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065:いきものの流れ着くところ 12

 博士は目を動かし、頬を吊り上げて告げた。

「久しぶりですね、王子殿下」

 きっと手足があれば恭しく脱帽して一礼したに違いない。それくらい慇懃無礼な口調だった。


 アルラスは額に手を当て、俯いたまま答えなかった。次第に呼吸が早くなり、胸が激しく上下する。

「断頭台ぶりでしたか。いやはや国王陛下ときたら酷なことをなさる。実の弟を処刑人に仕立て上げて、自分は手を汚さずにのうのうと死におおせて」

「黙れ」

 窓がびりびりと震えるような声が飛び出した。


 これが博士の手口なのだ。相手を逆なでし、動揺したところを狙って呪術で捕らえる。四肢はなくとも言葉が彼の触手だった。

「殿下の兄上だって、まさか弟君が二百年後も必死に呪術師を追いかけ回しているとは思わなかったでしょうなぁ」

「黙れと言っているんだ」

 さっと顔を上げ一喝すると、博士は眉を上げて口を噤んだ。小馬鹿にした表情である。


「貴様、俺になにをした」

 唸り声に、博士が首を傾げる。心底不思議そうに周囲を見回すが、顔を見合わせてくれる人間はいない。


「何の話だか、さっぱり、」

「答えろ! 俺に何をした? 一体何をしたら、俺の――」

 あまりの気迫に、博士が臆した様子をみせた。顎を引いて顔を背ける。



 その隙を見逃さず、リンナは床に手をついて暗がりから飛び出した。



 台座から突き転ばされた頭部が、礼拝堂の床に転がる。彼があっと声を発するより先に布で口を塞ぐ。

 まき散らした小麦粉で足が滑った。リンナは博士の首を抱えたまま床へ倒れ込むと、肩で息をする。


 息を整え終わらぬうちに、勝ち誇って囁く。

「風を送ってくれる台座がない限り、あなたは呪文を唱えることができない。呪文を唱えずとも私に言うことを聞かせることもできるけど、それは私があなたの言っていることを理解することが条件よ」


 だからこうして、顔が見えないよう胸の前で抱きかかえてしまえば、博士は何も手出しができない。

 手の中で表情筋が動いている。声にならないまま口を開閉させ、博士の眼差しは必死にこちらを見ようとしていた。


 リンナは床に座り込み、呆然と礼拝堂の中空を見上げた。大きな博打に、心臓が今なお激しく高鳴っている。

 窓の外でゆらりと人影が立ち上がる。「リンナ」と一声漏らして、アルラスが窓枠を越えて近づいてくる。


 脂汗の浮いた顔を見上げて、リンナは曖昧に微笑んだ。

「リンナ。今のは」

「小麦粉と、一応胴体に鉄板。オーブンから抜いてきて、前後にくくりつけておいたの」

 腹を捲って見せてやると、アルラスの顎が落ちる。


 それ以上近寄るなと手振りで合図をして、リンナは慎重に博士の首を礼拝堂の椅子の上へ下ろした。

 博士は祭壇を睨んだまま微動だにしない。リンナは膝を畳んで床に座り直すと、博士と目線を並べて祭壇を見上げた。


「私が死んだと思った?」

 首が僅かに上下する。リンナは椅子に肘を置き、喉の奥で笑った。


「せっかく苦労して育てた人形が死んじゃったら、勿体ないものね」

 また博士は首肯する。


 書庫から持ってきた手記を膝の上へ手繰り寄せた。博士の視線を感じながら、リンナはそっと表紙を手のひらで撫でた。

「私も呪術師だから、分かるけれど……人の身体を丸ごと作り替えてしまうなんて、簡単にできる芸当じゃないわ。並々ならぬ研究や鍛錬が必要でしょう」


 胸に手を当て、リンナは恐る恐る視線を博士の横顔に向けた。天井近くの窓から射し込んだ月明かりが彼の額を照らしていた。

「あなたが優れた呪術師だってこと、私はちゃんと分かっている。だからこそ、その技術をこんな風に人を傷つけることに使うことが、許せない」


 王都は未だ混乱のさなかにある。今なお高架橋の上の列車に取り残された乗客や、避難を余儀なくされた市民が大勢いる。不死者に襲われて病院に運ばれたひと。……亡くなった人だっているはずだ。


「どうして」とリンナは目を伏せて項垂れる。

「どうしてそんなことができるの?」


 どうしてこの人は、そういうやり方しか知ることができなかったのだろう。


 どうしてこの人はこんなに、一つの呪術に固執していたのだろう?


 博士が昂然と死の呪いを語っていたときの言葉を思い浮かべる。

 ――死の呪いは、呪術師の存在を世の中に知らしめたのだ、と。


 死の呪いを手にした呪術師を、時の権力者は大層重宝したという。呪術師は王侯貴族や大領主の庇護のもと、政敵を屠り、その時代で存在感を増していった。

 彼の思想に賛同することはできない。彼の所業を許すことも到底できない。それなのに、閉じた目の縁からひんやりとした涙が伝って鼻先から落ちた。



 深く頭を垂れて、リンナは食いしばった歯の隙間から呻く。

「本当は、呪術師が生きていけるなら、どんな手段でも良かったんじゃないの?」



 博士は答えなかった。どのみち彼に返事をする手段はないが、リンナの言葉を聞いても、瞬きひとつせず、奥歯を噛みしめていた。

 リンナは袖で目元を乱暴に拭うと、博士の頬に慎重に指先を触れた。


「集落が攻撃されたとき、助けてくれたでしょう。そのお礼に、ひとつだけ用を済ませてあげる」

 そう言って、リンナは手記を抱え上げて博士の顔の高さへ掲げた。口に詰め込んでいた布を引っ張り出し、顔をこちらへ向けさせた。


「この本の開き方を教えて。これ、何か魔法がかかっていて、とても危ない本なの」

 博士の顔を覗き込む。自分を信頼するのかとでも言いたげな、愕然とした表情が見返してくる。


 リンナは微笑んで答えた。

「嘘ついたらあなたの顔面が丸焼きになるだけだから、気にしなくて良いわ」

 はっきりと答えると、博士は真ん丸に目を見開いて、それから目を細めて苦笑した。


 ここから先は呪術はなしである。言葉にはしなかったが、彼には伝わったらしい。

 乾いた唇が開閉して言葉を紡ぐ。

 彼に指示されるがままに、リンナは手記の表紙を顔の高さに掲げ、額を押し当てて唇を寄せた。

 吐息だけで囁く――『私は正しい道を選んできた』。

 合言葉を唱える唇は激しくわなないていた。


 自らの正義をほんとうに信じている者は、こんな言葉を何度も言い聞かせることはない。

(フェメリアは、いったいどんな気持ちで、この合言葉を……)

 研究を始める前、毎回決まって自分の正しさを宣言する姿を思い浮かべる。ずきりとした痛みが胸に走る。


 博士が小さく頷くのを見てから、リンナは表紙に手をかけた。指先に力を込める瞬間、緊張が走った。


 果たして古びた本は火を吹くことなく、ゆっくりとその内側を露わにした。

 大昔の呪術師の肉筆に息を飲む。フェメリアの筆跡は乱雑で読みづらいが、荒々しい勢いを感じさせた。呪文を記述する筆が走っている。


 二百年以上も昔の呪術師である。リンナはフェメリアの人となりをまるで知らない。

 けれど、机へ覆い被さるようにして必死にペンを走らせる姿を思い浮かべれば、他人事のようには思えなかった。

 彼女はまさしく呪術へ魅入られていたのだ。


 フェメリアの一番弟子として、隣を駆け抜けた博士は、彼女の横顔をずっと見てきたのだ。


 ページを送る。熱心な呪術の考察に関する覚え書きが続いている。膨大な量だ。今すぐ博士から取り上げて一ページずつ熟読したい気持ちを堪えながら、順に紙を捲った。

 書き込みがされている最後のページで、指は自然と停止した。ふ、と博士が口内の空気を漏らして目を見張る。


 それまでと異なる、丁寧で整った文字が、ただ二行だけ記されていた。端的な言葉は、研究記録の中で異質なほど私的な感情を帯びていた。

 短い伝言が書き残されている。


 お前がいたから生きてこられた。

 先にあちらで待っている。


 リンナは長い息を吐き出した。

 彼はこの二行のために二百年を越えて来たのだ。

 フェメリアがこの記述を残すに至った経緯は分からない。が、本来ならこの本は、一番弟子である博士に委ねられるはずだったのだろう。


 博士は声もなく泣いていた。唇がフェメリアの名を呼んだ。探し続けてきた答えを見つけた感涙か、求めていた情報がなかったゆえの涙かは判断がつかなかった。


「……死の呪いは、相手の消滅を願うほどの激しい憎悪と無理解があって初めて発動する、強力な術だわ」

 だから、私はそれを使えない。

 リンナの言葉に博士は目を伏せた。


 リンナは噛んで含めるように続けた。

「絶対、次のフェメリアを生み出させない。同じことは決して繰り返さない。あなたの思うようにはさせない」

 それがつまりどういう意味か、彼も分かっているはずだ。だってそれは彼自身の悲願と同じ方向を向いている。


 慎重に博士の額へ手をかざす。

「私、呪術師が当たり前に生きられる世の中を作ります。白い髪で生まれてきただけの子どもにも、居場所がある世界を作ってみせる」

 博士は濡れた瞳を動かしてこちらを見た。リンナはそっとアルラスに視線を向けた。


 彼はすぐに意図を汲んで、足音をさせずに椅子の間を抜けてきて、片膝をついて跪いた。

 博士と目線を合わせた彼の眼差しからは、畏怖と嫌悪が漏れ出ていた。それ以上に真摯な口調で、アルラスは息の混じらない声で告げた。


「約束する」

 博士の両目が揺れた。

「二百年前、呪術師を強硬に弾圧したことは、問題を先送りにしたに過ぎなかった。間違っていた」

 両者の目線が正面からはっきりと混じり合う。刹那、互いの胸中に去来したであろう感慨を、リンナは推し量ることもできなかった。

 それだけ長い時が流れてきた。


 アルラスの目がこちらを向いた。ふ、と微笑んだ笑顔を見た瞬間、ここへ来る前の表情とはまるで異なることに気付く。

(まさか)


 問いを発するより早く、アルラスは博士へ視線を戻した。

「今なら分かる。呪術は人を救うことができる」

 そういう世界が来る。


 断言した言葉に込められた信頼に、リンナは息を飲んだ。

 簡単な道のりではないことは百も承知だ。生涯を捧げる覚悟はとうにできていた。……それに、一人で成し遂げる訳ではない。


 リンナは博士の瞼に手のひらを押し当て、視界を覆う。

「でも、その世界に、あなたの居場所はない」

 低く吐き捨て、リンナは硬く目を閉じた。


 言うべき言葉は分かっていた。

 月は高空に冴え渡り、夕立の残り香が森から立ちのぼる。風が全ての柱と壁、椅子や床、祭壇を舐めて吹き寄せる。


 たなごころに眼球のこまかな震えを感じていた。


 やり場のない苦みを感じながら、ゆっくりと口を開く。

「その肉体は土へ還り、魂は解放され風となる」

 呪術とはひとの祈りである。規則に則った古い言葉で綴った呪文より、ときに強い情念のほうがはるかに強い力を持つ。


 博士が目を閉じる。睫毛が掌底を掠めた。

 うなじの毛が逆立つような緊張と興奮が襲う。


 リンナは身を伏せて博士の額へ唇を寄せ、万感の思いを込めて囁いた。

「――この者が、安らかな眠りにつかんことを」

 男の呼吸が止んだ。


 額はただの壁面と化し、頬や口角が力を失って下を向く。

 どこまでも広がってゆくような静けさだった。

 どれほど力を込めても動かないものになった。それが分かった。



 彼の瞼から手を離し、リンナは崩れ落ちるように床へ倒れ込む。

 言葉にならない感情が全身を激しくかき乱し、タイルの剥がれた床に指先を突き立て喘いだ。もう腕一本だって動かしたくなかった。


 ああ、と意味のない声を上げて、地面へ縋りつく。

 肩に温かい手が触れて、力の入らない身体を抱き起こす。力強い腕に抱き竦められ、リンナは今度こそ声を限りに喝采を挙げた。



 不死の呪いが決して消えない、人類の敵である時代は終わったのだ。


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