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松庵 信長語り  作者: 松庵
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三重の罠

季節が巡り、安土の山々が紅葉に染まり始めた頃である。乾いた秋風が吹き抜け、城内の松がざわめくある日、織田信長は城の一室で、一人の偉丈夫を前に興じていた。


その男は、墨を流したような漆黒の肌を持ち、身の丈は六尺を優に超えている。信長が南蛮の宣教師から譲り受けた従者、弥助である。信長は弥助の筋骨隆々たる腕や、岩のように頑強な胸板を珍しげに眺め、その力強さに満足げな笑みを浮かべていた。


「どうじゃ、弥助。日本の飯には慣れたか。」 「ハッ。信長サマ、メシ、ウマイ。カンシャ、シマス。」 弥助はたどたどしい日本語で答え、白い歯を見せて笑った。その純朴な様子と、人並み外れた武勇の可能性を秘めた肉体は、新しいもの好きの信長の心を捉えて離さなかった。


そこへ、襖の外から声がかかった。 「信長様。松庵にございます。」


信長の目がすっと細まった。あの不気味な僧が、また現れたか。前回の経済の話は、信長の胸に棘のように刺さったままである。 「入れ。」


襖が開くと、松庵が姿を現した。相変わらずの粗末な衣だが、今日はその手に、一抱えほどもある古びた木箱と、風呂敷包みを携えている。松庵は部屋に入ると、信長の傍らに控える弥助に目を留め、穏やかに、しかしどこか含みのある声で言った。


「お久しぶりでございます。……おや、これは。」 松庵は弥助をじろりと見上げた。弥助は本能的に何かを感じたのか、わずかに身を強張らせた。 「南蛮人から引き取ったと噂の、弥助殿でありますな。百聞は一見に如かず。見事な黒鉄の如き肌、そしてあふれる力。まさに南蛮の力の象徴。」


「松庵、講釈は良い。今日は何を持ってきた。」 信長が急かすと、松庵はにこりと笑い、手にした風呂敷を解いた。中から現れたのは、木を削って作られた、掌サイズの不格好な木人形が数十枚であった。子供の玩具にも劣る、ささくれだった粗末な代物である。


「丁度よい、本日は弥助殿にも、信長様との遊びに付き合っていただきましょう。」 松庵はそう言うと、信長と弥助の間に座り、木箱を横に置いた。そして、不恰好な木人形を二つの山に分け、信長と弥助の前にそれぞれ並べた。


「さて、信長様、そして弥助殿。これから盤上の戦を行いまする。」 松庵は弥助に向き直り、子供に教えるように言った。 「弥助殿、あなたは今、信長様の家臣ではなく、敵対する大名……そうですな、中国地方の毛利か、あるいは周防の大名だとお考えくださいませ。」


弥助は戸惑ったように信長の顔を見た。信長は顎をしゃくって許可を与えた。 「構わぬ、弥助。敵になりきれ。」 「ハ、ハッ。ワカリマシタ。」


松庵は人形を綺麗に列に並べさせた。 「この人形は、それぞれの領地に住む民、そして兵でございます。数は互角。力も互角。」 松庵は木箱の中から、小枝を数本取り出した。ただの枯れ枝だが、松庵が持つと、それが何やら禍々しい武器に見えてくるから不思議であった。


「さあ、信長様。南蛮からの支援物資が届きましたぞ。」 松庵は信長に小枝を差し出した。 「この木の枝……ではなく、最新鋭の火縄銃をお買い求めください。これがあれば、弓矢しか持たぬ敵など容易く蹴散らせましょう。」


信長は枝を受け取った。鉄砲の威力は誰よりも知っている。長篠での勝利は記憶に新しい。 「ほう、種子島か。いくらじゃ。金か? 銀か?」 信長が問うと、松庵は首を振った。


「いえいえ、銭金は後で構いませぬ。まずはこの火縄銃を使い、敵を討ち果たしなされ。」 松庵は信長の持つ枝を、弥助の前の人形に向けさせた。 「ズドン、と。さあ、威力が違います。弥助殿の兵はひとたまりもございませぬ。」


松庵は弥助の前の人形を数枚、裏返しにした。 「おやおや、見事に敵を打ち破り、領民を捕らえましたな。さすがは信長様。」 信長は鼻を鳴らした。 「造作もないことよ。」


「さて、ここで商いです。」 松庵は、裏返された弥助の人形、すなわち捕虜となった敵兵や民を指差した。 「この者たち、信長様の領地で養うには飯代がかかります。殺すには惜しいが、置いておくのも厄介。そこで……」 松庵は横に置いた木箱の蓋を少し開けた。箱の中は暗く、何も見えない。 「南蛮にて、労役のために引き取りましょう。彼らは丈夫な働き手を求めておりますゆえ。火縄銃の代金、および火薬の代金として、この捕虜たちを差し出してはいただけませぬか? 敵なのですから、構いませんな?」


信長は一瞬、眉をひそめた。人の売り買い。それは戦国の世では珍しいことではない。「乱取り」と称して、敵地の民をさらうことは日常茶飯事であった。だが、それを異国へ売るとなると……。 しかし、喉から手が出るほど欲しい硝石や鉛を手に入れるためだ。敵の民など知ったことではない。 「……良かろう。持っていけ。」


「毎度、ありがとう存じます。」 松庵は返事を聞くや否や、捕らえられたと見立てた弥助側の人形を掴み、無造作に木箱の暗闇へと放り込んだ。コト、と乾いた音がして、人形は箱の中に消えた。 「これで、信長様の手元には火縄銃が残り、敵の数は減りました。」


そして松庵は、今度は弥助に向き直った。 「さて、弥助殿。困りましたな。信長様の鉄砲隊にやられっぱなしですぞ。」 松庵は懐から、別の小枝を取り出した。 「これは信長様には内緒ですが……あなたにも火縄銃を提供しますぞ。なに、信長様に売ったものより少しばかり旧式ですが、十分に戦えます。」


弥助は目を白黒させたが、松庵は有無を言わせず弥助の手元に枝を置いた。 「さあ、反撃です。信長様の兵を撃ちなさい。」 松庵は自ら弥助の手を取り、枝を信長の人形に向けさせた。「バン!」と口で音を立て、今度は信長の人形を数枚裏返した。


「おや、弥助殿もやりますな。信長様の兵や領民を捕らえました。……さて、火縄銃の代金をいただきましょうか。」 松庵の手が伸びる。 「奴隷としましょう。」


「待て!」 信長が鋭い声を上げた。 「それは儂の民ぞ!」 「左様でございます。ですが、今は敵の捕虜。弥助殿にとっては、ただの換金物資に過ぎませぬ。」


松庵は信長の制止を無視し、回収した信長の人形を、容赦なく先ほどの木箱へと仕舞い込んだ。 コト、コト。 箱の中に、信長の民だった木片が積み重なっていく音が響く。


「さあ、戦は続きます。」 松庵は煽った。 「信長様、兵が減りましたな。もっと強力な大筒はいかがです? その代わり、代金は……わかっておりますな?」 「弥助殿、防戦一方では負けますぞ。鉛と硝石を追加でお売りしましょう。支払いは、捕らえた敵の民で構いません。」


信長と弥助の間で、枝と人形が行き交う。 信長が攻めれば、弥助の民が消える。弥助が反撃すれば、信長の民が消える。 戦えば戦うほど、双方の陣地から人形が減り、代わりに中央の木箱だけが重くなっていく。


やがて、松庵は手を止めた。 信長と弥助の前に残されたのは、最初の半分以下にまで激減した、わずかな人形たちだけであった。田畑を耕す者も、槍を持つ者も、大半が箱の中に消えてしまった。


「……これが、第一の罠にございます。」 松庵は静かに言った。 「戦を煽り、双方に武器を売りつけ、その代価として国の宝である『人』を奪う。勝っても負けても、国力は削がれ、残るのは南蛮の武器商人と、人が消えて荒れ果てた土地のみ。」


信長は忌々しげに舌打ちをした。 「己の強欲さを棚に上げて何を言うか。だが……民がいなくなれば、国は立ち行かぬ。」


「その通りでございます。人が減れば、土地は荒れます。荒れた土地には、不安が育ちます。そこに……」 松庵は傍らに置いた木箱を、信長の目の前に突き出した。 「この箱。先ほどまでは奴隷船でしたが、今は『南蛮寺』とお考えください。」


松庵は木箱を傾け、中から幾つかの人形を取り出した。 それらは、先ほど仕舞い込んだ人形とは違っていた。黒く塗られていたり、奇妙な形に削り直されていたりして、異質な雰囲気を漂わせている。 「さて、南蛮寺から、ありがたい教えを受けた信徒たちを出しますかな。」


松庵は、人形が少なくなって隙間だらけになった信長と弥助の陣地に、その異質な人形を配置し始めた。 「彼らは、飢えや戦に疲れた民にこう説きます。『死ねばパライソ、この世の苦しみは神の試練! 現世の主君など仮の主、真の王は天に在り』と。」


「一向宗か。」 信長が吐き捨てるように言った。長年苦しめられてきた本願寺の門徒たちと重なったのだ。


「似て非なるもの。さらに厄介かもしれませぬぞ。」 松庵は、黒い人形を動かした。 「おやおや、お二人とも互いに争い合い、兵が足りないご様子。領内の監視も行き届きませぬな。ならば、この南蛮寺の信徒たちが、空いた土地や村を貰い受けましょう。」


黒い人形が、元々あった白い人形を取り囲んでいく。 「彼らの教えでは、デウスを信じぬ者は人間ではありませぬ。教化すべき迷える子羊か、あるいは滅ぼすべき悪魔の手先です。さあ、信長様。領内に異質の法が生まれました。」


松庵は、信長の陣地に残っていた数少ない白い人形の上に、黒い人形を重ねた。 「奴隷狩りを行いまする。」 「なに?」 「神に帰依せぬ異教徒を捕らえ、南蛮の商人に売り渡すのです。それは彼らにとって罪ではなく、むしろ異教徒を異国へ送り、そこで教えを説く機会を与える慈悲とすら考えられます。」


松庵は、残っていた信長の領民の人形を、黒い人形の手によって回収し、再び木箱へと仕舞い込んだ。 「なんと、味方だと思っていた領民が、隣人を売り払うとはな。」 「信仰とは恐ろしいものです。特に、飢えと絶望が蔓延した土地では、劇薬のように効きまする。」


すべての人形が木箱に収まり、あるいは黒い人形に置き換わった。 信長と弥助の前に広がっていた日本の縮図たる盤面は、見る影もなく変貌していた。残ったのは、わずかな兵力と、南蛮寺の信徒を装った異質な木人形、そして大量の南蛮製の武器(枯れ枝)だけであった。


国は武器で溢れているが、それを扱う民はいない。 いるのは、主君よりも天の神を崇める者たちだけ。 そして、かつての民はすべて、海の向こうへ消えた。


松庵は、空になった盤面を眺めながら、ぽつりと呟いた。 「国を富ませるはずの交易が、いつの間にか国を空っぽにする。鉄砲一丁につき、娘が数十人。火薬一樽につき、若者が数十人。……安いものですな、日本人の命というものは。」


信長は拳を握りしめ、松庵を睨みつけた。 「松庵、貴様……これが南蛮のやり口か。」 「あくまで、一つの見方にございます。ですが、火のない所に煙は立ちませぬ。」


松庵は立ち上がり、信長の横で固まっている弥助に近づいた。そして、その耳元で、信長にも聞こえるような声量で囁いた。 「事の真偽は、この弥助殿か、あるいは外洋に出ている倭寇にでも聞くとよろしいでしょう。」


弥助の肩がピクリと跳ねた。 信長は弥助を見た。その漆黒の肌。異国の言葉。彼はどこから来たのか。誰に連れて来られたのか。宣教師の従者として、遠いアフリカの地から、どのような扱いで海を渡ってきたのか。 弥助は何も語らず、ただ悲しげな瞳で床を見つめていた。その沈黙こそが、松庵の言葉が単なる妄想ではないことを雄弁に物語っていた。


「……硝石と交換にか。」 信長の声は低く、重かった。 短期的な戦力の増強。そのために南蛮との交易を推し進めてきた。だが、その裏で、国力の源泉である「人」が流出し、代わりに統治を揺るがす「信仰」という名の毒が入り込む。 内戦が長引けば長引くほど、日本人は互いを売り払い、南蛮の腹を肥やす餌となる。


「三重の罠、でございます。」 松庵は木箱を風呂敷に包み直しながら、指を三本立てた。 「一つ、戦を煽り武器を売ることで富を吸い上げる罠。二つ、対価として人を奪い国力を削ぐ罠。三つ、心の隙間に入り込み、国を内側から乗っ取る信仰の罠。」


松庵は一礼した。 「信長様。天下布武の先、海を越えるのであれば、この罠を食い破るだけの知恵と力が要りましょう。単に鉄砲を撃ち合うだけの戦ならば、猿でもできますゆえ。」


松庵は静かに部屋を去っていった。 残されたのは、信長と弥助、そして散らばった枯れ枝だけであった。 秋風が吹き込み、襖をガタガタと揺らす。その音は、まるで遠い異国の海で、鎖に繋がれた数多の民が呻く声のように、信長の耳にこびりついて離れなかった。


「……弥助。」 「ハッ。」 「茶を持て。……濃いめだ。」 「……ハッ。」


信長は、弥助の背中を見送りながら、深いため息をついた。 新しい知識、新しい武器、新しい文化。それらを貪欲に取り入れてきた己の道の足元に、巨大な落とし穴が口を開けて待っている。その深淵を覗き込んだような寒気が、信長の背筋を走っていた。

天正9年 信長公記「二月廿三日、きりしたん国より黒坊主参り候。年の齢廿六、七と見えたり。惣の身の黒き事、牛の如し。彼の男、健やかに、器量なり。しかも、強力十の人に勝たり」

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