056:いきものの流れ着くところ 3
「前門、開門します!」
緊張の隠しきれない上ずった声で、歳若い操作員が告げる。
画面を睨みつけながら、アルラスはゆっくりと唾を飲んだ。
砦の防衛において最も重要となるのは、不死者を内部へ侵入させないことである。門を開くとは自ら急所を晒すも同然の行為で、忌避感は非常に大きい。
遠隔で操作されている軍用車両が門を通過する。
ほとんど凹凸のない車両にしがみつく者、その足にさらに掴まる者の姿は、磁石に引かれる砂鉄を思わせた。
間髪入れずに前門が閉じる。ぱっと上がった血煙から目を逸らして、アルラスは額に手を当てた。
砦の構造は至って単純である。背の高い壁が国境線沿いに立ち上がり、その背後に関連施設が並んでいる。防壁に設けられた通用口は二重扉であり、やむを得ず開門する場合は、前室ですべての敵を制圧できる条件が必須となる。
入国者は、三人。多腕の不死者はサリタという名の古株で、これまでにも幾度か戦場や交渉の場で見かけたことがある。残りは若い女二人で、うちひとりはセラクト卿の長女であるエディリンナである。
入国者を腹に抱えた装甲車が、前室で沈黙した。
前室には車両が一台、そして残りの空間を不死者の群れが埋め尽くしている。
本来なら、一斉射撃や各種薬剤によって無力化を試みる場面である。危険が伴う作業であり、出し惜しみする訳にはいかない、重要な水際だった。
一度、門を開閉するだけ。それだけのことに、恐ろしいほどの注意と時間と金を要するのが、この国の国境防衛という代物である。
(それが、本当に、あの女ひとりで何とかなるのか)
誰もが固唾を飲んで、前室の様子を注視していた。
不死者たちは砦内へ続く扉に向かってしがみつき、拳や簡単な武器でもって攻撃を繰り返している。その表情や一挙一動までもがありありと窺え、アルラスは暗惨たる気分になった。
彼らはただ、真っ当な人間としての権利を要求しているに過ぎない。同じ立場なのに、どうして俺だけがこちらにいるんだろう?
考えるほどに自己嫌悪で死にたくなった。
「閣下。エディリンナを信用してはいけません。あれは、およそ人間の情緒というものを持ち合わせない化け物です」
なおも背後で言い募るセラクト卿を黙殺し、アルラスは腰を浮かせた。
管制室を出て、足早に門の方向へ向かう。
昇降機から降りてすぐに、ぴったりと閉ざされた門扉が見えた。
管制室と同様に、前室の状況が画面に大写しになっている。しかし、そんな映像などなくとも、扉一枚隔てた向こうの状況はよく分かった。
絶え間なく続く殴打の衝撃音と、いくつもの叫び声がくぐもって聞こえる。
あの向こうに、いかなる攻撃もほとんど通用しない「魔獣」が詰め込まれている。
銃を携えて門扉を取り囲む兵士たちは、皆一様に青ざめ、緊張を隠しきれない様子だった。
「あなたは騙されているんです! 私の話を――」
追って来たセラクト卿が、大きな声を出して手を伸ばし、アルラスの肩を掴もうとする。
その瞬間、全ての音が止んだ。
弾かれたように画面を振り返る。映像が止まったように見えたが、違った。
扉を破ろうとしていた不死者が動きを止め、地面へと転がる。
壁を殴ろうと振り上げた腕が、その形のまま石像のように固まり、均衡を失って仰向けに倒れるのを、アルラスは呆然と見つめていた。
まるで顔色の精彩さえ欠いたように思えた。
我に返ったときには、もはや画面内に動くものは何もなかった。
『出してください』
平坦な声が告げる。
開けてやれ、とアルラスは掠れた声で指示した。ややあって、滑らかな動きで装甲車が口を開ける。
億劫そうに姿を現したのは、白髪の若い女だった。乱れた髪を手櫛で直しながら、眩しそうに目を細めて降りてくる。
次いで異形の不死者が顔を出し、もうひとりの女がよろめきながら飛び出してくる。全員揃って髪や衣服がもみくちゃになっており、装甲車の劣悪な乗り心地が窺える。
堂々と前室を横切り、三人は並んで扉の前に立った。
その間、足元に転がった不死者たちは身じろぎ一つしなかった。
「化け物だ」とセラクト卿が呟き、その場にへたり込む。
アルラスは大きく両目を見開いたまま、凍り付いたように立ち尽くした。
「構えさせなさい」
呟くと、指揮官が手を挙げて合図を出す。待機していた兵は一斉に銃口を門に向けた。
物々しい警戒態勢のなか、扉が開く。扉を中心に、大きな半径で包囲網が築かれている。
その更に背後に立って、アルラスは目を眇めた。
扉が開いた瞬間、熱気と砂煙が押し寄せる。
人ひとりが辛うじて通れる幅から、人影が静かに進み出る。三人が門を通過すると、扉は音を立てて再び閉じた。
視界を遮る砂埃が流れ去ると、一同の喉から堪えきれなかったような悲鳴が漏れた。
見上げるように背が高い不死者である。長い黒髪が垂れ幕のように顔に影を落とし、多足類のような手足はいかにも恐ろしく見えた。
「こんにちは。歓迎いただきありがとうございます」
穏やかな青年の声が、静まり返った砦に朗々と響く。
その背後で両手を上げたまま、白髪の女が目だけで左右を窺っている。
「こちらも情報は惜しまないつもりです。なので……」
青年の声が、ふと耳に入ってこなくなった。
聞こえなくなってから、原因が分かる。
飴玉のように丸くて艶のある瞳だった。それがこちらを向いていた。
視線がかち合った瞬間、彼女が目を見張る。唇が薄く開く。
彼女は思わずといったように足を踏み出した。
一歩目が地面に着くより先に、包囲していた兵が一斉に殺気立つ。彼女は鞭で打たれたようにびくりと動きを止めると、こちらをじっと見た。
「閣下」
小さな声なのに、呼びかけははっきりと聞こえた。
リンナが微笑む。
「ただいま」
彼女の呼びかけに何と答えようとしているのか、自分でも分からなかった。アルラスは吸い寄せられるように前へ出た。
「リンナ」
小さく呻いた直後、アルラスは彼女の横に立っているもう一人の少女に気付いて絶句した。
エディリンナが口を開くのと同時に、アルラスは指をさした。
「レピテ! どうしてこんなところにいるんだ」
「えっ」とどこからともなく声が漏れる。エディリンナとレピテが顔を見合わせる。
不死者だの呪術師だのも問題だが、もっと大きな問題があった。
そこにいたのは、紛れもなく、レイテーク城で雇っていたメイドであった。
***
『ねえ、私の感動の再会があなたに潰されたんですけど。レピテちゃん、ねえ』
『それは、……すみませんって』
言い合っている音声を聞きながら、アルラスはすっかり混乱して通路を大股で歩く。
砦に入れるための身体調査中が終わるまでは、しばらく時間がかかりそうだ。負傷した箇所の手当ても不十分だそうで、先ほど軍医が呼ばれていったところだ。
一旦落ち着くために執務室に入る。机の上に放置したままの書類に目がいく。指示していた調査資料である。また不安な気持ちになる。
普段ならこうした書類を後回しにすることなんてないのに、どうしてこれだけはこんなに気が進まないのだろう?
アルラスは恐る恐る手を伸ばした。……エディリンナに関する報告書である。
渋々封を開けて中身を検め、アルラスは束の間言葉を失った。
真っ先に飛び出してきたのは、現在自分が使用している名前の、戸籍の写しである。
アルラス・リュヌエール。配偶者の欄に記された名前は、エディリンナ。
「……は?」
身に覚えがないというのはこのことだ。何度も目を擦って読み直すが、内容は変わらない。
混乱しつつも手は勝手に動き、束ねられた資料をめくる。
エディリンナ・セラクト。セラクト家長女でアールヴェリ大学卒の呪術研究者。去年の秋頃にアルラス・リュヌエールと入籍。ラント博物館襲撃事件の際に容疑者として留置所へ入れられたものの、某権力者の提言で釈放され、捜査協力を行った。
事件後は旧都外れにあるレイテーク城で生活。新年には王都を訪問し、リュヌエール公名義の別邸に滞在。
エルウィ・トートルエ保護の際に参考人として軍本部を訪問。転移装置にて旧都へ移動ののち、消息不明。
そうした内容が、書き手の混乱ぶりがよく分かる文面で記載されていた。
……だって、この報告書を信じるなら、エディリンナという女は常に自分と一緒に行動していたことになる。
(それぞれの出来事の記憶はあるのに、そこに、エディリンナがいたなんて覚えはない)
思い出せ、とこめかみに手を当てて必死に考える。
博物館の警備員が目覚めないと聞いて、病院に行かなかったか? ああ、それは覚えている。
どうやって目覚めさせたのだっけ?
(いや、それはもちろん医師が適切な処置を――)
すかさず聞こえる囁き声を、「ちがう」と口に出して否定する。医師は匙を投げていたのだ。それを、どういう訳か、ほんの数日で解決した手段があった。
あのときは驚いた。
そうだ、驚いた。その記憶はあるのに、実際に何に驚いたのか、それが分からない。
恐ろしいのは、自分がこの件に関して、今の今まで一切の違和感を覚えていなかった点である。
……自分の記憶には、明らかに矛盾と欠損がある。
机の端に放っておいた封筒が床に落ちる。その拍子に、同封されていた写真が滑り出た。かがみ込んで手を伸ばし、息を飲む。
見覚えのある場所の写真だった。軍本部にある自分の執務室の、窓際を写した写真である。
若い女が顔を真っ赤にしてこちらに手を伸ばしていた。不満げな表情ではあるが怒ってはおらず、恐らく照れている。今にも叫び出しそうに躍動感のある一枚だった。
写真に写っている彼女は、明らかに撮影者に向かって話しかけている。砕けた雰囲気が、小さな紙片から溢れていた。
「リンナ」
ぽろりと声が漏れる。漏れてから、アルラスは目を丸くして口を押さえた。声は自然と出ていた。
眉を潜めて、もう一枚の写真を見た。
自分とエディリンナが顔を見合わせて笑っている。
写真の状況より先に、自分がこんな笑顔を浮かべることができることに驚いた。
「これ、俺か……?」
写真を顔に近づけてまじまじと観察するが、やはり何度見ても自分の顔である。
(同じ顔をした別人か? そんなわけないよな)
目を細め、大きく口を開けて笑っている。こんな風に大笑いしたことなんて、もう百年以上ないと思っていた。
額に手をやる。
(少なくとも、俺は、エディリンナという女のことを丸きり忘れているわけだ)
分かったことはもう一つある。
どうやら自分はこの女のことを相当気に入っていたらしい。




