猫愛でる皇子と月満ちる白猫
髪を撫でる夫の手のひらに、シルキーは頬ずりした。触れている肌から伝わってくる彼の体温が心地良い。
朝の光の中で、夫は額に口づけを落としてきた。
いつまでもこうしていたいけれど、夫は今日、皇太子の公務で遠い街まで視察に行く。
一緒に行けるものと思っていたのに、今回は自分も皇都ヴィオラの病院へ慰問に行くという、皇太子妃としての大事な公務がある。寂しいなどとは言えない。
サラサラした金の髪に、藍色の瞳。
夫のその整った顔立ちに見惚れていたら、窓を叩く風の音にふと心がざわめいた。
近い将来、何かが起きる予感がする。
夫と自分の関係を変えてしまう、何か重大なことが。
✳︎✳︎✳︎
オルヴェル帝国の皇太子バイエルの妃、シルキーは、白銀の髪と瞳、透き通るような白い肌を持つことから、「白の姫君」と呼ばれて育った。
趣味は塔などの高い壁を登ること。無我夢中で走ること。これはシルキーが子供の頃から欠かせないストレス発散法であり、思考整理の方法だった。
壁に貼り付いて空しか見えない状態だと、不思議と頭がスッキリするのだ。
さて。
皇宮ヴェン・フェルージュ宮殿の片隅に、先帝時代に造られた小振りな塔が残されている。
この塔もまた、実に登りたくなる塔である。
がし。
右手が壁のレンガの出っ張った部分を掴む。
(1年前)
シルキーは塔の壁をよじ登りながら考える。
(ソリスト様の長子フーガ様が亡くなられた)
ソリストはバイエルの兄で、1年前までこの帝国の皇太子だった。
がし。
左手もレンガを掴む。
(ソリスト様もいなくなった)
ソリストは失踪し、廃太子となった。ソリストの妻である皇太子妃カトレアと幼い皇女ハーモニアは皇宮に残されていたが、ソリスト皇子が廃されると同時に二人は皇室から追放されるようにカトレアの生家グリーシュ家に戻った。
ソリストに代わり皇太子になったのが、シルキーの夫である第二皇子のバイエルだ。
ソリスト失踪前後に何が起きたのか、今や皇太子妃の立場にあるシルキーにすら詳細は伝えられていない。夫のバイエルと現皇帝は知っていそうだが、話してはくれない。
オルヴェル皇室のトップシークレット。
噂によると、ソリスト皇子が失踪した理由は息子のフーガをその手にかけたからだと言う。皇室は皇太子による人殺しを表に出すことができず沈黙を守っているのだと。
(信じられない)
ソリスト皇子は家族思いだ。弟のバイエルを誰よりも理解して、シルキーにバイエルを支えてくれるよう頼んできたのが彼だ。
ーーー『冷たい子だと思わないでほしい』
(あの彼が自分の子供を殺した?)
心地良い筋肉の疲れと共に塔の最上部へ辿り着いたシルキーは、胸壁に囲まれた丸い床に横になりそのまま考えに沈んだ。
空しか見えないこの丸い空間が好きだ。
普段なら心が落ち着く空間なのに、ザワザワと波立った気持ちが落ち着かない。
シルキーは自分を抱きしめるように身体を丸めた。
(バイエル……)
夫がヴェン・フェルージュ宮殿に帰ってくるのはまだ先だ。結婚してから公務で離れ離れになるのは初めてではないのに、今は何故かそれがどうしようもなく心細い。
(早く帰ってきて)
眩暈と喉に込み上げてくる不快感を、シルキーは気付かない振りをしてやり過ごそうとした。
✳︎✳︎✳︎
シルキーは寝室で過ごす時間が多くなった。
(……気持ちが悪い)
胃や喉の不快感は日に日に強まるようだった。
そういえば長時間馬車に揺られた時に、同じように気分が悪くなったことがある。
(あの時は、胃の中のものを吐いたら少し楽になったのだけど)
今自分を襲っている気分の悪さは、馬車酔いとは比較にならないほどしつこい。
寝ても良くならないし、空腹になると胃が酸で溶けるようにキリキリ痛むのに、食事を摂ると、それはそれで吐き気が強まるようだ。
何をどうしても、つらい。
ストレス解消に塔に登っても、庭で走り込みをしても治らない。
「毎日、塔に登っていたようだな」
夜更けに視察から帰ってきたバイエルに呆れまじりに呟かれて、シルキーは猛烈にイラっとした。
二人の寝室で誰の目も無かったのも災いした。
「久しぶりに帰ってきたと思ったらお説教ですの!?」
メラメラと燃えるように胸が熱くなる。
塔に登ることを注意されるのは、それこそ毎度の事だ。そのことにどうしてこれ程イライラしてしまうのか、シルキー自身がよく分からない。
久しぶりに夫の顔を見れて嬉しいはずなのに。
バイエルは声を荒げたシルキーを見て驚いた表情を浮かべた。
「……何かあったのか?」
シルキーは唇を噛んだ。
まるでコントロールが利かない怒り。分かっている。自分のこの感情は理不尽だ。妃の分を弁えていない。それなのに。
「ソリスト様のこと」
シルキーは胸を掻きむしりたくなった。
実家を離れた婚家で隠し事をされる孤立感。無力感。
言わなければ気が済まなかった。
「なぜ私に教えてくださらないのです!」
バイエルが不意を突かれたような顔をする。
シルキーは立っているのがつらくなってソファに倒れ込んだ。
(あああもう!)
身体が頑丈なのは自分の取り柄の一つなのに、最近は食事を満足に食べられないせいか疲れやすい。
(悔しい)
「シルキー」
バイエルが近づいてきて手を伸ばしてきたが、その手を振り払った。
ずっと気になっていた、ソリスト皇子の真相。
暴発するように感情が噴き出した結果とは言え。
(問い詰める絶好の機会なのに)
「ううぅぅぅ……」
ソファのクッションに顔を埋めて唸ってみても、吐き気が取れない。
目の端に涙が滲む。思い通りにならない自分の身体が許せない。
(私の気持ちなんか全然分かってない)
ムカムカしながら泣き始めると、バイエルの手が遠慮がちに背を撫でる。
悲しいのか、許せないのか、孤独なのか、一人にしてほしいのか。
一体誰に向けた気持ちなのか、それすらも。
(分かってないのは、私の方だ)
混乱して、ささくれだった気持ちがバイエルに背を撫でられることで少しずつ穏やかになる。
深く息を吐く。
吐き気も幾分かおさまるような気がした。
(八つ当たりしちゃったなぁ)
今の自分は完全に夫に体調不良の八つ当たりをしている。
身体が楽になる程、頭は冷静になっていった。
「……イライラして、ごめんなさい」
クッション越しにくぐもった声で謝ると、夫は一度背中を撫でる手を止めたが、「気にするな」と言って再び撫で始める。
手のひらの温かさが心地良い。
しばらくして、シルキーは思い立ってバイエルに唇を寄せた。
「……!」
バイエルは戸惑うように受け入れる。
口づけなんていつもしている。
でも久しぶりだと妙に気恥ずかしくて、その羞恥心を悟られないように、シルキーは努めて平静を装った。
お互いの指を絡ませたのが合図か、やがてバイエルの方からシルキーを求め始める。
食むような口づけを何度か繰り返した後、バイエルはシルキーの首筋から鎖骨に唇を這わせた。
いつもなら身を任せてしまう流れなのだが。
「うぅ……バイエル、今日は……」
馬車酔いにも似た気分の悪さがやはり取れず、シルキーはバイエルの胸を弱々しく押し返した。
身を引いたバイエルが、シルキーの顔を注意深く見つめている。
そして、彼はいつものように髪を優しく撫でて額に一つキスをした。
シルキーは想像していなかった。
自分の状態が、この先更に悪化することを。
✳︎✳︎✳︎
バイエルはどうすればいいか分からず困っていた。
シルキーが気分の悪さを訴え始めてから、もうふた月は経っている。
彼女はとうとう食べ物を全く受け付けなくなった。
始めはまだ固形物が食べられた。徐々にその量が減り、ついに飲み物しか口にできなくなった。
皇宮の料理人達があれこれ味や食感を工夫したスープやジュースを作るが、それもほとんど喉を通らない。
朝から晩まで、うっすら甘い味がついた果実水をちびちびと猫が水を舐めるように飲む。
目の下にはクマができ、丸みがあった頬からは肉が落ちていた。
元々人形じみた美しさがある彼女を人間らしく見せていたのは、ひとえに彼女が飛んだり跳ねたり走ったり登ったりと、発するエネルギーが強いことに依拠していたのだとバイエルは思い知る。
酷く美しいが造りものめいた、危なげな美貌。
(衰弱している)
バイエルがシルキーを抱きしめるたび、シルキーの身体からふくよかさが減っていくのが分かった。
(人は、果汁と水だけで何日生きることができるのだろう)
頭をよぎった疑問に、バイエルの背中にゾッと恐怖が這い上がってきた。
「少しは食べたほうがいい」とバイエルが言っても、シルキーは力無く首を横に振った。
喋ることすら、立っていることすら彼女はつらいようだった。
しかしバイエルが強く勧めても、シルキーは頑として侍医の診察を受けようとはしなかった。
仕方なく、バイエルは身近な人間に相談することにしたのだった。
✳︎✳︎✳︎
皇族を構成する家の中の一つにロンド家がある。父帝の弟が当主を務めるその家を、バイエルは最初に訪ねた。
「僕の妻の場合はね、重いタイプだったと思うよ」
顔も身体もぷくぷくしたロンド家の当主は、甥であるバイエルの問いにそう答えた。
「あまり食べないタイプだったのに、突然よく食べるようになってね。だから気付きやすかった。何ヶ月も続いたよ」
「どんな物を召し上がっていらっしゃいましたか」
「そうだねぇ……揚げた芋が美味しいと言って、夜中も食べてたな」
「揚げた芋……」
果実水しか受け付けなくなっている妻とは全く違う状態だったらしい。
とすると、妻は何らかの病にかかっていると考えた方がいいのだろうか?
✳︎✳︎✳︎
「そうだとしても、甘えているのです」
バイエルが一人、母后を訪ねて相談した時。
母后は厳しい顔でそう言いきった。
「誰しもそんな時期はあります。ひと月もすれば元通りですよ。寝込むなど大袈裟な。三人の母の私が言うのですから間違いありません。そんなことより再来月の建国記念の式典の準備はできていて?」
母后の声は刺々しかった。
バイエルは、居なくなった兄ソリストを思った。
自分の機嫌を取ってくれていたソリストが居なくなってから、母は周りに攻撃的になった。
鬱憤を晴らすように言い放つ言葉。
本当に周囲に甘えているのは誰なのか。
「貴方達皇太子夫妻が式典をしっかりこなさなければ、皇帝陛下と私が恥をかくのですよ。私はその時期でも仕事をこなしていたのですから、些細な不調を言い訳にせずきちんと仕事をしなさいと貴方の妃に伝えなさい」
長い間ろくに物が食べられず、骨と皮のようにやつれた今のシルキーを近くで見ても、母后は同じ事を言うだろうか。
(言いかねない母だ)とバイエルは諦めに似た気持ちになる。
「母上は」バイエルは言った。
「気分が悪い時期、どんな物を召し上がっていらっしゃいましたか?」
これに母后は眉を上げた。そしてどこか誇らしげに話し始める。
「自分のためではありませんからね、私は勿論普段と変わらない物を食べましたよ。でも……そうね、酸っぱいものが欲しくなった気はするわね」
「酸っぱいもの……」
「レモンをそのまま齧るくらいはできたわ」
母后のこの発言はバイエルに衝撃を与えた。
✳︎✳︎✳︎
シルキーがいる寝室に、酸っぱい匂いが広がっていた。いつもなら爽やかさを感じる香りなのだが。
「要らない。飲めない」
バイエルが料理人に頼んで特別に用意させたというレモンの果実水を、シルキーは掠れた声で突っぱねた。
ベッドの上から動けなくなってどのくらい経ったのだろう。横になると胸焼けが酷くなるので、クッションを使って常に半身を起こして座ったような姿勢でいる。
だが、この姿勢では首が疲れて仕方ない。
ずっと座りっぱなしのせいか、腰も痛む。情けなさで泣けてくる。
(突然、何だろう)
レモンの果実水の他にもレモンの輪切りと丸ごとが、何故かシルキーの前に両方出されている。
夫はこれをどうしろと言うのか。
「これ……」
シルキーは口元を押さえた。
バイエルはシルキーに耳を寄せる。
「見たくない。早く下げてほしい」
ただでさえ胃酸が常に喉元まで上ってきているような感覚だから、更に酸っぱい物を口に入れると堪えられず吐いてしまう。
この数週間で既に何度も嘔吐を繰り返しているシルキーには大体、自分が近づいてはいけない食材が見分けられた。
匂いが強い物、味が濃い物、温かい物、酸っぱい物。それらを目にするだけでも吐き気を催す。
夫は自分を見て、不可解そうな顔をしている。
「シルキー、やはり侍医に診てもらった方がいい。薬で良くなる病かもしれない」
その声がシルキーの胸に突き刺さるようだった。
(予感がするの)
「嫌」
シルキーは首を横に振る。
「シルキー」バイエルの声に厳しさが宿る。
(これは私達を変えてしまう)
「嫌……」
「侍医を呼ぶ。大人しく診てもらうんだ」
バイエルは有無を言わさず家令を呼び、侍医を皇太子夫妻の部屋に呼び出した。
しかし、シルキーもシルキーで最後の抵抗をした。
夫が目を離した隙をついて、侍医から逃げることにしたのだ。
✳︎✳︎✳︎
「恐れながら殿下」
皇太子夫妻の部屋に駆けつけたはずの侍医は、困り顔でバイエルの執務室を訪ねてきた。
「どうした」
「妃殿下が、その……逃げ回っておられます」
「は?」
シルキーが寝込んでいる寝室に侍医を呼び、バイエルは外せない重要な仕事があったため執務室に移動した。
どうやらバイエルが居なくなったあと、シルキーは寝室から脱走したらしい。
(あの身体で?)
不健康に痩せ細り、気力も無くしたシルキー。一体どこに逃げ出す体力が残っていたのか。
歩くのはおろか、立つのもやっとのはずだ。だから逃げる心配もないと思って離れた。
(嫌がりすぎだろう)
逃げたからと言って何かが解決するわけでもないだろうに。妻の往生際の悪さに頭を抱えてしまう。
バイエルは最悪の事態を想像した。
幼い頃の自分が可愛がっていた白猫の最期の姿がチラチラと頭に浮かぶ。
(猫は)
バイエルは白猫が好んだ場所を思い出す。
(高い場所が好きだ)
✳︎✳︎✳︎
シルキーは宮殿の片隅にある塔の壁を登っていた。
久しく登っていない壁は、いつもと変わらず自分を受け入れてくれた。
全身の筋肉が久しぶりに壁を登る刺激に歓喜している。平面を歩く時と違う負荷が、シルキーに活力を与える。
(生きてるって感じ!)
見上げた空は雲一つなく澄み切って穏やかだ。
(なんだ、私もこの塔も変わらない)
そんな風に安心して、油断してしまった。
シルキーは自分の重心が以前と変わっている事に気付かず、高所で足を踏み外した。
「シルキー!!」
誰の声だろうと思った。
普段物静かな夫が叫んだ声だと理解した時には、シルキーの身体は完全に宙に投げ出されていた。
何も掴めない。
時の流れが永遠のように遅く感じる。
自分はこのまま死ぬのだろうか。
(前にも落ちたな……)
あの時はソリストが助けてくれた。
でも今はもう彼はいない。
(巻き込んでしまった)
唐突に、誰かに猛烈に謝らなければいけない気がした。
(ごめんね)
ガサガサガサガサ!!
という音と共に、シルキーは何かに掴まれ柔らかい物の上に落ちた。
そして。
「お前は死ぬつもりか!!」
耳元で怒鳴られる。
自分が下敷きにしたのは夫のバイエルで、彼はシルキーを抱きしめたまま塔を囲うようにあった植え込みに倒れ込んだらしい。
「シルキー……?」
バイエルの戸惑った声が聞こえる。
シルキーは自分の腹部を両手で押さえて呆然としていた。そこを、無意識に衝撃から守るように抱え込んでいた。
シルキーが驚いたのは珍しいバイエルの怒声でも、自分の無意識の行動でもない。
シルキーが心の中で謝った時、それに微かな力で応えた存在がいた。
自分の内側から。
「……うごいた」
涙がこぼれた。怖くて。不安で。心が震えて。光が世界中に弾けるようで。
その存在は、自分はここにいると今もシルキーに伝えてくる。
「死んでない」
自分も、この小さな存在も。
バイエルはシルキーを羽を抱くように包み込んだ。
「頼むから、もう壁には登らないでくれ」
「……分かった」
「走るのは良いが、ほどほどに」
「うん……」
「あと」
バイエルはシルキーを叱るような顔で見つめた。端正な顔で睨まれると、シルキーでもピリッと緊張してしまう。
「ちゃんと侍医に診てもらえ」
「……」
「大丈夫だ。何があってもお前を離さないから、怖がるな」
シルキーはバイエルに抱きついて頷いた。
✳︎✳︎✳︎
バイエルとシルキーの結婚から、長すぎる年月が流れていた。帝国民達の間には、バイエルの御子の誕生を諦める空気ができあがりつつあった。
そこにきて発表された、皇太子妃シルキーの懐妊。
オルヴェル帝国の民達は喜びに沸いた。
シルキーを診た侍医は、
「悪阻でしょうね。今は口にできる物を摂れば良いですよ。今後は少しずつ楽になっていくはずです」
と言った。
周りで聞いた悪阻の話とシルキーの状態が違うことをバイエルが話すと、侍医は苦笑して言った。
「悪阻の形は人それぞれ違います。『酸っぱい物が食べたくなる』と世間では言われますが、中には土や氷が食べたくなる人もいますよ」
「土……」
バイエルは人体の不思議に再び衝撃を受けた。
「悪阻がほとんど無い方もいれば、妃殿下のように動けなくなるほど弱ってしまう方もいらっしゃいます。悪阻の期間も、数週間の方もいれば産むまで続く方もいます」
「産むまで……」今度はシルキーがショックを受けていた。
「水を飲んでも吐いてしまうようだと点滴が必要ですが、水を少しずつでも摂れているならひとまず安心です」
(こんなに痩せていてもか)
シルキーが塔から転落した時、バイエルはシルキーを受け止めた。シルキーが骨が浮き出るほど痩せて軽くなっていたから、二人とも怪我無く済んだと思っている。
「何にせよ、悪阻が原因で出産前に命を落とすご婦人もいるので、周囲はくれぐれも妃殿下に無理をさせないことと、医師による定期的な診察と管理が必要です。身体の負担もさることながら、精神的に非常に不安定な時期が、これから産後2年くらいまで続きます。殿下はサポートをしてあげてくださいね」
(知らなかった)
出産時の苦しみは有名だが、子が生まれる前に死に瀕する女性達の存在を知らなかった。三回の妊娠出産を経験した母后も、シルキーの苦しみ様を聞いて大袈裟と鼻で笑った。
大丈夫、心配要らない。病気ではないのだから、様子を見ていればじきに良くなると周りに言われるがまま、バイエルもどこかでそうだろうと考えていた。
理由をつけて安心しようとしていた。
「ご質問はございますか?」
侍医の言葉に「あの」とシルキーが口を開く。
「壁にのぼりた……」
「シルキー、それはダメだと言ったはずだ」
バイエルは容赦なく遮った。
(本人がこんなだから、周囲も適切な対応が遅れる)
シルキーは以前、子供がほしいと言ったことがある。
子を望んでいる女性にとってーーーシルキーにとって妊娠は幸せでしかないこと。
そんな勝手な思い込みをバイエルも持っていた。
しかし血の気の失せた顔をした妻を見ていると、手放しで喜べない。祝えない。
自分の身体の内側でもう一人の人間を育てるのが、簡単な訳が無い。幸せの一言だけで片付けられる訳がない。
明日また来ます、と言って侍医は寝室を辞した。
「シルキー」
バイエルはベッドの近くに置いた椅子に座った。
シルキーの顔色は相変わらず悪いが、最近長く見かけなかった穏やかな表情をしている。
(逃げ回っていた猫が観念したようだ)
「撫でてもいいか?」
シルキーは一瞬何を言われたか分からないようだったが、こくりと頷いた。
✳︎✳︎✳︎
バイエルに名前を呼ばれた時、いつもの説教が始まるのかとシルキーは身構えた。
しかしその予想は裏切られた。バイエルはシルキーのお腹に触りたいらしい。
「もっと早く」と、シルキーの腹部に恐る恐るという様子で手を載せて夫は呟いた。
「首根っこを掴んででも医師に診せるべきだった」
細くなった他の部分とは逆に、以前より心持ち膨らんだ下腹部。
我ながら身体のバランスが奇妙だと思う。
「穏やかじゃない言い方ですこと」
「死ぬかもしれない状態なんだ。穏やかでなくて当たり前だろう」
「でも、死んでないんだから」
「干物のように痩せた人間に言われてもな」
「干物」
元気な状態であれば怒って言い返していただろうけれど、今のシルキーはバイエルの言葉を神妙な顔で繰り返すだけで精一杯だった。
「こんなに危険なことだと分かっていたら、子供など……」
「バイエル」
シルキーはバイエルの手に自分の手を添えた。
「何を怖がってるの……?」
バイエルは藍色の目を見開いた。
「何が怖いの?」
シルキーはもう一度問いかける。
バイエルは突然シルキーの手を引いてその小柄な身体を抱きしめた。彼の手が震えている。
「お前を失うかもしれないことが、怖い」
シルキーは予想外の言葉に目を丸くした。
「それは……」
シルキーはバイエルの背中に手を回す。
「私も同じ」
鼓動が聞こえる。夫の心臓の音。
「前に、子供ができなくなる薬を飲んでしまった時のことを覚えてる? 私、本当に悲しかった。私は貴方のことが大好きで、大好きで」
(貴方のそばは陽だまりのよう)
「貴方の子供が欲しかった。貴方がこの世からいなくなる時、世界に貴方の気配が何一つ残らなければ、私は多分二度と立ち直れない。一人ぼっちで、怖くて寂しくてつらい」
バイエルの藍色の目をまっすぐ見つめてそう言ったシルキーから、バイエルは慌てたように目を逸らす。
その頬が赤くなっていた。
珍しく彼の動揺が見え、シルキーは少ししてやったりという気分になる。
そう。お腹の子の存在は、シルキーが心の底から望んでいたことだ。きっとバイエルだって望んでいた。
愛する人の分身のような存在。
「望んでいたことなのに怖気付いてしまったのは、私も同じ」
長い年月をかけて築いたバイエルとの関係は、シルキーにとって酷く居心地が良くて。
何より大事でお気に入りで、いざそれが壊れて、変わってしまう予感を感じた時、逃げ出したくなるほど怖くなってしまった。
新しい関係を築いていくことに自信が持てなかった。
「何も怖がらないのは難しいわ。でも闘いましょう、バイエル。この不安と闘うの。二人で」
『夫婦』から『親』に、その関係が変わっても、共に闘うことはできるだろう。
数年前の騒動を夫婦で闘い切り抜けた、戦友のような私達ならきっと。
「私はこれから変わっていく。多分、貴方も変わる」
在り方も、二人の関係性も。
シルキーはきっと今までより更に怒りっぽくなるし、ケンカも増えるだろう。
「バイエル。ずっとずっと、私とこの子を、好きでいてくれる?」
シルキーは不安げに尋ねた。
バイエルはしばし息を呑んだ後、今までシルキーが見たことがない、さまざまな感情が入り混じった笑顔を見せた。
「ああ、約束する」
「ふふ」
シルキーは思わず微笑んだ。
怖かった。
あんなに怖くて逃げていたのに、彼の言葉と表情一つ一つがシルキーの恐怖を消していく。
ーーー『大丈夫だ。何があってもお前を離さないから、怖がるな』
恐怖が完全に無くなった訳じゃない。
出産に対する恐怖はまだ変わらずある。
(でも)
「私は後悔しない。この先何があっても。バイエルの子供だもの、この子はきっと頼りになる子よ」
「……さっきは悪かった」
バイエルはシルキーのお腹に語りかけた。
「俺達の元に来てくれて嬉しい。元気に生まれてくるのを待っている」
きっと本人にその自覚は無かったのだろう。その時のバイエルの顔はいつになく幸せそうにゆるんでいて、シルキーはくすぐったい気持ちになった。
そしてシルキーはふと、厄介なことを思い出した。
「アルザスのお母様に報告してなかった」
通称“アルザスのお母様”ことシルキーの実の母親であるアルザス公爵夫人は、シルキーの懐妊を強く待ち望んでいた一人だ。
今頃、シルキーではない情報筋からシルキーの妊娠を知り、何故自分に一番に相談や報告をしないのかと怒り狂っていることだろう。
「面倒くさいな」
思わず本音が漏れる。今のげっそりシルキーに元気な人間達を気遣う余裕など無い。
アルザス家からの急使が到着したのは、この直後のことだった。
✳︎✳︎✳︎
アルザス公爵夫人はシルキーの予想通り、シルキーへの手紙で怒りまくっていた。
そしてその手紙の終わりに『初めての妊娠出産なのだから、公爵家へ里帰りをして出産を』と書いてあった。
これに当のシルキーは抵抗し、伝統に従い、夫がいるヴェン・フェルージュ宮殿で産むと主張。
両者が真っ向から対立する中シルキーの悪阻が続き、産み月が迫る中でシルキー側が折れた。
実母の圧力に耐えられる気力がシルキーに残っていなかったのもあるし、バイエルとしてもシルキーがアルザス家に一旦帰るのは賛成だった。
バイエルの母后は、シルキーの妊娠が公になっても彼女に辛辣な言葉を浴びせるのをやめない。シルキーもまた体調が完全に回復せず余裕がないのもあってか、母后に批判されるたび言葉で反撃をする。そしてその態度を母后が更に糾弾する泥沼の様相だった。
バイエルは母后を何度か諌めたが、どうやらバイエルがシルキーを庇う程、母后はシルキーが憎らしくなるらしい。
アルザス公爵夫人は、公務で忙しいバイエルの代わりに母后からシルキーを守る強力な盾になってくれるだろう。
バイエルから離れたがらないシルキーには裏切り者扱いをされたが、バイエルなりに最善を考えてのことだった。
「シルキー。必ず会いにいくから待っていろ」
アルザス公爵家へ向けてヴェン・フェルージュ宮殿を出立する馬車の前で、臨月が間近に迫るシルキーはバイエルと別れた。
その首元に樹脂でできたカーネーションが咲き誇る。バイエルが以前シルキーに贈ったチョーカーだ。
シルキーの悪阻は続いていたが、果実水以外何も喉を通らなかった一時期に比べるとだいぶ回復していて、妊娠前の半分くらいの量なら固形物も食べられるようになっていた。
大きくなった腹部を重たげに支えて歩く妻の手足は相変わらず細く痩せている。
妊娠していない人間が摂る食事量も摂れていないのに、シルキーの身体の中で赤子は順調に大きくなっているらしい。
(それだけ、母体に負担がかかっている)
「病気でもないのにつらいフリをして」
「もう安定期なのだから公務に復帰を」
と母后は執拗にシルキーを責めるが、悪阻の時期でも普段と変わらない生活を送れていた母后には、結局のところ侍医の説明があっても重い悪阻の苦しみを理解できないのだろう。理解しようと言う姿勢も無い。
シルキーはここ2、3ヶ月、顔色こそ戻ってきたが、眩暈と疲れやすさは取れず宮殿内で数度倒れた。侍医が言うには、赤子が身体の中で大きくなるにつれ必要となる血液の量が増えて、この時期母体の血液は『薄まる』のだそうだ。貧血である。
栄養を摂ろうにも、シルキーの場合は身体が受け付ける食べ物の種類や量が限られているから、すぐには良くならない。
バイエルはシルキーの腹部にそっと触れる。
腹の子は元気にバイエルの手を蹴った。
(シルキーにはこの子がついている)
「闘おう、それぞれの場所で」
曇った表情のシルキーに口付けて、バイエルは馬車を見送った。
離れるのが不安なのは自分も同じだ。
出産時に母子が亡くなった話をバイエルは何度か聞いたことがあった。
もしシルキーが出産で命を落としたらと考えると、足がすくんで動けなくなる。
ーーー『闘いましょう、バイエル。この不安と闘うの。二人で』
その先にある、本当に欲しいもののために。
(どうか無事で)
シルキーがアルザス家に向かってから、二度目の満月の日だった。
アルザス家から早馬で、予定より少し早いバイエルの長男誕生の知らせがヴェン・フェルージュ宮殿に届けられた。
✳︎✳︎✳︎
アルザス家は皇都から離れた場所にある。
知らせを受けて数日後にアルザス家に駆けつけたバイエルが見たのは、ベッドの上で警戒心をバリバリと露わにしたシルキーの姿だった。
「ぅゔうぅぅ……」
低く唸るような声まで聞こえる。
(いつにも増して獣じみている)
仔猫を産んだばかりの母猫が威嚇するように、シルキーは赤子を誰にも抱かせない。
手紙からシルキーの母が困り果てた様子が伝わってきていたが、事態は思うより深刻だった。
うっかり手を差し出したらバイエルでもシルキーに噛みつかれそうだ。ギラギラ血走った目が怖い。
母親の緊張や警戒が伝わったのか、腕の中の赤子がむずかり弱々しく泣き始める。
バイエルはシルキーを怖がらせないよう、慎重に声をかけた。
「シルキー、久しぶりだな。眠れているか?」
シルキーはつとバイエルを見上げた。きつかったその眼差しが緩み、涙が浮かぶ。
「会いたかった」シルキーが呟いた。
「……うん」
「寂しかった」
「……触っても構わないか?」
「この子に?」
「お前に」
シルキーの警戒がゆるりと解ける。
「うん。いい」
その安堵するような反応から、シルキーの心身を一番に気にかける人間がアルザス家にすら居なかったことが窺えた。
バイエルは皇宮に届いたアルザス公爵夫人からの手紙の文面を思い出す。
『皇子殿下が無事にご誕生』
『皇子殿下のお顔は美しく』
『ぜひ皇子殿下の顔を見に』
『ところで皇子殿下の名前は……』
『皇子殿下を離そうとせず』
アルザス家にとってシルキーは、大事な娘である前に政治的に重要な駒だ。
シルキーが産んだ皇子は妃であるシルキーよりも使える駒だろう。順調に育てば、バイエルの後を継ぎ、この帝国を支配する皇帝になる。
アルザス家から皇帝が出る。
きっとアルザス家の者達はその喜びに目が眩んで、シルキーの孤独が見えなくなってしまっている。周りは赤子にしか興味が無いのだ。
これでは『産んだら用済み』と言わんばかりだ。
頬を撫でると、シルキーは気持ち良さげに目を閉じた。
「無事で良かった」
バイエルが言うと、シルキーは目を閉じたまま微笑む。
日向ぼっこを楽しむ猫のようだとバイエルは思う。
「抱っこしなくていいの?」
シルキーが囁くように尋ねると、バイエルは視線を彷徨わせた。
「正直に言うと、少し怖い」
「怖い?」
「落としてしまいそうで」
「あら……不安や恐怖とは二人で闘うんじゃなかったの?」
シルキーは強引に、バイエルに赤子を押し付けた。
想像よりもずっと小さく柔らかい生物だった。
「ま、待て。抱きかたが分からない」
バイエルが慌てると、シルキーはクスクス笑う。
「首が座ってないうちは、頭と首の後ろを片方の手でしっかり支えてあげるのよ。もう片方の手で身体全体を支えて」
「一度に言われても無理だ!」
先程から二人に挟まれて赤子がにゃあにゃあと泣き続けている。
「猫のような泣き声だな」
「猫は、好きでしょう?」
「……そうだな、嫌いじゃない」
シルキーは赤子に語りかけた。
「お父様ですよ」
赤子の体温は心地よく、バイエルが抱いたまま少し揺らすとハッとしたように泣き止んだ。
赤子の深い青の瞳が興味深そうにバイエルを捉える。
キラキラ光るその瞳にじっと見つめられた時、じんわりと胸に熱いものが込み上げ、広がった。生まれて初めて知るその感情は、とめどなく押し寄せてきて抑えられない。
この子供が生まれてくるまでの事の顛末が一気に頭を駆けめぐる。
「シルキー……ありがとう」
シルキーが驚いたような顔でこちらを見ていた。
「嬉しい。この子が生まれてくれて。産んでくれて、ありがとう……」
声が震えて上手く言葉になっていたかも分からない。
妻は返事をする代わりに、照れたように笑った。
✳︎✳︎✳︎
(多分)
「シルキー……ありがとう」
(彼のこの顔が、私の一生で一番のご褒美だわ)
「嬉しい。この子が生まれてくれて。産んでくれて、ありがとう……」
バイエルは泣いていた。
涙をはらはら流しながら、優しく微笑っていた。
✳︎✳︎✳︎
『シンフォニー』と名付けられたバイエルとシルキーの子供は、二人が暮らす皇宮ではなく、シルキーの実家であるアルザス公爵家の屋敷で育てられることになった。
そして公爵夫人は、シルキーには、身体が落ち着いた頃に一人皇宮に帰れと言う。
バイエルもシルキーも反対したが、公爵と公爵夫人は譲らなかった。
表向き、公爵達の言い分はこうだった。
廃太子ソリストの第一子であるフーガ皇子は、皇宮ヴェン・フェルージュ宮殿内で殺害されたと言う噂がある。
フーガ皇子の死からまだ数年しか経っておらず、今現在、皇宮はシンフォニー皇子にとって安全とは言えない。シンフォニー皇子は、かつてのフーガ皇子と同じ、皇太子の第一男子という立場だから尚更のこと。
命を狙われる危険からシンフォニー皇子を守れるのは、アルザス公爵家だけ。大事な孫であるシンフォニー皇子を、アルザス公爵は命に換えても守る、と。
アルザス家は元を辿れば皇室だ。シンフォニーが皇帝になるための教育も私達に任せて、皇太子ご夫妻は安心して公務に集中してほしい。と公爵は付け加えた。
しかしアルザス家の本当の目的は、『アルザス家育ちの皇帝』の輩出だ。アルザス家の血を引き、アルザス家を贔屓し、アルザスのために動く、アルザス家の傀儡皇帝を育てる。
バイエルもシルキーもそれは理解していたが、シルキーに冷たいバイエルの母后がシンフォニーに対してどう出るかも分からない上、公爵達の圧力は強かった。
シンフォニーが10歳になるまで。
それを条件に、二人はアルザス家の提案を受け入れた。
「今から壁を登りますわ」
シンフォニーをアルザス家に預けることを決めた時、シルキーは目を据わらせてそう言った。
「良いな。同行しよう」
バイエルの言葉に、シルキーは目を丸くする。
「どんな風の吹き回し?」
「壁に登りたい気分になっただけだ」
実際バイエルは酷く腹を立てていた。臨月が迫ったシルキーをアルザス家に預けたのは、我が子を奪われるためではない。
アルザス家に関われば分かる。シルキーが何故、壁登りを趣味にしていたか。
空だけを見て一心に、体を動かす。
地上の声など無いものにして。
危険だと何度止められても、登りたくて仕方なかったのだろう。
現実に壊されそうな心を守る、彼女なりの逃避法だったのだ。
産後のシルキーが無理をしないよう見張っておきたい気持ちもある。たまには彼女の趣味に付き合うのも良いだろう、と、バイエルは妻と共に、アルザス家の塔(シルキーのお気に入りの壁がある)へ向かった。
✳︎✳︎✳︎
アルザス家の敷地にある白い塔の上にて。
「壁を登ったことなどなかったが……存外、気分が良い」
バイエルは汗を拭ってシャツの一番上のボタンを外した。着崩したバイエルは珍しく、少し艶っぽい。
その横に座っていたシルキーはしばしぼんやりした。
夫が初めて一緒に壁登りをしてくれたのが嬉しいし、満更でもなさそうなのがもっと嬉しい。
「空が綺麗だ」
バイエルは青空を見上げる。
「バイエルもとうとう分かってくれた!? 空の景色と、この背中の筋肉への負荷がたまらないの!」
シルキーは興奮して顔をバイエルに寄せる。
バイエルは苦笑した。ここ数年、バイエルがシルキーによく見せるようになった困ったような笑顔だ。
シルキーはバイエルのこの優しい表情が好きでたまらない。
「昔、白の姫君がここから落ちてきたのを、今でも覚えてる」
「私も、バイエルに手当してもらったのを覚えてる」
「あの時はソリスト兄上に少し嫉妬した」
「え……」
バイエルはシルキーの頬に唇を寄せて囁く。
「あの頃、お前には兄上しか見えていなかったろう?」
「気にしてたの?」
(そんな風には見えなかったけど……)
「多分、周りが思うより」
バイエルはシルキーと目を合わせる。
長い指がシルキーの頬をなぞり、藍色の瞳が鋭さを帯びる。
「独占欲は強い方だ」
シルキーは素早くバイエルから距離を取った。
よく分からないが身の危険を感じた。
「おいでシルキー、何もしないから」
「そんな猫みたいに呼ばれても!」
バイエルはシルキーに近づき、優雅にその手を取った。
「お前とシンフォニーの手を、離すつもりはない」
シルキーは自分の手の甲に視線を落とす。
「お父様も、お母様も」
シルキーの白銀の髪が風に巻き上げられる。
「シンフォニーを大事にしてくれるわ。きっと。でも賢い子である程、お父様達の狙いに早く気付いてしまうかもしれない」
シルキーはそれが怖い。
成長したシンフォニーが自分のように傷つくのが怖い。
バイエルはシルキーの髪を撫でながら言う。
「たくさん会いに来よう。よく見てやろう。そして翳りが見えたら」
「見えたら?」
「攫ってしまおう」
シルキーは目を点にした。夫にしては雑な計画だ。
「シンフォニーが壁に登り始めたら、危険信号だな」
シルキーは唇を尖らせた。
「でも貴方の方に似ていたら、周りの思惑を全部飲み込んで、利用してしまうかも」
「それは頼もしい」
バイエルは、シルキーにだけ聞こえる声で囁いた。
「俺達の子供だ。アルザス家くらい乗りこなしてもらわねば」
結局のところ、バイエルは我が子シンフォニーの力を信じる方に賭けたのだ。
シルキーはそれに思い至り、深く息をついた。
これではアルザス家と皇室の騙し合いだ。
「帰る前に、沢山抱きしめておかないと」
バイエルの呟きに、シルキーは頷いた。
「そうね。しばらく会えないんだから」
(シンフォニーの顔をいっぱい覚えて帰ってほしい)
そんなことを考えていたからシルキーの反応は遅れた。
「じゃあ」
と、バイエルはシルキーから少し離れ、妻に向かって両手を広げた。
「?」
「飛び込んでこないのか?」
「……私?」
「お前もしばらく帰ってこないだろう」
夫は悪戯っぽく笑んでいた。
シルキーは少し低い体勢を取った後、助走をつけて地面を蹴って高く跳び、夫に抱きついた。
ドレスの裾が宙を舞う。
シルキーはバイエルに強く抱きしめられた。
「愛してる。誰よりずっと」
その声に答える代わりに、シルキーは夫の頬に口付けた。
✳︎✳︎✳︎
皇帝として即位したバイエルと皇后となったシルキーが、公務の合間を縫ってシンフォニーの様子を見にアルザス家を訪れた日。
「シンフォニーはシルキーに似ている」
庭を散策中のシンフォニーを見つけて、バイエルは呟いた。
今日、両親が来ることを知らない少年は、屋敷の庭でのんびり虫や花を眺めている。
バイエルの即位と同時に皇太子となった息子のシンフォニーは五歳になっていた。
シンフォニーの柔らかい茶色の髪と紺色の瞳は恐らくアルザス公爵夫人譲りだが、目鼻立ちはシルキーによく似ていた。
一目見た者を虜にしてしまう愛嬌のある顔立ち。形の良い瞳。
(愛らしい)
バイエルは自分が知らない幼い頃のシルキーの姿を想像させてくれるシンフォニーを見るのがいつも楽しみだ。
「また大きくなったな」
遠くから声をかけられて、シンフォニーはキョロキョロと周りを見渡した。
「おいで、シンフォニー」
バイエルは愛息のシンフォニーに向かって手を広げた。
父を見つけたシンフォニーは目を丸くしたが、すぐに笑顔を弾けさせた。「はあい!」と元気に応えるとバイエルの腕に飛び込む。
バイエルに目線の高さまで抱え上げられるシンフォニー。
すると、シルキーがシンフォニーごとバイエルを抱きしめる。
「とうさま! かあさま!」
間に挟まれたシンフォニーが、二人に潰されながら嬉しそうに笑う。
「久しぶり! 元気だった?」
シルキーが問いかける。
「うん!」
「壁に登ってはいないか?」
「かべ?」
バイエルの問いに、シンフォニーは首を傾げる。
「まだ大丈夫そうだな」
その横でシルキーがむくれている。
優しい陽の光が差しこむアルザス家の庭園を、蝶が飛び交っている。
「とうさま、いつ、いらしたのですか? もんまで、おむかえに、いきたかった」
シンフォニーはたどたどしく言葉を紡いだ。
バイエルはシンフォニーと額を合わせて言った。
「可愛い息子を驚かせたかった」
「おどろきました。ふふっ」
はにかんだ笑顔を見せるシンフォニーを、バイエルはたまらずぎゅっと抱きしめる。
兄ソリストが失った幸せを思う。
(守れるだろうか)
ーーー『闘いましょう、バイエル』
シルキーの声が耳に蘇る。
死地で背中を預けられる戦友のような、ずっと撫でていたい小さな獣のような、自分の妻。
「この子のために闘おう、シルキー」
傍らのシルキーはバイエルの突然の言葉に驚いたようだったが、やがて穏やかな笑みを返した。
静かだが強さを感じさせる笑顔だった。
「ええ」
忙しい仕事の合間に許された束の間の家族の時間を、三人は陽だまりの中で過ごした。
✳︎✳︎✳︎
その後、麗しくしたたかな青年に成長したシンフォニーは、バイエルの母である皇太后を含む皇宮の女性達をことごとく虜にしてしまう。
シンフォニーは皇宮においては父バイエルの右腕に、母シルキーの盾になった。
母譲りの美貌で微笑んだシンフォニーが「お祖母様」と呼ぶだけで、皇太后はシルキーへの嫌味を言えなくなってしまうのだが、それはまだ先の話。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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※長編小説「ノスタルジア」では、バイエルとシルキーの子供達が冒険や恋をし、成長します。
この世界に興味を持たれましたら、是非そちらもご覧ください。(現在第三編まで公開中)