057:いきものの流れ着くところ 4
身体検査は遠方からの目視確認と、猿轡をしての触診の二通り行われた。服はひん剥かれて軍が用意したものに着替えさせられ、膿んでいた傷口は医師によって処置を受けた。
サリタは検査用の部屋に入らなかったので、台に乗せられてどこかに運ばれていった。最後に見たときにはご機嫌で手を振ってくれたので、大丈夫だろう。
少なくとも死ぬことはない。
「これって、ここで待ってろってこと?」
「多分、そうみたいです」
部屋に残され、手持ち無沙汰にナァナと顔を見合わせたとき、どこからともなく声がした。
『レピテ』
アルラスの声だ。
はぁい、と城にいた頃のような口調でナァナが応える。
彼女は聞かれる前に平然と続けた。
「すみません。本名はナァナといいます。斥候として国内に侵入して、城に潜り込んでいました。二百七歳です」
アルラスはしばらく絶句した。無理もない。
内心で同情していると、彼はわざとらしい咳払いで平静を装った。
『エディリンナ・リュヌエールだな』
短い呼びかけにぴんと背筋を伸ばす。
「はい」と答えて、リンナはカメラを探した。
一拍おいて、彼は慎重に問いかける。
『……ロルタナ・A・アドマリアスという名を聞いたことは?』
質問の意図が分からず、リンナは当惑した。
この人、二百年も生きてきたせいですっかりボケちゃったのかしら?
「歴史上の王族で、私の夫です。ご本人なんだから知ってるでしょ」
『その幼名は?』
「えっと……アルラス」
一般に有名な名前ではない。現代では幼名という文化もなくなり、リンナとて本人とお近付きにならなければ一生知ることはなかっただろう。
即答すると、しばらく沈黙が続いた。
『彼の現在の住所は』
「旧都オーリントン湖向かい一丁目一番地、レイテーク城」
『レイテーク城の厨房から書庫に移動する経路を説明しなさい』
城内の道順をひとつひとつ答えながら、リンナは眉をひそめる。
自分と同じ顔をしている女がたくさんいることは理解している。自分が本当にエディリンナなのかを確認するための尋問なのも分かっている。
でも、わざわざこんな大仰な質問を繰り返す必要なんてあるだろうか?
「閣下なら、見れば私だって分かるでしょう? 偉人にこんな生意気な口利く呪術女なんて私くらいしかいないわ」
わざと挑発したのは、不安の裏返しだった。
たとえ否定的なものだとしても、アルラスは言いたいことが山ほどあるはずだ。迂遠な尋問より先に、話すべきことがたくさんあるはずだ。
向こうの声は長いこと答えなかった。
気が遠くなるような沈黙を挟んで、彼は掠れた声で『申し訳ないが』と呟いた。
顔も見えないまま、アルラスが冷淡に告げる。
『俺は貴女のことを、何一つ覚えていないようでな』
……頭が真っ白になった。
なにか答えるより先に、傍らのナァナが手を強く握り込む。「どういうこと」と代弁してくれる。
急速に体温が下がっていくのを感じた。それなのに、全身から汗が噴き出している。
『なにか知っているか?』
短い問いかけに、リンナは呆然と中空を見上げた。アルラスの言葉の意味が、分からない。
理解できないわけではない。原因にも心当たりがある。
だが、条件を満たしていないはずなのに、『あれ』が発動するはずがない。
はい、と答える自分の声が、まるで他人のもののように聞こえた。機械仕掛けのような気分で述べる。
「私が、呪いをかけて、閣下の記憶が消えるようにしました」
『いつ、どこで?』
「去年の冬、断頭台の前で」
は、とアルラスが息を飲むのが分かった。断頭台? と横でナァナが首を傾げる。
『……呪いの内容は』
問いかけるアルラスの声が震えている。
「もし閣下が私のことを殺害したら、私に関する記憶をすべて忘れてしまうようにって」
答える自分の声も震えている。
「だって閣下が悲しむと思って」
馬鹿なことを、とナァナが小さな声で毒づいた。
「でも私、見ての通り殺されてないわ」
(おかしい)
俯いて、リンナはかたく目を閉じた。あのとき私はどのような文言で条件を決定しただろう?
(違う。正確には、『私を殺したら』ではない)
呪術の条件には、他の個体の生死といった情報は使えない。
(条件は、『私の死亡を確認したら』、だわ)
つまりアルラスは、どこかで『エディリンナが死亡した』と認識したことになる。
普通ならあり得ない勘違いだ。が、リンナに関してはその可能性があった。
「糸人形のどれかと対敵したってことね」
ナァナが呻く。リンナは無言で頷いた。
アルラスはどこかのタイミングでリンナと同じ顔の女を殺害して、それをリンナだと認識した。無理のある状況ではない。死角から襲撃でもされれば、咄嗟の迎撃に躊躇のないひとだ。
そして、三日後に記憶がすべて消えた。
呆然と自分の膝を見つめた。泣き喚いてしまうと思ったが、涙は出てこなかった。
ナァナの手が背をさする。リンナは縋りつくように彼女の片手を握り込んだ。
『……身体検査の結果、不審物等は確認されなかった。監視室の扉を開放するから、通路を右に進んで突き当たりの昇降機に乗るように』
アルラスが苦々しげな口調で告げると、音声はそこですっかり途切れた。
間をおかず、扉の向こうで作動音がする。がちゃんと錠が外れる音がして、ナァナが恐る恐る扉に近づいた。
「お、開いた」と彼女は引き戸を動かして明るい声を出す。首だけ外に出して、周囲を見回しているらしい。
「誰もいないですね」
こっちこっち、とナァナは笑顔で手を引いてくれる。城にいるときのように気楽でとぼけた仕草で、今はその気遣いがありがたかった。
のろのろと部屋を出ると、左右に長い通路が伸びている。案内人はいない。当然の措置だ。
「信用できない呪術師に近づくのって、すごく怖いのね。博士と対面して初めて気付いたわ」
ぼんやりと呟いて、白い廊下を見渡した。
……私は彼にとって、信頼のおけない危険な呪術師になったのだろう。
「そりゃ、閣下は初めの頃から私のことさんざん危険人物扱いして、腕は捻り上げるし親は人質にするしだったから、今に始まったことじゃないけどね」
何とか明るい口調で胸を張る。ええっとナァナもあっけらかんと相槌を打ってくれる。
「わたしが最初に見たときは、もう既に結構仲良さそうに見えましたけどね」
「私の歩み寄りのおかげよ。あのひと社会性ないもの」
どうせこの会話も聞かれている。今ごろ身に覚えのない非難に首を捻っていることだろう。
腕を組んで渋い顔になる姿を想像して、思わず笑ってしまう。あは、と声が漏れて、リンナは口元に手を添えたまま吐き捨てた。
「まあ、ぜんぶ、なかったことになったから、関係ないか」
止めようもなく、片目からぽろりと涙が転げ落ちた。ナァナが口を噤むと、通路にはリンナの不規則な呼吸だけが響く。
声を詰まらせ、胸元を握りしめて、リンナは噛みしめるように囁いた。
「でも、本当に楽しかったの」
今までの人生で、彼と一緒に暮らしていた頃が、一番楽しかった。
彼がいなければ、自分は博士と対峙したとき、衝動に抗うことができただろうか?
あの湖畔の城で過ごした日々がなければ、自分はこうして自分の足で歩けただろうか。
廊下の突き当たりまで進むと、言われていた昇降機が口を開けて待っていた。
乗り込むとすぐに扉が閉じ、かごが縦坑を上がり始める。体が一瞬だけ重くなるのを感じながら、リンナは目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは、女たちの仮面のような無表情である。
名前はないと語っていた。
博物館の廊下で呪術師と相対したときのことを思い出す。小柄だった。もし顔を見ることが叶えば、数年前の自分の姿が出てきたはずだ。
橋の上から跳んだ後ろ姿が、瞼の裏に蘇った。
(あの子は、初めから死ぬつもりだったんだろうか)
それとも、自分が必死になって追い詰めたせいで、そうせざるを得なかったのだろうか。
そこまで考えたところで、リンナはゆるゆると頭を振った。
(私が追わなくても、博士がそのように命じていれば、遅かれ早かれ同じことになっていた)
不死者の集落で見た、同じ顔の人形たち。彼女らの意思は著しく希薄で、話しかけてもちっとも人格が見えず、博士の指示がないと動けないようだった。
彼女たちが恵まれた肉体をもってしても、ろくな呪術を使えないなんて当たり前だ。あの男が、彼女らを体も精神もがんじがらめに支配しているのだ。
燻るような怒りが、腹の底で渦巻く。
……身体を持たず、死というものも訪れない、あの生首!
実験動物を見るように超然とした目つきを思い出しただけで、身震いするような恐怖と嫌悪が襲った。
あれからもう何日も経って、体も洗ったばかりなのに、鼻腔の奥に砲撃による粉塵が漂う。
足元を漂う砂煙のなか、首が地面に転がっている。透き通った瞳がこちらを見つめている。
逃げなさい、と彼が囁いた。実際には音は発されなかったが、思い返した情景のなかでは彼は確かにそう告げていた。
ゆっくりと瞼を上げる。暗い壁を睨みつけた。
(呪術の起源はひとの祈りにある)
フェメリア門下生に向けて書かれた本の記述である。フェメリアの一番弟子だったという彼が知らないわけがない。
意志なきものに呪術は使えない。
(それでは、あの人は、いったいどんな祈りを込めて私たちを作ったのだろう)
ふわりと髪が浮く。小さな振動とともに床が静止し、扉が滑らかに開いた。
明るい光に眉をしかめて、リンナは瞬きをする。
到着したのは右手の壁一面がガラス張りの大きな部屋で、広い空間を隔てた向こうに机が並んでいた。
両翼にはいかにも軍人らしい男たちが厳めしく首を揃えていたが、リンナの視線はおのずと正面の席に吸い寄せられた。
「ようこそ」と聞こえた肉声に、胸が打ち震える。
予想はしていたが、アルラスの姿形は記憶にあるものと寸分違わなかった。
精悍な顔つきで顎を引き、出方を窺うようにこちらを見据えている。油断のない目つきだった。
ふと視線を動かしたとき、長机に居並ぶ面々のなかに、父の顔を見た。
顔を歪めて睨んでいる父の姿を認めた瞬間、リンナは息を止めた。
考えてみれば、軍部の重役である父がいるのは当たり前のことだ。父の顔を見つめ返そうとしたが、どうしても目がそれ以上横を向こうとしなかった。
唾を飲んで、リンナはゆっくりと首を左右に動かした。呪術が届く半径には誰もおらず、両脇には銃を構えた兵士が待機している。
(やだわ、まるで猛獣みたいな対応)
そこまで考えたところで、リンナはため息をついた。ここにいる人間は、不死者を『魔獣』と呼んで攻撃を行っているのである。
程なくして別の扉が開き、台の上に拘束されたサリタが運ばれて来た。彼は検査を終えた後でも平然とした態度で、笑顔でこちらに手を振ってみせる。
手足をもぞもぞさせながら台から降りると、サリタは優美な仕草で床に体を横たえ、本国側の参列者に向き直った。
倣ってリンナも視線を正面に戻すと、サリタが息を吸う。
「まずは、これまで我々が百年以上にわたって要求し続けてきた交渉の場を、今日こうして用意していただけたこと、深く感謝します」
微笑みながら放たれた一言で、周囲の温度が急激に下がる。
リンナは思わず顔ごと隣を振り返った。
僅かに頭を傾け、口元には笑みを浮かべて遠くの重鎮たちを正視する。サリタの横顔には紛れもなく二百歳の凄みがあった。
交渉? とアルラスが抑揚をつけずに応じた。
「我々は尋問のつもりだったが」
取り澄ました表情を保っていたナァナの眼差しに険が混じる。ますます膨れ上がる緊張感に、数十年程度しか生きていない面々は一斉に息を殺した。
「尋問のまえに、せめて口先だけでも釈明したらいかがですか? 国境線から所定の距離をあけた場所に居住し、攻撃の意思のない住人への攻撃は行わないと取り決めてあったはずです」
口を開いたナァナを、アルラスが胡乱な目つきで一瞥する。
「先に仕掛けてきたのはそちらだ。国内に侵入し、博物館等の大勢が集まる公的な施設への攻撃や線路の爆破、度重なるテロ行為に加えて、身分詐称をして潜入調査ときた」
「十年以上前から、非戦闘地帯での爆撃が相次いでいます。ただ畑に出ていただけの少年が、四肢が別れ別れになったまま毎日痛みに苦しんでいる」
「爆撃?」とアルラスは一瞬考えて、舌打ちをした。
「あちらの国に領空侵犯をするなともう一度抗議しなければならないな」
苦々しい表情で額を押さえ、彼は眉間を揉む。サリタもそれで一旦は舌鋒を納めた。
サリタは呼吸を整えると、「それで」と再度姿勢を正す。
「聞きたいのは、国内に対する攻撃についてでしょう。事件そのものはそちらの方が詳しいかな」
言いながら、彼は人差し指を立てた。
「……各集落をまとめるのは、隔離が行われる以前に生まれた者に限る、というのが我々における規則です。いわゆる不死者一世。本国を知る人間のみです」
サリタは自身とナァナを指し示す。
「しかし、時代が下るにつれて、不死者と思われていた中にも、死亡する者や、肉体や意識が保てない者が出てくる。彼が台頭してきたのはその頃でした。こちらでは、博士と呼ばれているとか」
ため息混じりの口調から、サリタの声が封じられた経緯はおおよそ察せられた。
アルラスは目を眇めた。
「その、博士というのは一体何者なんだ」
「フェメリア・ウォゼルベルの一番弟子です」
サリタが答えた瞬間、アルラスの顔色が変わる。
他の参加者らが怪訝そうに顔を見合わせているなか、彼の頬は見る見るうちに青ざめていった。
「ご存知みたいですね」
サリタは手を緩めることなく問いかけた。アルラスは肘を支えながら口元を押さえた。
「昔の呪術師だ。組織立った呪術師の集団をつくった人間で、残党は当時の王家によって弾圧された」
一旦言葉を切り、彼の口から小さな呻き声が漏れる。
……ひとり残らず断頭台に送ったのに。
物騒な一言に、サリタは目を細めただけで答えなかった。
「フェメリアは早世しましたが、その遺志を継いだのが博士です。呪術師を掛け合わせて、より強い呪術に耐えられる呪術師を作り出したり、それを量産したり」
一同の視線がいきなり集中して、リンナはどきりとした。この顔の女がたくさん存在することは、既に知られていることのようだ。
「呪術師を、量産」
険しい表情でアルラスが復唱する。
リンナは長く息を吐くと、サリタに代わって口を開いた。
「優れた呪術師なら、生物の形質を変えることは可能です。例えば、既に咲いているヒマワリをバラに変えることは現実的ではありませんが、赤いバラの種子を白い花弁の近縁種に変えることなら、私にもできると思います」
と、そこで続けるか迷って、リンナは口を噤んだ。どんなに言葉を選んでも平和的に表現できそうにない。
「それと同じように、人間も、胎児もしくは出産直後に」
皆まで言わずとも誰もが理解していた。
おぞましい解説に、辺りは水を打ったように静まりかえる。
恥じるべきことなんて何一つないはずなのに、自然と顔が下を向く。
激しく椅子が動く音に、リンナは顔を上げた。
見れば、ぶるぶると手を震わせて、父がこちらを指さしていた。
脂汗を滲ませ、恐怖に顔を歪める姿を見た瞬間、心臓が冷える。
「じゃあ、私の娘は、幼いうちに、こんな化け物に変えられていたとでも言うのか?」
掠れ声に、全員が素早く目を逸らす。
「娘を返してくれ。俺の娘を元に戻してくれよ……」
剥き出しの敵意に晒されて、リンナは思わず半歩下がった。
呪術で黙らせることはできない。
する気もなかった。




