僕だけの秘密
僕だけの秘密
佐藤健太は、鏡に映る自分の顔を「落書きのよう」だと認識していた。地味で、お世辞にも格好いいとは言えない。根深い自己肯定感の低さは、過去のいくつかの経験によってさらに確固たるものとなっていた。「自分は誰からも好かれるはずがない」という強固な信念が、健太の心を深く覆っていた。そんな彼にとって、学年で一番の美少女、星野美咲は、まぶしすぎて直視できない存在だった。住む世界が違う、あまりにも遠い場所の人間だと、健太は思っていた。
美咲は、その美しさゆえに常に注目され、上辺だけの親切や下心のあるからかいにうんざりしていた。人の表面的な評価ばかりが先行し、うんざりする日々だった。そんな美咲の目に留まったのが、健太の無意識の優しさだった。
健太は、誰かがプリントを落とせばさりげなく拾い、重い荷物を持っている人がいれば一瞬だけドアを開けて通り過ぎる。それは、誰にでも、ごく自然に行っている、健太にとっては何でもない行動だった。彼自身には特別な意図も、人助けをしたという自覚も一切なかった。しかし、美咲は知っていた。多くの人が見過ごす中で、健太だけが静かに、しかし確かに、困っている人に手を差し伸べていることを。彼の飾らない、本質的な優しさは、美咲の心に特別な輝きを放っていた。美咲は、健太が他の人には見せない、不器用な優しさを持っていることに気づいていた。クラスで孤立している生徒に、誰よりも早くプリントを回してあげたり、雨の日に小さな子犬を濡れない場所にそっと移動させたり。そんな健太の姿を、美咲は偶然何度も目撃していた。だからこそ、美咲は、自分にそっとペンを置いてくれた時も、あれは彼の本質的な優しさなのだとすぐに分かったのだ。
美咲はその純粋な心に惹かれ、健太に歩み寄ろうと努めた。ある日、「さっきはありがとう。健太くん、優しいね」と、美咲は健太に声をかけた。その眼差しは、他の誰にも向けない、少しだけ真剣なものだった。健太に話しかける時、美咲はいつもより少しだけ、呼吸が浅くなるのを感じていた。他のクラスメイトに話しかけるような軽さではなかった。しかし、健太は目を合わせず、「いえ、別に…」と素っ気なく答える。健太は、美咲が誰にでも優しいことを知っていたからこそ、「なぜ、あんなに自分とは住む世界が違う美人が、不細工な自分に、わざわざ関わろうとするのか?」という疑問を抱いた。彼は、その答えを「きっと、僕がからかいやすいからだろう。僕の不細工な顔を見て、反応を楽しんでいるに違いない」と、最悪の形でしか見つけられなかった。
美咲が健太に話しかけるたびに、周囲の男子がひそひそ笑う声や意味ありげな視線が健太をさらに追い詰めた。「ほら、やっぱりみんな僕を笑ってる。美咲さんも、僕を笑い者にしている一員なんだ」と健太の疑念は確信へと変わっていく。健太は、自分の行動に価値を見出せないため、他者にとってそれが助けになったとしても、「大したことない」「誰でもできること」と過小評価し、すぐに忘れてしまう。まさか、そんな些細な、意識にも残らないようなことが、美咲の目に留まり、彼女が自分に興味を持つ理由になっているとは、夢にも思わなかった。
美咲に好意を抱く野村裕司は、美咲が健太に関心を向けることに嫉妬を募らせた。野村は友人である田中翔太と共謀し、クラスのグループチャットや陰口で「健太は美咲の悪口を言っていた」「美咲の気を引こうと嘘をついている」といった根も葉もないデマを流し始めた。これらのデマは健太の耳にも入り、彼の誤解をさらに深めた。
美咲は健太の態度が冷たいことに気づき、心配を募らせる。「何か悪いことしちゃった?」「どうしたら彼に伝わる?」と、より具体的に健太に話しかけようと努力する。しかし、健太は美咲の好意を「からかい」と断定し、目を合わせず、短い言葉でしか返さない。美咲が彼のために何かをしようとしても、「いりません」「迷惑です」と無下に拒絶したり、その場を離れたりする。健太の執拗な拒絶に、美咲は自分の善意が全く届かないことに途方に暮れ、ついには無力感を覚えた。美咲は、自分が何をしても健太の心の壁が崩れないことに、途方に暮れた。「私、何か彼を怒らせた? それとも、嫌われるようなこと、したかな…?」そんな自己嫌疑が、美咲の心を重くした。彼の態度が、自分のこれまでの人間関係の常識を覆す、理解不能なものだったからだ。しかし、放課後、親しい友達とのおしゃべりや、好きな音楽を聴いている時には、彼女はいつもの明るい笑顔を取り戻した。健太くんのことで悩む時間があっても、それは彼女の心の一部分を占めるだけで、美咲自身の輝きが失われることはなかった。
健太の度重なる拒絶と、自分の努力が全く報われない現実に、美咲は健太に話しかけるのを一旦やめた。彼女はこれ以上健太を困らせたくない、あるいは自分も傷つきたくないという思いから、距離を置く選択をする。その胸には、諦めと呼ぶには熱すぎる、言いようのないもどかしさが残っていた。彼の無自覚な優しさを知っているからこそ、本当に嫌われているとは思いたくなかったのだ。
美咲の声が聞こえなくなり、彼女の視線が完全に自分から遠ざかったことで、健太はこれまで感じたことのない喪失感と孤独に苛まれるようになった。健太は、あんなに明るく、いつも誰にでも笑顔を見せていた美咲の顔に、『いつもの笑顔』がないことに気づき始める。以前のような弾けるような笑顔が減り、時折、遠くを見つめるような憂いを帯びた表情を見せるのだ。「なぜ、あんなことを言ってしまったのか。自分がその優しさを、最も汚い形で踏みにじったのだ」と、後悔と自己嫌悪の嵐が彼を襲う。美咲の『いつもの笑顔がない』様子を思い出し、それが自分の仕業だったことに、健太は何とも言えない複雑な感情の渦に飲み込まれた。
放課後、健太が忘れ物を取りに教室棟へ戻るため、昇降口を通りかかった。その時、少し先に、美咲が部活の荷物で両手が塞がり、重そうにドアの取っ手を見上げているのが見えた。まるで、あの時のデジャヴュだった。以前の健太なら、目を逸らし、その場を立ち去っていたことだろう。
しかし、今日の健太は違った。彼の足は、美咲のもとへと自然に動いた。彼女に気づかれないよう、ごく自然な動作で、健太はそっとドアに手をかけ、ゆっくりと大きく開いた。美咲は、ドアが開いたことに驚いて顔を上げた。その顔には、いつもの輝くような笑顔ではなく、まだ少しだけ影が宿っている。健太は、美咲が通るのを待って、ドアを押さえたまま、美咲の目を真っ直ぐに見つめた。
美咲は、戸惑いと感謝が入り混じった目で健太を見た。そして、ゆっくりと口を開いた。「ありがとう、健太くん。あの時も…」その言葉を聞いた瞬間、健太は深く息を吸い込んだ。以前、美咲が自分に「ありがとう」と言った時、自分がどんなに冷たく返したかを思い出す。あの時の「迷惑です」という言葉が、美咲の「いつもの笑顔」を奪ってしまったのだと、今の健太には痛いほど分かった。健太は、震える声で言った。「…迷惑、じゃない」。美咲の目が見開かれた。健太は、さらに言葉を紡いだ。「俺、あの時、美咲さんのこと、からかってるって、勝手に思い込んでて……。本当に、ごめんなさい。俺の、勘違いで…、美咲さんのこと、傷つけてたなんて、思ってなくて……、ごめん」。言葉を選びながら、健太は頭を下げた。
美咲の目から、大粒の涙がはらはらとこぼれ落ちた。だが、それは、悲しみや絶望の涙ではなく、凍り付いていた心がゆっくりと溶けていくような、温かい、そして安堵の涙だった。美咲は、健太のその言葉が、ずっと届かなかった「本当」の気持ちであると理解し、初めて、彼の前で心からの笑顔を見せた。その笑顔は、これまでのどんな笑顔よりも、健太の心に深く響いた。
「ううん、違うの…」美咲は、少しだけ声が震えていた。「あの時、私が重い荷物でドアを開けられなくて困ってた時に、健太くんが、何も言わずに、こうしてドアを開けてくれたの。その時、私、本当に嬉しかったんだよ」美咲の言葉に、健太は目を見開いた。その日のことなど、健太の記憶にはほとんど残っていなかったはずだ。「そういえば、そんなこともあったな」という程度の、取るに足らない記憶だった。美咲だから助けたわけではない、ごく自然な行動の一つだった。しかし、美咲は、その日の状況を鮮明に覚えていて、心から「嬉しかった」と告げている。自分の無意識の行動が、こんなにも誰かの心を温めていたなんて。そして、美咲が「自分みたいな、取るに足らない存在」に、わざわざ声をかけてくれた理由が、この「嬉しかった」という純粋な感謝だったのだと、健太は初めて明確に理解した。これまで、美咲の優しさを「からかい」だとしか思えなかった彼の心に、ようやく「本当に自分を見てくれていたのだ」という、温かい光が差し込んだ。
美咲の言葉は、健太の心に深く響いた。彼は、これまで自分を卑下し、誰かの優しさを「からかい」としか受け取れなかった自分の心が、美咲の純粋な感謝によって、ゆっくりと解き放たれていくのを感じた。美咲は、健太が自分では気づいていなかった、彼の真の価値を教えてくれたのだ。
二人の間にあった厚い壁が、音を立てて崩れ去った。美咲は、健太の前に再び心からの、まぶしい笑顔を見せた。その笑顔は、健太がこれまで見たどんな笑顔よりも、健太の心に深く、温かく響いた。健太もまた、初めて美咲の目を真っ直ぐ見つめ返し、ほんのわずかだが、偽りのない笑みを浮かべることができた。それは、美咲の「いつもの笑顔」が戻った瞬間であり、二人の間に、ようやく本当の対話が始まった証だった。
昇降口のドアをくぐり、眩しいほどの夕焼けが差す校庭に出た。野村たちの声は、もう健太の耳には届かなかった。健太の隣で、美咲が小さく、しかし確かな声で言った。「ありがとう、健太くん」。その声は、優しく、そして以前よりもずっと、健太の心に響いた。
この関係が、これからどう育っていくのかは、まだ誰にも分からなかった。ただ一つ言えるのは、健太の心の空は、あの時の冷たい雲が晴れ、淡い光が差し込み始めていたということだ。そして、その光の中で、美咲の「いつもの笑顔」が、再び輝きを取り戻していた。