円の外
天正の世、琵琶湖の畔に聳え立つ安土城は、日の本を統べる覇者の象徴として威容を誇っていた。黄金と極彩色に彩られた天主は雲を突き抜けんばかりに高く、その影は湖面に長く伸びている。城内は張り詰めた空気に満ちていた。織田信長が天下布武を掲げ、諸国の大名を次々と平らげている最中であり、日々の政務は苛烈を極めていたからである。
広間では、信長が上段の間で書状に目を通していた。派手な南蛮笠を傍らに置き、小袖の襟を少し寛げた姿からは、既存の権威に縛られぬ彼特有の奔放さと、それでいて近寄りがたい鋭利な刃物のような覇気が漂っている。近習たちが息を潜めて控える中、信長は苛立たしげに紙片を放り投げた。東の武田は長篠で打ち破ったとはいえ、西には毛利、北には上杉と、敵は依然として多い。加えて本願寺のような信仰を盾にする勢力も根強く、安息の時は片時もなかった。
その時、襖の向こうから近習の声が響いた。 「申し上げます。妙心寺の沢彦宗恩様が参られました。何やら、妙な客人を連れておられる由にございます。」
信長は眉を一つ動かした。沢彦宗恩といえば、信長の幼少期からの師であり、「岐阜」の名や「天下布武」の印文を考案したほどの知識人である。その沢彦がわざわざ連れてくる客人となれば、ただの有象無象ではあるまい。 「通せ。」 短く命じると、信長は居住まいを正した。
やがて、重々しい足取りで沢彦が現れた。老境に入りながらも背筋は伸び、その眼光は理知的に澄んでいる。そしてその後ろには、沢彦の威厳とは対照的な、みすぼらしい一人の僧が付き従っていた。
「信長様。ご機嫌麗しゅう存じます。」 沢彦は慣れた所作で平伏した。信長は鷹のような目で、後ろの僧を射抜くように見つめた。 「爺、久しいな。して、その後ろのむさ苦しいのは何者じゃ。」
沢彦は顔を上げ、少し困ったような、それでいてどこか楽しげな笑みを浮かべて言った。 「はっ。巷で少々変わった僧を見つけましてな。名は松庵と申します。どうしても信長様にお目通り願いたいと申す故、こうしてお連れいたしました。見かけは貧相ですが、その腹の中には奇妙な知恵が詰まっておるようです。」
促された僧、松庵が前に出た。纏っている袈裟は長く風雪に晒されたのか色あせ、裾は擦り切れている。顔には旅の疲れが深く刻まれているようだったが、その双眸だけは異様なほどに静かで、底知れぬ湖のような深さを湛えていた。彼は信長の前まで進み出ると、畏まることも震えることもなく、静かに座して一礼した。
「松庵と申しまする。」 声は低く、よく通った。
信長は鼻を鳴らした。 「ほう。そなたが沢彦が言う変わった僧か。天下人に謁見を求めるとは良い度胸じゃ。何用があって参った。講釈か? それとも寄進の願いか? つまらぬ話ならば即座に叩き斬るぞ。」 信長の脅しとも取れる言葉にも、松庵は動じなかった。むしろ、その口元には薄い笑みさえ浮かんでいるように見えた。
「信長様のようなお方に、ありふれた説法など釈迦に説法。寄進を求めたところで、天下を統べるお方の財布を痛めるだけ。そのような野暮はいたしませぬ。」 松庵は懐に手を入れた。近習たちが一瞬、刀に手をかける気配を見せたが、信長は手でそれを制した。 「一つ、信長様に面白いお話をいたしましょう。ただし、言葉を尽くして話すよりも、見た方が早いかと。」
松庵が取り出したのは、古びた布袋であった。口を解くと、中からさらさらと音を立てて小豆がこぼれ落ちるかと思いきや、彼は懐からさらに小さな手縫いの袋を幾つも取り出し、その中に手際よく小豆を詰め始めた。 「ほう、手妻か?」 信長が身を乗り出す。
「いえ、ただの遊びにございます。」 松庵は数個の小豆袋を作り終えると、それを手のひらで弄んだ。 「信長様、あるいはご家来衆でも構いませぬ。少しお付き合い頂けますかな? 難しいことではありませぬ。ただ、身体を動かしていただくだけのこと。」
「良かろう。」 信長は立ち上がった。かつて「うつけ」と呼ばれ、野山を駆け回り、奇抜な振る舞いで人々を驚かせた血が騒いだのか、その顔には退屈な政務から解放された少年のごとき好奇心の色が浮かんでいた。 「庭へ出るぞ。」
安土城の庭園は、巨石や名木を配した壮大なものであったが、松庵はその一角にある平らな地面を選んだ。初夏の風が吹き抜け、木々の葉がざわめく中、松庵は近くにいた近習に命じた。 「木刀を一振り、お借りしたい。それと、先ほどのような豆の入った袋を、もっと沢山用意してくだされ。」
近習たちは戸惑いながらも信長の顔色を窺い、主君が頷くのを見て慌ただしく動き出した。やがて、ずっしりとした樫の木刀と、数十個にも及ぶ小豆袋が運び込まれた。
松庵は庭の地面に落ちていた枝を拾い上げると、土の上に大きな円を描いた。直径は二間(約三・六メートル)ほどであろうか。 「信長様、こちらの木刀をお持ちくださいませ。」 松庵は恭しく木刀を信長に手渡した。信長はそれを受け取り、軽く振ってみせる。風を切る鋭い音が響いた。 「して、何をするのじゃ。」 「この丸の中に、お立ちくださいませ。」
信長が円の中央に立つと、松庵は五、六間ほど離れた位置に立った。その手には小豆袋が握られている。 「さて。私はここから、この袋を投げます。信長様は、当たらぬよう、そして決してこの丸から出ぬよう、袋を避けるなり、切るなり、弾くなりしてくださいませ。」
信長は木刀を正眼に構え、ニヤリと笑った。 「なるほど、余興か。武芸の稽古にもならぬ遊びだが、まあ良い。貴様のその細腕で投げる豆袋など、止まって見えるわ。」 「では、参ります。」
松庵は掛け声とともに、ひょいと袋を投げた。袋は山なりの軌道を描いて信長に向かう。信長は動くこともなく、目前に迫った袋を木刀の峰で軽く弾いた。 「遅い。」 「失礼いたしました。では、これなら。」 松庵は二つ、三つと続けて投げた。信長は半身になり、最小限の動きで避ける。あるいは、飛来する袋を空中で叩き落とす。その動きには無駄がなく、日頃の武芸鍛錬の賜物であることが見て取れた。近習たちからは、主君の見事な体捌きに感嘆の声が漏れる。
「どうじゃ、松庵。これでは日が暮れるぞ。」 信長が余裕の声で挑発する。松庵は、まだ表情を崩さない。 「お見事にございます。しかし、まだ始まりに過ぎませぬ。」 そう言うと、松庵は動きを止め、静かに語りかけた。その声の調子が、先ほどまでの遊びの雰囲気とは打って変わり、冷徹な響きを帯びた。
「よろしいですかな、信長様。この地面に描いた丸こそ、日本、すなわち日の本でございます。」
信長の動きが止まった。 「……なに?」 「日の本は海に囲まれた島国。この丸と同じく、境界が定まっております。」 松庵は足元に置いた大きな布袋から、さらに大量の小豆袋を取り出し、両腕いっぱいに抱えた。その数は先ほどの比ではない。 「南蛮の地は遠く、かの地を攻めようにも、信長様はその円、すなわち日本から容易に出ることはできませぬ。海という壁があるからです。ですが……」
松庵の目が鋭く細められた。 「あちらからは、ご覧の通り。好きな時に、好きな場所から、好きなだけ袋を投げつけられまする。」
言い終わるや否や、松庵の腕が唸った。 今度は手加減などなかった。松庵は身体のバネを使い、次々と袋を投げつけた。それも、ただ正面から投げるのではない。高く放り上げるもの、低く地を這うようなもの、時間差をつけて左右に投げ分けるもの。無数の小豆袋が、矢の雨のように信長に襲いかかった。
「ちいっ!」 信長の顔から笑みが消えた。 木刀を振るう速度が上がる。右から来る袋を弾き、左から来る袋を躱す。しかし、一つを避ければ次が来る。円の外に出れば負けという取り決めがあるため、信長は狭い範囲での回避を強いられた。
「ほらほら、どうされました!」 松庵の声が飛ぶ。 袋の一つが信長の肩を掠めた。信長は鋭い気合とともに木刀を一閃させる。 バシッ! 木刀が袋を直撃した。その衝撃で袋の縫い目が弾け、中から赤い小豆が爆発したように飛び散った。小豆はバラバラと音を立てて庭の白砂の上に散乱し、美しい庭園を汚していく。
「まだまだ!」 松庵の手は止まらない。信長は必死に応戦した。額に汗が滲み、呼吸が荒くなる。天下無双の武人を自負する信長であっても、一方的に投げつけられる飛来物を、足場を制限された状態で捌き続けるのは至難の業であった。 木刀が唸りを上げるたびに、袋が破れ、あるいは弾かれ、小豆が弾け飛ぶ。庭には無惨に踏み潰された小豆と、破れた布切れが散乱していった。
しばらくの後、松庵が抱えていた袋が尽きた。 庭には静寂が戻った。聞こえるのは、信長の荒い息遣いと、遠くで鳴く鳶の声だけである。信長は肩で息をしながら、乱れた着物を直すこともせず、松庵を睨みつけた。 「……ふう。中々やりおる。だが、どうじゃ。儂は円から一歩も出ず、貴様の玉を全て凌いだぞ。」
信長は勝利を宣言しようとした。しかし、松庵は悲しげな目で、足元を指差した。 「信長様。足元をご覧くださりませ。」
信長が視線を落とす。そこには、無数の小豆が散らばり、踏み砕かれ、見るも無惨な光景が広がっていた。美しい白砂は汚れ、小豆の赤がまるで血痕のように点々と続いている。
「なんじゃ、これは。」 「これが、戦いの結果にございます。」 松庵は静かに歩み寄ると、砕けた小豆の一つを拾い上げた。 「迎撃するたびに、豆が散らばるように国土は荒れてゆくでしょう。信長様がいかに武勇に優れ、全ての袋を打ち落としたとしても、そのたびにこの『丸』の中、すなわち国内は傷つきます。畑は荒れ、民は傷つき、富は失われる。」
松庵は信長の顔を見据えた。 「この戦いには終わりがございませぬ。相手は海の外、安全な場所から好きな時に攻め寄せ、不利になれば引けばよい。しかし、受け身であるこちらは、常に国土を戦場としなければなりませぬ。丸から出られぬ限り、信長様の疲弊は進む一方です。」
信長は木刀を下ろした。その重みが、急に増したように感じられた。 「受動的な戦……か。」 「左様。攻める側は機会を選べますが、守る側は常に備えねばならぬ。百回守り抜こうとも、一回の失敗で国は滅びる。しかし、百回攻める側は、百回失敗しても国へ帰るだけでございます。」
松庵は最後に、歴史の闇に葬られたある事実を掘り起こすように、静かに、だが重々しく付け加えた。
「さながら、かつて元寇で疲弊した鎌倉の北条氏のようですな。」
その言葉は、信長の胸に冷たい刃のように突き刺さった。 元寇。二度にわたる蒙古の襲来。鎌倉武士団は命を賭してこれを撃退した。神風が吹いたとも言われる。だが、その勝利の代償はあまりに大きかった。攻め取った土地がないため、御家人たちへの恩賞として与える土地がなく、幕府の権威は失墜し、やがて内側から崩壊したのである。 外敵を退けても、国が疲弊し、体制が崩壊する。勝っても得るものがなく、失うだけの防衛戦。
信長は木刀を近習に放り投げると、腕を組んで庭に散らばった小豆を見つめた。 ただの子供の遊びに見えたものが、国家存亡の理を示していたとは。 南蛮から来る黒船、鉄砲、そして彼らがもたらす富と、その裏にある教え。信長はそれらを積極的に取り入れてきた。しかし、彼らがもし、その牙を剥いた時、日本という島国は「丸の中の信長」と同じ運命を辿るのではないか。
海の外から来る、姿の見えぬ巨大な脅威。 信長の表情から、遊びの興奮による赤みが引いていった。代わりに浮かんだのは、天下人としての孤独と、終わりのない受動的な防衛戦の限界を悟ったかのような、深い思索の色であった。
「沢彦。」 信長は低い声で呼んだ。 「はっ。」 「この男、暫く逗留させよ。」 「……御意。」
松庵は深々と頭を下げた。その顔には、相変わらず穏やかな、しかしどこか底知れぬ笑みが浮かんでいた。 風が吹き抜け、散らばった小豆の上を乾いた砂が覆っていく。信長は踵を返し、城内へと戻っていったが、その背中は先ほどよりも幾分か重く、そして何か巨大な決意を秘めているように見えた。
外洋からの脅威。それは目に見える軍船だけではない。この国が抱える構造そのものの脆弱さを、一人の貧僧が白日の下に晒したのであった。




