北をこの盤上で味わうだけで済み、実際のご政道で命を落とすことはなかろう』と。」
蘭丸が、涙に濡れた顔を上げた。 「信長様……私は、私は……信長様が、見えぬ敵に囲まれ、討たれる夢を見たのです。松庵殿の言葉が、天啓のように思え……。」
信長は毒気を抜かれたように、刀から手を離した。 この僧は、蘭丸の忠誠心すら利用したのか。
「蘭丸殿は、銭などでは動きませぬ。信長様が将来、闇の中で躓かぬためと説いたら、直ちにその意図を理解し、あえて汚名を被る覚悟で、私に情報を流しました。……まことに、善い配下をお持ちですな。」
松庵の言葉は、賞賛のようでいて、信長の胸に鋭い棘を刺した。 忠義ゆえの裏切り。情報があれば、味方すら敵の手に落ちる。そして、情報を持つ者だけが、戦場という霧の中で自在に動くことができる。
「見えぬ敵と戦う恐怖、ご堪能いただけましたかな。」 松庵は盤上の駒を一つ拾い上げた。 「武力とは、あくまで敵が見えてから振るうもの。しかし、真の戦は、刀を抜く前に始まっております。敵がどこにいるか、何を考えているか、どれほどの兵糧を持っているか。それを知る者が勝ち、知らぬ者は……いかに勇猛果敢な織田軍団といえども、赤子の手をひねるように潰されまする。」
信長はドカリと椅子に座り込んだ。 先ほどの敗北感が、再び蘇ってくる。自分の命令が全て空回りし、敵の掌の上で踊らされていた屈辱。それが、もし現実の戦場であったなら。自分の首は、既に飛んでいたであろう。
松庵は、ゆっくりと立ち上がった。 そして、去り際に、信長にとって最も触れられたくない古傷を、容赦なく抉り出した。
「かの金ヶ崎でも……もし、浅井の裏切りをいち早く察知し、伝える『志能備』のような者が居ましたら、……また違った結果でございましたでしょうな。」
信長の顔色が蒼白になった。 金ヶ崎の退き口。 朝倉を攻めていた信長が、義弟である浅井長政の裏切りによって挟撃の危機に陥り、命からがら京へと逃げ帰った、生涯最大の敗北の一つ。 あの時、お市の方からの「小豆袋」の報せがなければ、あるいは殿を務めた秀吉や家康の奮闘がなければ、織田信長の名はそこで絶えていたかもしれない。
まさに、情報の欠落が招いた死地であった。
「……松庵。」 信長の口から、唸るような声が漏れた。
松庵は、もう振り返らなかった。 「情報は、命にございます。鉄砲千丁にも勝る、命のやり取り。伊賀や甲賀を、単なる山猿の集まりと侮るなかれ。彼らが持つ『目』と『耳』こそが、天下を統べるために最も必要な武器かもしれませぬぞ。」
松庵の足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。 部屋には、信長と、まだ床に伏したままの蘭丸、そして言葉を失っている弥助だけが残された。
風の音が、先ほどよりも強く、寒々しく聞こえた。 信長は、壁に掛けられた地図を見上げた。そこには、これから攻め滅ぼそうと考えていた伊賀の里が描かれている。 天正伊賀の乱。信長は、彼らを徹底的に殲滅しようとしていた。制御不能な暴力装置として、危険視していたからだ。
だが、今、信長の脳裏には別の考えが浮かんでいた。 (滅ぼすのではなく、取り込むか……。あるいは、奴ら以上の『目』を、自ら作り上げるか。)
「蘭丸。」 信長が静かに呼んだ。 「は、はい。」 「立て。茶を淹れよ。……熱いのをな。」 「……はっ! 直ちに!」
蘭丸が慌てて部屋を出て行く。 信長は、碁盤の上に散らばった木の人形を見つめた。その一つを手に取り、掌で握りしめる。 情報の非対称性。 知る者と、知らざる者。その間には、決して埋めることのできない深淵が横たわっている。 最強の軍団を持つことだけでは足りない。その軍団を動かすための「目」を持たねば、自分はいつか、闇の中で背中を刺されるだろう。
信長は、握りしめた人形を盤上に叩きつけた。 乾いた音が、誰もいない広間に虚しく響き渡った。 天下布武の道は、信長が考えていたよりもはるかに険しく、そして暗い闇に覆われていた。
天正9年 第二次天正伊賀の乱
信長公記には9月に攻撃開始との記述がある。




