008:博物館でのこと 3
……そう言っていたのに、日が暮れてしばらく経っても彼の用事が終わる気配はなかった。
寝室がふたつと、広々としたリビングルーム、ベランダ、その他もろもろの設備が揃ったホテルの部屋は、たいそう豪華である。
窓際の書き物机のところで、アルラスが通信機を使用してどこかと連絡を取り始めてから、既に一時間以上が経過していた。
防音の魔術のせいか、話し声や衣擦れなどは一切聞こえない。目を閉じればまるで部屋に一人きりのようだった。
(何の話なのかしら)
つい気にかけずにはいられないほど、彼の横顔には険しい表情が浮かんでいた。額を押さえ、厳しい口調でなにか言う。見ていないふりで、横目で唇の動きを読んだ――「コーントの町で?」
ここまでの道中に関する話だろう、とリンナは頬杖をつく。さては落とし物だろうか?
(早く終わらないかな)
リンナはそろそろ本格的に焦っていた。何度も時計を見上げながら、ため息をつく。もうそろそろ出発しないと夜の開館に間に合わない。
「閣下、まだかかりそうですか」
恐る恐る背後に近寄って声をかけると、アルラスはうるさそうに顔をしかめて振り返った。唇が動く。「待っていなさい」。
下らないことで煩わせるなと言わんばかりの表情だった。リンナは無言で退くと、距離を取ってアルラスの後ろ姿を睨みつけた。
(……なんなの、この人!)
だんだんとむかっ腹が立ってきて、リンナは衝動的に卓上のメモ帳に手を伸ばしていた。端的な書き置きを残して踵を返す。
外出用の鞄を引っ掴んで、扉に手を伸ばしたときだった。
「何してる」
「うわ!」
背後から強く腕を掴まれて、リンナは声を上げて振り返った。
天井の照明を後ろに回して、アルラスの影はまるでそそり立つようだった。一瞬臆して、大きな声を出す。
「置き手紙をしたわ。先に行ってますって」
骨が軋むほど腕を強く握り込まれる。リンナは顔を歪めて身を捩ったが、手は頑として外れなかった。
視線を動かして確認する。通信機の受話器は机の上に転がっており、まだ用件は済んでいないようだ。
「お忙しいんでしょう? 一人で行って、ちゃんと帰ってきます。だって私、家族を人質に取られてるのよ」
アルラスは手はそのままに、躊躇う表情を見せた。それでも口を開いたときには頑なな声音だった。
「一人での外出は許可できない」
「あなたにそんなこと指図される筋合いはないわ」
リンナは目を怒らせて言い切った。
「待て、違う。外出できないのは、君だけじゃなくて……」
言い終わるのを待たず、掴まれていない手を広げる。
腕を振り上げ、踵を浮かせた。アルラスの両目の前で、手のひらを上から下へ振り下ろす。
『しばしの眠りを』
呪文を囁いた瞬間、彼は物わかりよく「おいっ」と上擦った声で目を剥く。
更になにか言おうとするが、音にならない。こちらへ伸ばされた腕が空を切った。大きな体から、がくりと力が抜けて前のめりになる。
倒れ込んできたアルラスの肩をやっとこさ受け止めた。
「やっちゃった……」
慎重に床に寝かせてやりながら、リンナは青ざめる。
だってどうしても放してくれないから、つい……。
睡魔と戦っているアルラスが、必死に頭を起こして手を伸ばす。呻き声は言葉にならないが、だいたい罵倒のニュアンスである。
こうなったら、どうせ説教されるのは決定事項だ。
……それなら当初の目的のとおり、博物館に行ってしまった方が得じゃない?
こんなときに不釣り合いな、冷静な打算が働く。
迷うこと二秒、リンナはアルラスの頭を撫でて寝かしつけながら囁いた。
「ごめんなさい、すぐに戻るから、お説教はそのあとで聞きますね」
待て、と呻き声を背後に、リンナは勢いよく廊下へ飛び出した。
ホテルのロビーから通りへ出ると、辺りはしんと静まり返っていた。二つほど向こうの通りでは遅くまでやっている飲食店が並んでいるようで、灯りや物音が漏れてくる。
心臓がばくばくと高鳴っていた。アルラスが眠っているのはほんの数分間だ。そのあとの叱責を思うと今から恐ろしかった。
戻ろうかな、と考えが頭をよぎる。
……彼に謝るために?
自問して、リンナは答えを出さずに視線を街並みへ移した。
小洒落たデザインの街灯が等間隔に並び、熱を発さない魔法灯の光が川面に写って揺れている。夜の静かな街に、せせらぎと街路樹の葉擦れの音ばかりが聞こえていた。
慌てて出てきたせいで上着を忘れたことに気づく。リンナはふるりと身震いして腕を組んだ。
人通りはまばらで、ときおり観光客と思しき通行人がはしゃいだ声を上げて通り過ぎるばかりである。
(私が謝る必要があることなんて、何もない)
歩調を速めて、アーチ状の橋を素早く渡る。
(いきなり研究をやめろって言われて、それに対抗するためにちょっと呪いを使ったら知っちゃいけないことまで聞いちゃって、強制連行されただけだもの)
自分に言い聞かせながら、ため息が漏れていた。この点に関しては、アルラスにもアルラスの言い分があるだろう。
彼を黙らせる方法ならいくらでも思いついた。今すぐ取って返して、アルラスが身動きを取れないうちに一つふたつ呪文を唱える……ふさわしい呪文はいくつも思い浮かぶ。
そのとき、脳裏に彼の不敵な笑みがよぎった。
どうだ、君――と声が囁く。
――たった一度、俺を殺すためだけに、死の呪いを再現してみたいとは思わないか、と。
あの瞬間、目の奥に光が射した気がした。
ゲテモノをつついてごっこ遊びをしているだけで、呪術の研究なんて何の価値もないと言われたことがある。人がやらないことにはやらない理由があるのだ、そんなのは新規性ではないと厳しい批判に晒されてきた。
(私のことを、呪術師だと思って接してくれるのは、あの人だけだったわ)
博物館の門扉に取り付けられた大きな看板を見上げながら、リンナは歩調を緩めた。
戻って謝ったほうが良いだろうか? 上着も忘れてしまって寒いし、今ならまだそんなに怒られないかもしれないし。
「……リンナ?」
踵を返そうとした矢先に声をかけられて、リンナは弾かれたように振り返った。
「やっぱりリンナじゃないか! 久しぶりだな」
入場券売り場は短い列が並んでいる。来館者の誘導をしていた係員の顔を見て、リンナは息を飲んだ。
長めの襟足と、少し情けなく見えるくらいの垂れ目、愛嬌のある笑顔。見間違うはずがない。
「エルウィ……あなたこんなところで何してるの?」
「ここに務めているんだ、見ての通りね」
首から提げた名札をちらつかせる仕草が妙に気障っぽい。
名札の肩書きは単なる職員のそれで、学芸員ではない。リンナは腕を組んで博物館を一瞥した。
「ああ、この博物館って元々はあなたのひいおじいさまの私設だから」
コネで入ったってことね。暗に納得して頷くと、彼の笑みが引きつった。
リンナはふいと目を逸らして吐き捨てる。
「自分で反故にした婚約の相手に、よく笑顔で話しかけられるものだわ」
エルウィはこの街の市長を代々務める名家の次男坊だった。年齢はひとつ上で、好意的に表現すれば幼馴染になる。
ついでに言うと、幼い頃に大人同士で取り決められた婚約者でもあった。その話が消えたのは二年前、研究院にいた頃のことになる。
痛いところを突かれたようにエルウィが首を竦める。
「……あのときの僕は幼かった。申し訳ないと思ってる」
「良いわ、私もあなたが言い出さなければ自分から解消を申し出ていたから。それで、あのときの可愛い彼女は元気なの?」
こんなにも弱点が剥き出しな人間もなかなかいない。
エルウィの視線ははるか遠くの植え込みをじっくり観察し、曇った夜空を大きく経由したかと思うと、モザイク模様の石畳を丹念に確認して、ようやくリンナの顔に戻ってきた。
「……彼女は地元に帰って夢を追うそうだ」
「そう。残念だったわね」
ちっとも同情を見せずに頷き、リンナは腰に手を当ててため息をついた。まさかこんなところで元婚約者に遭遇するなんて思わなかった。
「そうだ、こうして会ったのも何かの縁だ。入館料はいらないよ」
「いえ、私やっぱり」
帰るわ。そう言おうとしたが、エルウィはあっという間に背後に回ってしまう。さあさあと追い立てられ、リンナは断り切れずに博物館へ足を踏み入れた。
この博物館に来るのは初めてではない。行き来に丸一日かかるとはいえ実家から最も近い博物館だし、王都なんかの大きな博物館では扱わないような変わった企画も多い。
「今回の企画はいつにも増して力が入っているんだ。準備にも時間がかかっていて」
エルウィがぴったりとついてくる。入り口で受付をしたらどうなのと内心で毒づきながら、リンナは首を巡らせた。
玄関ホールは吹き抜けになっており、左右と正面の三方に上り階段が伸びている。企画展示の会場はいつも右手の階段をのぼったところ。
昼間は外から光を取り込み、すこし薄暗くひんやりとした雰囲気だが、夜は様子が異なっていた。
天井から垂れ下がるシャンデリアは、一昔前の燃焼灯を使用しているようだ。ガラスの内側で、炎がゆらゆらと揺れている。暖色の光のせいか、日中よりむしろ温かみのある風情である。
数年前に展示室が改修されたそうだ。床には真新しいタイルが張られ、柔らかい色合いの壁紙が空間を広く見せている。それでいて展示室を繋ぐ廊下や階段などは昔のままで、木目の色濃い床板には時代が感じられた。
それほど大きくないけれど、子どもの頃から何度も訪れている、思い入れのある施設だった。
特別展の会場に入って真っ先に目に飛び込むのは、古い魔術師を描いた有名な油彩画だ。中央で大きな杖を掲げた魔術師が風を受けて立ち上がり、人々はその足元に跪いている。
「ああ、この絵は王都の国立美術館から貸出を受けたものなんだ。調整には骨が折れたよ、なにせ名画だからね。あちらの館長へ直々に交渉してさ、」
エルウィの解説を聞き流し、リンナの視線は自然と油絵の隅に引き寄せられていた。
魔術師が放つ光から逃げるように、顔を庇って走り出す白い長衣の人間。
頭から足元までをすっぽり覆う白いマントは、呪術師の絵画的な象徴である。
この絵が作られた時代での、呪術師の扱いがよく分かる一枚だ。
と、展示室の中ほどで「お集まりのみなさま」と歯切れのよい声がして、リンナは顔を上げた。