064:いきものの流れ着くところ 11
四方を包囲された礼拝堂に、リンナが頭を上げて入ってゆく。
窓から慎重に中を覗き込み、祭壇前に鎮座しているものの正体を見咎めた瞬間、アルラスは息を飲んだ。
首である。
台座に乗せられ、白い髪をした壮年の男の生首が、笑っている。
アルラスは総毛立って息を止めた。見覚えはなかった。あの当時、何人もの呪術師を処刑したから顔なんて覚えていない。けれど、彼はこの城で首を切られたのだと直感する。
不死の呪いの嫌なところは無数にあるが、成功しても失敗してもろくな結果にならないところはそのひとつである。
(あれが、博士)
二百年の間、手足のひとつも持たずに生きてきたのだ。その日々を想像するとぞっとした。
リンナは距離を空けて立ち止まる。博士は穏やかに口を開いた。
「エディリンナ。よく来てくれた」
「どうして私って分かったの? ここまで同伴させた子も同じくらいの年齢で、こんな格好じゃなかった?」
「目を見れば分かるよ。君は私のことを殺してやりたくて仕方ないという目をしている」
リンナは決して否定はせず、唇を引き結んだまま返事をしなかった。
「やっぱり幼い頃から肉親や周囲の人間から酷い目に遭わされた方が、優れた呪術師になるのかな。君は私が育成した人形たちとはまるで違う」
「私が優れた呪術師なのは、私が呪術を愛して、自ら努力を続けてきたからよ」
断言した口調は誇り高く、自負に裏打ちされた力強さがあった。顎を引いて博士と相対するリンナの横顔に束の間見入る。
「私をフェメリアの代わりにしようとしたって、上手くいくはずないわ」
片手を胸に当て、彼女はよく響く声で告げた。
「私はエディリンナ。それ以上でもそれ以下でもない。他の何かになんてなれやしない」
だから、とリンナが小脇に抱えていた本を取り上げる。博士の両目が大きく見開かれた。
「フェメリアの言葉を探すなら、彼女自身が残した文字を辿るしかないんだと思うわ」
「それを寄越せ!」
博士が悲鳴を上げる。リンナは足を肩幅に開いたまま、微動だにしなかった。
アルラスはそっと拳銃を握り直す。博士が興奮している。あれは、やろうと思えばリンナを思うままに操ることができるという。
本人が一番分かっているだろうに、彼女の表情に臆したところは全くみられなかった。
「ここに何が書いてあるの? 何の情報をそんなに求めているの?」
リンナの問いに、男は血走った目で即答した。
「死の呪いだ。死の呪いについて書いてあるはずだ」
「どうして死の呪いにそんなに固執するの? 棒を持って殴り殺した方がよっぽど早いのに」
人を食ったような質問に、ふと博士の顔に困惑がよぎった。迷子の子どものように途方に暮れた表情にもみえた。
「どうして、だと」
眉根を寄せてリンナを正視する。
「呪術師なら死の呪いを求めるものではないのか」
「いえ、別に。そんなに人を殺したいと思ってないもの」
あっさりとリンナが答えた瞬間、博士の眼差しには失望が浮かんだ。
彼はいちど目を閉じて長く息を吐くと、リンナを睨みつける。先程までとは異なり、腹の据わった表情をしていた。……腹はないけれど。
「周囲に兵隊さんがどれくらい控えているか答えなさい」
男の声かけに、控えていた人員が一斉に色めき立つ。相手は初めから、こちらの包囲網などは承知の上だったのだ。
威圧的で有無を言わせぬ命令口調だった。リンナの顔が強ばる。
彼女はぎこちなく首を左右に動かした。
「周り全体を、包囲していて、この近くには、五十人くらい……でも、もっと先に大勢いるわ」
リンナの顔がこちらを向いたとき、彼女は焦った顔をしていた。身体の主導権を奪われる感覚に近い、と彼女は言っていた。彼女はまさに今、その状態に陥っている。
「私を連れてここから脱出することは可能か?」
「できるわ」
苦しげに答える。呪いの影響下で答えているからには、嘘ではないだろう。彼女には本当にここから逃げ出せる自信があるのだ。
否が応にも緊張は高まり、傍に控えている兵は三秒おきにこちらを窺ってくる。
アルラスは壁に背を押しつけ、窓を覗き込んだまま歯ぎしりをした。どうする? ここで博士を逃がす訳にはいかない。何としてでも、ここで捕らえなければいけない。
博士は不死者であり、身体を損壊しても死ぬことはない。一方で移動能力はまるでない。
彼が逃げ出すとしたら、リンナが足になる。普通の人間より華奢なくらいの彼女のことだ、攻撃すればあっさりと死ぬだろう。
「では、やってみせなさい」
博士の声が暗い礼拝堂に響く。リンナは生首へ震える手を伸ばす。
「閣下」と部下が抑えた悲鳴を上げた。アルラスは顔を歪める。
やるべきことは分かっている。それなのに、どうして身体が動かない?
(君を、殺したくない)
こめかみを汗が流れ、四肢を縛るものが躊躇いだと気付いた瞬間、耳元で彼女の声が蘇った。
もし、そのときがあったらね、
彼女がひたむきな視線で手を伸ばし、微笑む。すっかり覚悟の決まった表情で告げるのだ。
『躊躇をしないで』
リンナが命じた言葉が脳裏をよぎった瞬間、身体が自然と動いていた。
一歩踏み出し、素早く狙いを定め、古びた窓の格子の向こうに立つ彼女を見た。重い反動が手のひらに残り、眼前の硝子が弾ける音がけたたましく響いた。
リンナがこちらを振り返る。目が合った、と確信した。
視線を合わせ、身構えるように顎を引き、彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
白い髪が弧を描く。真っ白な布は音もなく広がり、帆のように大きく空気を孕んで、
そうして、彼女がいた場所には、粉雪のような灰が舞い上がった。
リンナがリネン室からくすねてきたというシーツが、柔らかく床に落ちる。
銃声のあとに訪れた静寂は、恐ろしいほどの密度でのしかかってきた。指先一つ動かすこともできないほどだった。
しばらくの間、誰もものを言わなかった。
アルラスは武器を取り落とし、その場に崩れ落ちた。
「リンナ、」
体が勝手に動いたのだ。リンナがかけた呪文である。一瞬のことだった。あっと声を発するよりも短かった。
彼女が死んだら灰になることは、知っていたはずなのに分かっていなかった。他の人形は死ねば肉体ごと消え失せるけれど、リンナだけは何故だか違うと思い込んでいた。
そんなことはなかった。一秒もかからなかった。大した重みもない粉にぱっと変わって、消滅した。
(リンナが死んだ)
――あの女、俺を断頭台代わりにしやがった。
窓枠に手をついて、額を押さえた。頭が割れるように痛い。目の前が真っ白になるほどの痛みだった。
朦朧とする意識の中で、アルラスは祭壇前に落ちた布地を見つめた。
(俺が、リンナを、殺した……?)
唇だけで呟いた直後、目の奥で光が弾ける。
……前にも、こんなことが、なかったか?




