063:いきものの流れ着くところ 10
慣れた足取りで書庫への道を進む。物音はひとつもなく、夜の気配が遠くの森から忍び寄ってきていた。
博士との会話の一部が記憶から消されている。
記憶のないあいだに、博士が何かしらの呪術を仕込んでいる可能性は、十分にある。
(私を止められる呪術師は存在しないから、そのときは誰かに処分してもらうしかない)
奥歯を噛みしめて、書庫の扉を開け放った。数々の書物が眠る空間に、蝶番の軋む音が長く尾を引いて響いた。
ここにある本は、ずっと君を待っていたのだ、と。アルラスがそう告げた言葉を思い出す。
あれは真実だったかもしれない。そう思いながら階段の一段目を踏み、手すりに片手を乗せた。
波風のない人生ではなかった。泣き濡れた夜もあったし、ずっと自分を哀れんでいられるだけの日々でもなかった。もっとやりようはあっただろうし、こんなに苦しまずに済む道もあったかもしれないし、もしかしたら、生まれてきたことが間違いだったのかもしれない。
でも、やはり、ここにある資料たちは自分をずっと待ち続けていたのだと思う。
彼は二百年の間、ずっと自分を待っていたのだと思う。
ひとつでも掛け違えていたら、自分が今ここに、こういう形で、これほど凪いだ心境で流れ着くことはなかった。
「……捜し物は、そこの本棚にはないわよ」
言い放った声は、自分でも驚くほど明朗な調子を帯びていた。
書架の奥で、凍り付いた女がこちらを睨み上げている。博士の姿はない。
リンナは人差し指を立て、舞台女優のようにじっくりと階段を降りた。
「博士が何かを探しているって予想したときに考えたの。博士は手段を選ばないひとだわ」
階下へ立ち、目の高さが同じになる。背後から夕陽が射し込み、本棚の木目やリンナの指先を赤々と照らし出した。
暗がりで、相手は手負いの獣のように息を潜めている。事実、彼女の行動原理は獣と大差なかった。博士は任務を遂行できなかった道具には冷酷だろう。死にたくなければ、彼の言うとおりにするしかない。
だから、必要以上に穏やかに、歌うような声を出した。
「あのひとは、テロを目論むときでも、同時に目的のものを探すように命じていたはず。じゃあ、他の用事で国内に侵入するひとにも、同じ命令を仕込んでいたんじゃないのかしらって」
初めてここに来た日のこと。
この書庫は吹き抜けになった作業空間、一階と二階の開架および地下の閉架により構成されている。
閉架は部屋の隅の端末を操作することで取り寄せることが可能だが、その日は不具合があって装置がうまく動かなかった。原因は閉架に入って判明した。別の本が運搬用のレールに引っかかっていたのだ。
あれ、とアルラスが怪訝な声を出したのを覚えている。
『最近こんなの取り寄せたかな』と。
リンナは慣れた手つきで端末を起動させた。画面が光を放つ。女は目を丸くして首を伸ばした。
閉架に保管された資料の題名は、ここから一覧で確認することができる。
この端末を操作できる人間は限られる。少なくともリンナはアルラスから子細に説明されないと分からなかったけれど、こうした魔術で動く機構に詳しい人間なら使い方は推測できるだろう。
「ナァナに呪術で命じてあったのね」
呟いて、リンナは遠くで機械が動き出した音を聞いていた。
「興味ある? こちらに寄っておいでなさいよ」
視線を向けないようにして声をかける。背後でそろそろと足音が近づいてくる。
その気配が十分に近づいてから、リンナは短く『硬直』と唱えた。振り返って女の肩を支えて床へ寝かせ、膝をついて顔を覗き込む。
「勝手に呪術を使ってごめんなさい。謝るわ。でも事態が事態だから」
言いながら、リンナは彼女の額を優しく撫でた。彼女の眼差しにはただただ怯えばかりが浮かんでおり、それが痛ましくてならなかった。
「博士の居場所を、教えてくれる?」
自分より、ひとつか二つ年下だろうか? 鏡を覗き込むような、奇妙な気分がした。
「悪いようにはしない。ただ、あの人と話したいことがあるだけなの」
気味の悪い人形ではない。自分とかけ離れた化け物ではない。
目の前にいるのは、自分の半身であり、妹なのだ。彼女の手を握ると、形になりきらないやるせなさが胸に去来した。
「全部終わったら、どこにでも行ける。誰に怯えなくても良い。自分のしたいことを、やりたいだけやって良い。私が終わらせるから、全部大丈夫にするから、……お願い」
彼女を説得しながら、これは自分にも言って聞かせているのだと思った。
細い指先が手を握り返す。大きく見開かれた瞳に、自分の顔が写っている。
「……礼拝堂に」
掠れた声が囁き返したとき、閉架から本が到着した。
リンナは立ち上がって受け取り口に手を伸ばした。
古びた革の表紙を親指で撫でる。題名は記されていない。広く知らしめるために記された本ではないからだ。
「フェメリアの手記、か」
呟いて、リンナは本を見下ろした。
この本の中身は知らない。理由は単純である――これは開くと火柱を噴いて、読者を焼き殺そうとする。
眠りの呪文を唱えた。女が瞼を閉じてぐったりと床に頭を預ける。夜になってもあまり気温の下がらない時季だから、風邪を引くことはないだろう。
***
リンナが食堂の通信機を使って制御室へ連絡してきたのは、日没直後のことだった。
『博士は礼拝堂にいるそうです』と、リンナの声は落ち着きはらっていた。もちろん声音だけのことであり、裏側には緊張が感じられた。
「例の手記は?」
『入手しました』
身じろぎするような音がする。リンナが手記を見下ろしたのだろう。
『閣下。約束通り、初めは手を出さずにいてくれますか』
ここに来るにあたって、彼女は悠長とも言える条件を出していた。博士と直接話したいことがある、と。
危険な呪術師との対話は、百害あって一利なしである。少なくともアルラスの経験上ではその通りだが、リンナはこの条件を頑として譲らなかった。
「分かった」と渋々頷く。
「君の気が済んだら、軍による収容に移らせてもらうからな」
はい、とリンナは短く応えた。
軍は先ほど湖岸へ上陸し、城の周辺を包囲している。指示を出せば迅速に動ける精鋭が揃っている。
礼拝堂付近で落ち合おうと合図をして、アルラスは通信を打ち切った。
軍へ突入命令を出し、広い宮殿を横切って礼拝堂の方面へ向かったときには、既に低い位置に月が浮かんでいた。呼吸を整えながら庭園を大股で進む。
果たして、月光の中に佇むリンナの姿は絵画のごとく浮かび上がり、古びた本を小脇に抱えてこちらを見据える眼差しは冴え冴えと光ってみえた。どこで入手したものか、足元まである真っ白なマントまで身に纏っている。
「ああ、これ」と彼女は照れたような笑みを浮かべた。
「呪術師の正装と思って、シーツを借りてきちゃいました」
まるでドレスの裾でもつまみ上げるみたいに、優雅な仕草でリンナが腕を動かす。
白い髪は争乱のさなかで結い上げられることなく胸元に流され、柔らかく波打っている。リンナは微笑んで、「じゃあ」と囁くと歩き出した。
その後ろ姿を見送りながら、アルラスは呆然と立ち尽くした。
風が吹き下ろす。汗の浮いた肌を、夏の夜の生ぬるい空気が包み込む。
咽せ込みそうなほどに濃密な花の香りが立ちこめていた。
深い水の底にいるようだった。暗い中庭で、白い花がいくつも咲いている。
それだけに、中庭を満たす暗闇がおそろしく黒々として見えた。
庭師を呼んで植えさせた花だった。そんなこと、この百年以上思いつきもしなかったのに、どうして俺は今年に限って花を植えようなんて思ったのだっけ?
目を凝らした先で、白い花びらが風に吹かれてはらりと地に落ちた。
更に奥の森の中にある断頭台のことを思った。歴史から葬り去られた代物である。ここで数え切れぬ罪人が散っていった様を知っているのは、もはやこの城と自分だけだろう。
鼻を鳴らして花香を嗅いだ。
二百年前と変わらない香りだった。




