054:いきものの流れ着くところ 1
長い階段を上って、砦の屋上へ進み出た。厚い板が地面に突き立てられたような、簡単な輪郭の砦が、ずっと続いている。薄く雲がかった空がどこまでも広がり、果てで地面と繋がる。
正面に顔を向け、古い街道を見通す。
風が薙ぐ。草原がさわさわと波打ち、あちらの丘から素早く駆け下りて、水際のように砦の足元へ打ち寄せる。
この砦の向こうは、現在、我が国の地図からは省かれている。魔獣の棲む土地であるがゆえに、立ち入ることのできない未開の地とされている。
(ここは、俺の育った国だ)
草いきれが頬を包み込む。もう夏が来たのだ。そんな風に四季に思いを馳せるのは、いつぶりだろう?
柄にもない感傷に浸ってしまってから、我に返る。
不死者の共同体を攻撃し、それが失敗に終わってから今日で三日目である。太陽は既に高い位置に昇っており、指定された時間はもう目前に迫っていた。
脇に丸めた国旗を抱えながら、アルラスは束の間目を閉じた。
(不死の呪いは、完全に封印せねばならない)
胸の内で強く呟いて、瞼を上げる。
(対話の余地はない。いかなる主張がされようと、不死の呪いがこれ以上広がることは防がねばならない)
向こうの要求に応じる筋合いなどなかった。相手に期待を持たせるだけの、悪趣味な所業ではないのか?
……そうと分かっていながら、旗を結わえる紐を解いた。ばさりと音を立てて国旗が風にはためく。
雲が流れた。頭上から光が射した。遠くの森の中から人影が出てくるのが見えた。
***
青空の手前にそびえ立つ壁と、その壁上を行き交う人影がちいさく見えたのは、朝日が昇りきった頃だった。
「思っていたより早く到着しましたね」とサリタが満足げに呟く。
「二人とも、とんでもない近道ばっかり選ぶからじゃない……?」
この三日間の冒険を思い返して、リンナはげっそりとため息をつく。山を越え、川を下り、野犬に追いかけられての壮絶な行軍だった。
できるだけ頭上が開けた草原を避けるのは、これまで上空から攻撃されることが多々あったためらしい。だからといって延々と森の中を歩かされるのには正直参ってしまった。
森の端で再び盛大に嘆息したリンナを、ナァナが横目で一瞥する。
「リンナさんは普段から家に籠もって本ばっかり読んでいるから体力がないんですよ」
「それとこれとは関係ないでしょ」
言いながら、リンナは目を眇め、行く手に立ち上がる砦を睨みつけた。
(これが、東部戦線……)
まさか、「こちら」から見ることになるとは思わなかった。
背の低い草原の向こうへ、よくよく目を凝らす。砦の高さは建物三階よりはあるだろう。一切の凹凸がなく、窓のひとつも見当たらない壁は、のっぺりとして距離感を失わせる。
その足元で、蠢くものがある。
折り重なり、互いに互いの肩を踏み台にして上ってゆく。古びた廃屋を覆う蔦や、蟻の集団が木の幹を這い上がる光景を彷彿とさせた。
「国内に攻め入ろうとする不死者です。今もああして残っているのは、特に身体の再生に優れた者だと思います」
サリタが目を眇めて呟いた。
「数千人はいると思います。その中には、もはや自分の意志もなく本能的に砦を攻めている者もいるはずです」
その口調は痛ましげであり、同時に突き放したような響きもあった。
砦に取りついている不死者の姿を遠目に見る。確かに、あそこにいる不死者は彼がまとめていた共同体にはいられないだろう。
サリタは妙な実感がこもった口調で呟く。
「訓練された軍隊にとっては大した脅威ではありません。けれど、それが昼夜を問わず、一日たりとも休むことがないとなれば、話は別だと思います」
背筋にぞわりとしたものが走る。
いちど不死者が砦に侵入してしまえば、撃退が困難なのは容易に想像がつく。どれだけ鉛玉を打ち込もうが、手足を切り落とそうが決して倒れない生き物との肉弾戦なんて、分が悪いにもほどがある。
砦が損耗したとて、常に数千の不死者に囲まれていては修繕もままならないだろう。
壁を覆うようにして砦をのぼる不死者たちは、ある高さ以上には攻めあぐねているようだった。よくよく目を凝らせば、壁面に返しがあるらしい。
時おり群れの中から人影がひとつ二つ飛び出す。返しを乗り越え、むしろ足がかりにして上を目指すが、そうした不死者は壁上から射撃され、もんどり打って落ちてゆく。
「僕たちも迂闊に近づけば危ないですから、しばらくこのままで」
サリタの言葉に頷いて、リンナは息を詰めた。
そうして身を潜めているうちに、砦の上で動きがあった。首を伸ばして凝視する、目線の向こうで、その人影は旗を開き、高く掲げた。
(閣下)
リンナは目を見張る。豆粒にすら見えない立ち姿に目を奪われる。
「交渉の意思あり。幸先がいいですね」
ナァナが口元に笑みを浮かべて頷く。自信たっぷりなのは言葉だけで、彼女の横顔には緊張が滲んでいた。
一行は慎重に森から進み出た。頭上では鷹が輪を描いている。もし上空からの攻撃を察知したら、この賢い猛禽が知らせてくれることになっていた。
砦の一部分に穴が空くのが見えた。
おおよそ一般的な建物のそれと同じ大きさの開口部があったらしい。
壁を登っていた不死者たちが、一斉に動きを変え、開口部に向かって走り出す。
直後、大きな車両が開口部から飛び出した。
「あれですよ、迎えです!」
車体が激しく弾むほどの速度で、こちらへ近づいてくる。ナァナが肩を揺すぶるのを片手で制して、リンナは髪をかき上げた。眉をひそめて思わず呟く。
「……あれに乗るってこと?」
角張った鉄の箱に車輪がついているようにしか見えない。
丸まればサリタも乗れる程度には大きく、耐久性も高そうだが、お世辞にも乗り心地が良さそうには思えない見た目である。
「リンナさん、乗り物酔いって大丈夫ですか?」
「少なくとも、あんなに弾んでいる馬車には乗ったことがないわ」
車両が猛然と出発すると、砦はあっという間に再び口を閉ざした。すんでのところで侵入を阻まれた不死者たちが、開口部の周りに分厚い壁を作る。
また別の集団は、リンナたちに向かってくる車両を追って走り出している。
サリタはにっこりと微笑んで顔を覗き込んできた。
「あれ、本来は、不死者を格納するための箱ですね。あの中に入れられた者が脱出できた試しはありませんから、頑丈さは間違いないですよ。安心してください」
「それって、ほとんど棺桶じゃない! 縁起悪いなぁ」
あんまりな説明に思わず大きな声を出すと、「棺桶」と隣でナァナが呟いた。
「そうですね、棺桶なのかもしれません」
彼女の横顔はどこか投げやりに見えた。
「収容ってつまり、あれに入れるってことなのね」
リンナは言葉を失って、迫り来る車両へ視線を移した。
獰猛な駆動音が近づく。不死者たちをなぎ倒し引きずりながら、車両が肉迫する。
「まだ死んでないのに埋葬されたって困るわ」とナァナは呻いた。
車は横滑りしながら眼前で急停止した。地面が抉れ、土煙が厚く立ち込める。
躊躇した直後、車両の一面が音を立ててこちらに向かって開いた。
誰より先に走り出したのはナァナだった。次いでサリタが手足をいくつも使って動き出す。
「リンナさん、早く!」
呼ばれても、咄嗟に足が動かなかったのには、訳があった。
追って来た不死者たちは、表情まではっきり見えるほどに近づいていた。
(泣いてる)
同じ年頃の青年だった。髪と髭が長く伸び、全身は汚れ、ぼろ布のような衣服を身に纏っていた。
腕を伸ばして、足首を掴む。その弱々しさにリンナは息を飲んだ。
まっすぐにリンナを見上げて、何かを言おうと、唇を開く。
「見ちゃ駄目だ!」
ぐいと腕を強く引かれて、我に返る。サリタの両手が肘に絡みついた。
「あなたが、今、助けられる相手じゃない!」
顔を背けるのには、胆力が要った。
力を込めて足を振りほどき、サリタに引っ張られて護送車に肩から転がり込む。派手な音を立てて扉が閉まった瞬間、三人を乗せた車は唸りを上げて走り出した。
「わーっ!」
車内には椅子や固定具の類はなく、リンナは車に転がり込んだ格好のまま宙に浮いた。慌ててサリタが腕を捕まえた、と思った直後に、今度は尻から床に叩きつけられる。
「痛っ!」
がん、と鈍い音とともに、後頭部を押さえたナァナが目の前を転がってゆく。反対側の壁に額から激突し、呻き声を上げている。痛そうだ。




