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045:古道をゆく 1



 レイテーク城に予期せぬ来客が訪れることは、まずありえない。なにせこの城の実質的な玄関口は湖に面しており、本来の正門はもはや使われていない街道と接続している。


 だから、深夜の旧正門前に人の反応があったとき、ヘレックは腰を抜かさんばかりだった。


 城主はここ半月くらいずっと城を離れて音沙汰ひとつないし、城主に呼ばれたと言って城主夫人が大慌てで出かけていったと思ったら、その日の内に帰宅の連絡があった。

 ところが、彼女は迎えにいった同僚のメイドと一緒に姿を消した。


 相談しようにも、そもそも城主の連絡先を知らない。

 その晩はずっと居間にいたが、消えた住民はついぞ帰ってこなかった。そのまま既に三日が経つ。


 そんな状況だったので、真夜中の報せにもかかわらず、ヘレックはすぐに起き出して制御室へ向かった。


 数々の魔道具によって制御されているレイテーク城は、守りに関しても盤石である。往時、大勢の兵士によって守られていた時代よりはるかに安全だ、と城主が胸を張っていたのを思い出す。

 何でそんな昔のことを見てきたかのように語るんだと言いたかったが、雇用主の冗談に水を差すのも憚られて言えなかった。

 とはいえこの城が住人以外の侵入を断固として弾くのは確かである。


 事実、制御室に設置されたモニタには、門に取り付けられた魔法灯の下で立ち尽くす女の姿が映っていた。

 昨日の昼過ぎから降ったり止んだりを繰り返しての悪天候だ。今なお降り続く小雨が、彼女の肩を濡らしていた。

「なにか御用ですか?」

 通信機に向かって声を発すると、画面の中で女がぴんと背筋を伸ばす。


 背が高く、細身ながら筋肉質で、金髪を顎の高さで切り揃えている。

『夜分に申し訳ない。城主のリュヌエール公を呼んでいただきたい』

 警察とか軍人のような、やたらにかしこまった物言いである。


 城主が阿漕な商売に手を出していて、その摘発に来たとか? でも一人で、こんな時間に来るだろうか。

 首を傾げながら、ヘレックは「申し訳ありませんが」と応えた。

「城主は半月近く前から戻っておりません」

『……そんなはずはない』

 女が怪訝な顔をするのが、薄暗い画面の中でも分かる。


『三日ほど前の深夜に帰宅しているはずだ。ちょうどこれくらいの時刻だったと思う』

 なんでそんなに断言できるんだろう? ヘレックは当惑しながら、城門で記録される出入りの履歴を参照した。

 女の言う時間に、城主が帰還したという記録はない。そう答えてから、あれ、とヘレックは瞬きをした。


「……奥方さまが、三日前に帰ってきている?」

 エディリンナ・リュヌエール。城主夫人の名である。三日前の、ちょうど今くらいの時間に入城した記録が残っていた。場所は、現在使われている湖に面した門ではなく、いま女が立っている旧正門から。


(リンナさんが城に帰ってきたのなんて、見てないぞ)

 ヘレックは眉根を寄せる。

 と、同じく来客の通知音を聞いて起きてきたロガスが、寝ぼけ眼を擦りながら制御室に入ってきた。


「こんばんは。お名前と身分証を見せていただいても?」

 欠伸を噛み殺してから、執事がしっかりとした声で問いかける。女は我に返ったように頷くと、懐から手帳を出し、カメラに向かって掲げてみせた。

『軍の国境防衛部から来たリナリー・イーニルと申します。一昨日からリュヌエール公と連絡が取れず、お目通り願いたく訪問しました。このような深夜に、前触れも出さず申し訳ない』

「分かりました。入ってください」


 ロガスがあっさり頷くので、ヘレックは目を剥いた。この城には住人以外を決して入れるなという命令ではなかったか?

 思わず振り返ると、ロガスはそっと人差し指を口元に立てた。

「旦那さまの名前を知っている軍の人間は入れても良い、と伺っています」

 どうも、本来なら自分が知るはずでない内緒の決まりらしい。


 制御室から門の施錠を解除すると、ヘレックとロガスは揃って旧正門に向かった。角灯を高く掲げて、古い城を突っ切る。

「ロガスさん。三日前の夜中に奥方さまが帰ってきた記録があるんです。なにか伺っていませんか?」


 早足で歩きながら切り出すと、ロガスが目を丸くした。自分たちは揃って寝耳に水というわけだ。


 時刻はもうじき日の出という頃に差しかかっている。窓の外、遠くの空が僅かに白んでいるのを横目に、ヘレックは慎重に口を開いた。

「僕の聞き間違いかもしれないんですが、三日前の朝方、銃声みたいな音、聞こえませんでしたか」

 ロガスは眉を上げて首を振る。彼の居室は居間から離れているから、物音が聞こえないのは不思議ではない。


 ヘレックは頭の中に見取り図を思い浮かべた。ロガスの部屋までは音がしないとなると、音の方向は……。

 通用口から外へ出る。古い広場を横目に眺めながら通路を急いでいると、行く手から早足で近づいてくる影があった。

 画面で見たのと同じ姿だ。身分証には少佐とあった。


「このような時間に大変申し訳ない」と彼女は一礼する。きりりとした顔立ちと表情だが、疲れは隠し切れていなかった。

「まさか、旧都から湖を回り込んで歩いてこられたのですか」

 頭上に傘を差し向けながら、ロガスが恐る恐る問う。イーニルは口角をわずかに上げただけの笑顔で頷いた。

 平然と首肯する姿に、内心で戦慄する。ここまでいったい何時間かかることか、考えるだけでぞっとした。


 イーニルは固辞せずに傘を受け取ると、周囲を素早く見回す。

「閣下は、本当に戻っておられませんか」

 小雨と朝靄が入り交じり、見通しは最悪と言ってよかった。「はい」と頷きかけたそのとき、ロガスが一点を見つめて動かなくなる。


 ロガスの視線の先に目を凝らす。

 柱が立ち並ぶ広場の中央に、岩のような影が転がっている。


 何だろう、と首を傾げた直後、イーニルが傘を捨てて走り出した。薄く水の張った石畳の上を、飛沫を上げて走ってゆく。ヘレックは傘を拾うと、わけも分からずその背中を追った。

 岩だと思っていた影が人だと気付いた瞬間、絶句する。


 一足先に到着したイーニルが、城主の肩を強く揺すった。「閣下」と呼びかける声が張り詰めている。

 無理もない。野外でうずくまったまま動かない城主の姿は、誰の目にも常軌を逸していた。


 肩で息をしながら、ヘレックは呆然と立ち尽くす。追いついたロガスが、同じように言葉を失うのが分かった。

 古い石畳の上で、地面に膝をついた姿勢のまま、虚空を見据えて微動だにしない。その肩はゆっくりと上下しており、時おり瞼が上下することからも、彼が生きていることは明らかだ。


 それなのに、長い間風雨に晒されてきた石像のように荒れ果て、生気のない姿だった。

 雨に濡れた背が丸い。額や頬に黒髪が張り付き、無精髭が生えている。


「一体、いつから……」

 ロガスが呟く。

 ありえない可能性が脳裏をよぎった。

「まさか、三日間ずっとここに?」

 小さな声で漏らすと、イーニルが息を飲む。


 ロガスは城主のそばに膝をつくと、肩に手を回して顔を覗き込んだ。小さな声で呼びかける。見間違いでなければ、唇は「父さん」と動いていた。

「何があったんですか?」

 五回目の呼びかけで、ようやく彼は僅かに頭を上げ、ロガスを振り返った。目の縁は真っ赤で、頬からは血の気が失せている。


「リンナが」

 ひび割れた唇が囁いた。

「俺が、リンナを」


 視界の隅で朝日が昇ってくる。雨雲を突き破ったあえかな光が、城主の額を照らし出す。


 そのとき、ふいに城主の目が焦点を失った。


「旦那様? リンナさんが、何ですって?」

 中空を見上げたまま動かなくなった城主に、ロガスが焦れたように問いかける。

 城主は今初めてロガスに気付いたというように顔を向けた。「ああ、ロガス」と、呼びかけた声は雑談でもするかのようだ。


 城主は数日間に渡って雨風に晒された自身の体を不思議そうに見下ろした。それから指を組み、前方に向かって伸びをする。

「何の話だ? そのリンナってのは、誰のことだ」


 イーニルがよろめく。ロガスはゆっくりと目を見張る。

 ヘレックの脳裏には、先ほど見た城の入退場の記録が浮かんでいた。どうも、三日前のこの時間に何かが起こったことは間違いなさそうだ。


 城主はイーニルを見咎めて怪訝な顔になる。

「丸二日、音信不通でしたので、緊急の事由と判断し、こちらまで捜索に参りました」

「そんなに急ぎの用件があったか?」

 イーニルは言いづらそうにこちらを一瞥したが、どうでも良くなったように嘆息した。


「例の作戦に関しまして、セラクト卿が詳細を相談したいと仰せです」

 城主は数秒目を細めてから頷く。

「わかった、すぐに行く。……それで、どうして俺はこんなところにいるんだ?」


 イーニルは恐怖したように顔を歪めた。口を開閉させ、それから、か細い声で「かしこまりました」と囁く。

 平然としているのは城主ただ一人だった。



 ***


 ナァナとともに何日もかけて東に向かって鉄道を乗り継ぎ、リンナが辿り着いたのは生家の周りと大差ないくらいの辺境だった。

 ここまで来る間にさぞかし軍の検問に引っかかると思っていたが、覚悟に反して軍の包囲網はほとんどと言っていいほど存在を感じなかった。アルラスは自分を大人しく行かせることにしたのだろうか、と内心では妙な気がした。


 改札を出たところで、リンナは腰に手を当てる。

「……それで、どうやって国境線を越えるつもりなの? 結界に不用意に触れると弾かれるし、軍にも気付かれるでしょう」

 ナァナは得意満面で指を振った。


「懇意にしている農家がいるんですよ。知っていますか? 牛の放牧なんかをやっている農家の近隣は、出入りを禁止する結界が張られていないうえ、監視も緩いんです」

 ああ、とリンナは小さく頷く。軍の本部に行ったときにちらりと聞こえた話題である。


「多分それ、既に対策されていると思うわ」

 アルラスが額を押さえていたのを覚えている。国境警備を何だと思っているんだ……とはまさに正論である。彼が指摘した穴が、これまで堂々と侵入に使われていたらしい。


 経緯を説明すると、ナァナは口をあんぐり開けて固まった。

「余計なことを」

「閣下は何も悪いことしてないでしょ」

 ナァナは盛大なため息をついて腕を組んだ。「やりたくないけど、あれしかないか」と呟く。


「『あれ』って?」

 聞き返すが、ナァナは説明せずに歩き出した。

 国境線近くまで鉄道が敷かれているのは、近くに軍の施設があるためだろう。駅からはまだ線路が続いていたが、そちらは軍の物資を輸送するためのもので、砦へ直接引き込まれている。一般の利用客にとっての終点はこの駅になる。


 駅を出ると見晴らしの良い平地が広がっており、のどかな田舎町が出迎えてくれる。

「お姉ちゃんたち、こんな村に何の用だい」と通りがかった農夫が馬車を止めて怪訝な顔をする。

「こんにちは! わたしたち、大学の調べ物で来てるんです」

 ナァナは屈託のない口調で答えた。


「学生さんか」と農夫は頷いたが、こんなところで何の調べ物だろうと言いたげだった。

「ランドスケープの観点から、植生と農村形態の関係について調査を行っているんです。お話を伺ってもよろしいですか?」

 リンナは素早く口を挟み、できるかぎり気取った微笑みを浮かべる。農夫はあっという間に退散した。ナァナが眉を上げる。嫌味なインテリ気取りだと言いたいらしい。


「なにか文句ある?」

「リンナさん、そういうところ、ちょっと鼻につきますよ」

「私、大学、首席卒業」

 自身を指して答えると、ナァナは肩を竦めた。


「わたしも大学、行ってみたいです。でもこの身体じゃ無理だもんなぁ」

 そういう言い方をされるとこちらも何も言えなくなる。堂々と往来に向かって歩き出したナァナを追って、リンナは深呼吸をした。


 集落を抜けて農地に入る。柵で区切られた畑を左右に眺めながら、行く手に見える杭を見透かした。

 杭は等間隔に並んでおり、それぞれの距離は二十歩ほど。高さは胸ほどしかないが、よく見ると頭上の高さまで薄い膜のようなものが張っているのが分かる。魔術による結界である。

「どんなに弾みをつけても、これを越えることはできない……のは知っているわよね?」

「はい」とナァナは頷いた。

「まあでも、何事にも抜け道というのはあるもので」


 言いながら、彼女は鞄の中から使い古した巾着を引っ張り出す。中から出てきた小さな鐘には見覚えがある。レイテーク城の湖畔にナァナが下げていた鐘と同じものだ。

「聞こえるかな」と呟きながら、ナァナは鐘を高く掲げて揺らした。りぃん、と澄み切った金属音が高らかに響く。


 杭に沿って歩き続け、足が痛んできた頃、ナァナが声を上げて指をさした。

 遠い空に黒点が浮かぶ。点に見えていた輪郭は徐々に鮮明になり、大きな翼を広げた猛禽類の形に変わった。

 もう随分大きいと思ったのに、まだかなりの距離があることに気付いて、リンナは慌ててナァナに掴みかかった。


「え! なに、なに、あれ」

「百年かけて仕込んだ鷹です」

「そんな馬鹿な……」


 翼をぴんと広げ、鷹は見る見るうちに近づいてくる。あまりに大きすぎる身体は、通常の鳥類とは異なる威容があった。リンナとナァナで手を繋いで両手を広げたより、さらに大きく見える。

「不死の呪いと、体を大きくする呪いがかかっているのね」

「そうみたいですね」

 体を固くして見守ること数分、鷹が頭上を通り抜けたのを見て、リンナは目を丸くした。


「要するに」とナァナが天を指さす。

「国境線には結界が張られていますが、高さには限りがあります」



 ……高いところは好きだけど、それは安全が確保されているのが大前提だ。

 鷹に肩を掴まれ、宙づりにされたまま国境線を越えたリンナは、地面に這いつくばって心臓を押さえた。


「死ぬかと思ったわ……」

 ぜいぜいと息をするリンナをよそに、ナァナは平然と腰に手を当てる。

「さ、早くしないと軍の爆撃に晒されますよ。国境線を越えたら市民もなにも関係ありませんから」

 冗談には聞こえない忠告に、リンナは重い体を起こして再び歩き始めた。


 杭が並んだ国境線をひとつ越えただけなのに、まるで別世界のようだった。人の手が加えられた農地は姿を消し、腰ほどまで高さのある草原が広がっている。行く手には黒々とした森があり、そこが当面の目的地らしい。

 ひと仕事終えた鷹が、再び翼を広げて高く舞い上がる。大きく旋回する影を頭上に捉えながら、リンナはひたすら前方を睨んで歩き続けた。


 旅路はそれから五日程度続いた。

 森の中に入ると小さな馬車が待ち構えていて、詳しい場所が分からないようにと目隠しをされた。


「ヴェルシトス地方ってところのロランチェじゃないかって、閣下が言ってたわ」

 何の気なしにそう言ってからは、目隠しは外された。アルラスの見立ては正解のようだ。

 森の中の道は狭いがよく手入れがされており、樹冠は閉鎖して上空からは見えないようになっている。

 馬車で迎えに来たのは三十路ほどに見える痩せた男で、聞けばエルウィを逃がす際にも同行したという。


 目的地の集落とやらを目前にする頃には、御者台に座って景色を見る余裕すら出ていた。

「エルウィを攫って監禁していたのって、博物館を爆破したのと同じ人なのよね? こちらでは博士って呼ばれているわ」

「ああ、それは言い得て妙ですね」と、男とナァナは顔を見合わせて得心顔だった。

「それで、あなたたちは博士とは対抗する勢力にあたる、のよね」


 はい、とナァナは頷いた。

「これから、我々の長のところへ案内します」

 前方に街が見えている。リンナは唇を引き結ぶと、背筋を伸ばした。


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