銀を鉛へ
前回の小豆を使った奇妙な問答から幾日かが過ぎた。 季節は梅雨に入り、安土の山々は湿った霧に包まれていた。雨脚が城の瓦を叩く音が、絶え間なく響いている。この日の信長は、城内の奥まった一室で、束の間の休息を取っていた。
部屋には甘い香りが漂っていた。信長の前には、湯気を立てる饅頭が盛られた漆塗りの盆が置かれている。砂糖という、当時においては金にも等しい貴重な甘味を使った贅沢な菓子である。 「蘭丸、茶がぬるいぞ。」 「はっ、申し訳ございませぬ。直ちに入れ替えまする。」 小姓の森蘭丸が甲斐甲斐しく動くのを、信長は横目で見ながら饅頭を一つ手に取った。薄皮を割ると、中から艶やかな餡が顔を出す。口に運べば、濃厚な甘みが舌の上に広がり、連日の政務で疲弊した脳髄を心地よく痺れさせた。
「悪くない。」 信長が独り言ちた時、廊下から静かな足音が近づいてきた。襖の向こうから、沢彦宗恩の野太い声が掛かる。 「信長様。沢彦にございます。例の松庵を連れて参りました。」
信長は口元の粉を懐紙で拭うと、ニヤリと笑った。 「また来たか。通せ。」
襖が開くと、そこには前回と同じく古びた袈裟を纏った松庵が控えていた。沢彦の後ろで深く頭を下げるその姿は、一見すれば枯れ木のように頼りなげだが、顔を上げた時の眼光には、俗世の欲とは無縁の、しかし全てを見透かすような冷徹な知性が宿っていた。
「お久しぶりでございますな。」 松庵は部屋に入ると、信長の手元にある饅頭に目を留めた。 「おや、饅頭とは丁度良い。」
「ほう、貴様も甘味には目がないか。一つ所望するか?」 信長が戯れに問うと、松庵は首を横に振った。 「いえ、食すのではなく、使いとうございます。では、また一つ面白い話をいたしましょう。」
松庵は信長の許しを得る前に、ずかずかと進み出ると、信長の前にあぐらをかいて座った。その不遜な態度に蘭丸が色めき立ったが、信長は手で制した。あの「うつけ遊び」の続きが見られるのであれば、多少の無礼など些細なことだ。
松庵は懐から、今度は大小様々な銀の塊を取り出した。鈍い光を放つその塊は、灰吹法によって精錬されたばかりの良質な銀である。彼はそれを信長の盆の横に並べ、さらに部屋の隅に積まれていた米俵の一つから、手掴みで米を一升枡に移し、それも手元に引き寄せた。
「さて、信長様。準備が整いました。」 松庵は饅頭、銀塊、そして米を指差して説明を始めた。 「こちらの美味しそうな饅頭は、明国や南蛮からもたらされる珍品、あるいは硝石や生糸といった物資とお考えくださいませ。そして、この銀塊が、その品を手に入れるための対価、すなわち日本が産出する銀でございます。」
松庵は信長の前に銀塊を押しやった。 「さあ、信長様。この銀を使い、私からこの饅頭をお買い求めください。南蛮渡来の硝石があれば、鉄砲隊はさらに強くなりましょう。明国の生糸があれば、美しい小袖ができましょう。」
信長は盆の上の饅頭を見つめた。それはただの菓子ではなく、彼の野望を支える軍需物資や、権威を象徴する名物の見立てであった。 「商いごっこか。良かろう。」 信長は躊躇なく、目の前の銀塊を松庵に渡した。 「これで、その饅頭、すなわち南蛮の富は儂のものじゃ。」
信長は銀と引き換えに饅頭を一つ手に取り、満足げに口に運んだ。甘露な味が口いっぱいに広がる。しかし、松庵の目は笑っていなかった。彼は受け取った銀塊を、愛おしむように撫でると、そっと自分の懐、すなわち「海外」へとしまい込んだ。
「おや? 信長様の手元から、銀がなくなりましたな。」
松庵の言葉に、信長は空になった手元を見た。当然である。物を買えば銭は減る。だが、松庵の言わんとすることは、その先にあるようだった。 松庵は、信長の脇息のそばに置かれていた地図を広げた。それは石見や但馬など、信長が支配下に置く、あるいはこれから手に入れようとしている銀山の地図であった。松庵はその上を、骨ばった指でなぞった。
「石見の銀鉱山も、掘り続ければいつかは枯れましょう。さて、困りましたな。配下の国人衆たちが、手柄への恩賞として俸禄を求めておりまする。堺の商人たちも、代金の支払いを求めております。そして何より、市井では銀が足りず、銭の巡りが滞っております。」
松庵は懐を叩いた。そこには、先ほど信長が渡した銀が入っている。 「日本の銀は、饅頭や硝石に化けて、海の外へと消えてしまいました。これでは商売も、兵の給与も滞りましょう。さて、どうなされます?」
信長は眉をひそめた。 「ならば、米がある。」 信長は枡に入った米を顎でしゃくった。 「我が国は瑞穂の国じゃ。銀がなくとも、米で払えばよい。」
だが、松庵は即座に首を振った。まるで出来の悪い弟子を諭すような口調であった。 「効率を重視する信長様にしては、それはあまりに回りくどく、愚策にございますな。」
「何だと?」 信長の声色が険しくなる。
「そもそも、米は嵩張りまする。銀一塊と同じ価値の米を運ぶのに、どれほどの人足と馬が必要か。その運搬賃だけで赤字になりましょう。それに、米は生き物。湿気れば腐り、鼠が食い、時が経てば古米となって価値が下がる。豊作の年は値崩れし、凶作の年は飢えを招く。」
松庵は米の入った枡を軽く揺すった。 「食えば消えてしまう米を頼りにしていては、国力は銀として貯まらず、ただ消費され、目減りするばかり。いざという時、異国から硝石を買おうにも、彼らは重くて腐る米など欲しがりませぬ。彼らが欲するのは、輝く銀のみ。」
信長は腕を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らした。 「……理屈はわかる。だが、無い袖は振れぬ。銀が流出したのならば、取り戻せばよい。」 信長は鋭い視線を松庵に向けた。 「商いとは、買うばかりではない。売ることもあろう。日本の品を売り、銀を買い戻す。それで解決じゃ。」
「ほう、銀を買い戻したいと? よろしいですとも、大いに結構。」 松庵はにこやかに頷くと、再び懐に手を入れた。 「では、信長様が輸出した刀剣や漆器の代金として、銀をお支払いしましょう。」
松庵が懐から取り出し、信長に差し出したのは、数枚の銀色の塊であった。しかし、それは先ほど信長が渡したような、白く輝く美しい銀塊ではなかった。どす黒く濁り、どこか油じみた光沢を放つ、いびつな塊である。
信長はそれを受け取ると、掌の上で転がした。 重い。 そして、指先に残る感触が柔らかすぎる。
「松庵。」 信長の声が低く沈んだ。 「何じゃ、これは。鉛ではないか。」
信長はその塊を畳の上に叩きつけた。鈍い音がして、塊は少しへしゃげた。純粋な銀ならば、澄んだ音がするはずである。
松庵は表情一つ変えず、叩きつけられた塊を拾い上げた。 「私が渡したのが鉛? 心外な。これは歴とした、明や南蛮で流通している銀貨、あるいは決済に使われる銀ですぞ。」
「虚けを申すな! 色も重さも違うわ!」
「ええ、違いますとも。」 松庵は悪びれもせず認めた。 「ですが、向こうではこれも『銀』として通っております。南蛮の連中は、自国の良質な銀を惜しみ、あるいは持ち出すことを禁じ、交易にはこのような混ぜ物をした悪銀や、鉛を多く含んだ銀貨を使います。」
松庵は、信長の前に置かれた、輝く日本の銀(灰吹銀)と、今出した鉛混じりの銀を並べた。その差は歴然としていた。
「信長様。彼らは、日本の良質で純度の高い『灰吹銀』を欲しがります。なぜなら、日本の銀は世界でも稀に見るほど純度が高いからです。彼らは甘言を弄し、珍しい文物を持ち込み、貴方様からこの美しい銀を奪っていく。そして、その対価として支払われるのは……」
松庵は濁った銀を指で弾いた。 「この、鉛混じりのガラクタです。」
信長は言葉を失った。 「良貨は悪貨に駆逐される、とは申しますが、これはそれ以前の問題。国富とは、かくも簡単に流出するものなのです。信長様が南蛮のマントを羽織り、硝石で戦をするたびに、日本の純銀は海を渡り、代わりに国内には鉛の混じった悪銀が溢れかえる。」
松庵は、信長の目を見据えて問いかけた。 「悪銀が増えればどうなるか。商人は受け取りを渋り、物の値は上がりましょう。兵たちは給金として渡された銀が鉛だと知れば、槍を放り出して逃げ出すでしょう。経済という土台が腐れば、いかに強大な安土城とて、砂上の楼閣のごとく崩れ去る。」
信長は、手中にあるはずだった銀が、いつの間にか鉛や石ころ同然のものにすり替わっている様を想像した。 戦場での勝敗は目に見える。首を取れば勝ち、城を落とせば勝ちだ。だが、この戦いはどうだ。 知らないうちに、血の一滴も流さずに、国そのものの価値が吸い取られている。
「……南蛮人は、ただの物好きの商売人ではなかったか。」 信長がポツリと漏らす。
「彼らは商人であり、侵略者であり、そして宣教師でもあります。全ては繋がっているのです。」 松庵は、並べた饅頭の一つを手に取り、ゆっくりと二つに割った。 「甘い汁を吸われているのは、我々の方かもしれませぬな。」
信長は、目の前の饅頭を見る目が変わったのを感じた。先ほどまで感じていた芳醇な甘みは消え去り、口の中に鉛のような重苦しい味が広がっていくようだった。
「石見の銀、但馬の銀……。」 信長は、自らの覇権を支える財源について思いを巡らせた。掘り出した端から、ザルのように流れ出ているとしたら。そして、国内に残るのは価値のない鉛ばかりだとしたら。
「松庵、貴様……。」 信長は鋭い視線を僧に向けた。 「このからくり、どうすれば防げる?」
松庵は答えず、ただ静かに微笑んだまま、散らばった銀と鉛を一つ一つ拾い集め始めた。 「それはまた、次の機会に。まずは、この饅頭を味わうことです。毒も薬も、知らねば使いこなせませぬゆえ。」
松庵は沢彦宗恩に目配せをし、静かに立ち上がった。 「本日はこれにて。……おや、雨が上がりましたな。」
松庵が指差した障子の隙間からは、一筋の陽光が差し込んでいた。しかし、信長の心の中には、分厚い雨雲よりもさらに重く、暗い影が落ちていた。 経済という名の、見えざる戦場。そこには、火縄銃や槍の届かない、冷徹な数字と品質の罠が張り巡らされていた。
信長は、松庵が去った後も、手元に残された鉛混じりの銀塊を、忌々しげに、しかし強く握りしめていた。その冷たい感触は、天下統一への道のりが、武力だけでは決して成し遂げられないものであることを、無言のうちに告げているようであった。




