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041:歴史の足音 7


 リンナと違って、アルラスは軍本部の正面玄関を出入りすることはできない。転移装置を使用して、城とこの階を直接移動するのが決まりのようだ。

「戻ったら、いろいろ聞きたいことがある」

 昇降機の前で、アルラスは抑えた声でリンナの髪に触れた。編み込みを指先でなぞり、一房をすくい上げる。


 そうしながら、難しい顔で首を傾げた。

「なにか?」

「いや……なにか、引っかかるものが、あって」

 リンナの髪に手をかざしながら、目を細める。彼が想像している色は分かっていた。


 目を逸らして唇を噛む。アルラスは気を取り直したように息を吐くと、肩に軽く手を置いた。

「これから、まだ色々と……決定を下さなくちゃいけないことがある。夜には一度戻るつもりだ」

 彼の表情は少し前の固いものに逆戻りしていた。頑なな眼差しが、これ以上の干渉を拒んでいる。


 分かりましたと頷いて、リンナは小さく手を振った。背後で昇降機から到着音が鳴る。

「じゃあ、また」

 そう言って体を反転させようとしたとき、アルラスが声を上げた。怪訝に視線を上げると、彼は自分でも驚いたように口を押さえている。

「どうしたの?」

「いや」とアルラスはしどろもどろに呻いた。その視線がふらふらと斜めを見てから、ゆっくりと降りてくる。


 迷子の子どものような顔をしていた。そんなはずがないのに、今にも泣きそうな顔に見えた。

 リンナは周囲を素早く窺うと、踵を浮かせて手招きをする。耳打ちされると思って顔を傾けたアルラスの頬に軽く口づける。

「は?」

「じゃあ、失礼します」

 呆気に取られているアルラスを残して、リンナは今度こそ踵を返した。


 昇降機に乗り込み、扉がゆっくりと閉じてゆくのを見守る。扉の隙間からアルラスの立ち姿が見えなくなる寸前、彼は苦い顔で手を振り返してくれた。



 イーニルとその部下に囲まれて、軍本部を出る。

 広いロビーを通り抜けるとき、反対の渡り廊下から、見覚えのある体躯が出てくるのを見た気がした。


(お父様……)

 咄嗟に体を固くする。イーニルは何も気付かない素振りで歩き続けている。背の高い彼女の影に隠れるように早足になって、リンナは顔を背けた。


 父が、軍の上層部に名を連ねていることは知っている。だから、本部で姿を見かけることは何もおかしくない。

 気がかりなのは、父が、今にも小躍りしそうな笑顔で歩いていたからだった。


 権力に興味のあるひとではない。あの人が好きなものは、新しい兵器とか、大きな軍隊とか、……戦争である。

 嫌な感じがした。



 来たときと同じ経路で転移ステーションへ戻る。旧都行きの便は需要の少なさから定期便が存在しないため、通常なら最低一日は待たなければならないが、今日はアルラスが強引にねじ込んだそうだ。

 前に、権力の使いどきがどうとか言ってなかった?

 リンナ一人を帰宅させるために国家権力を振りかざすとは、あのときのアルラスが聞いたら大袈裟に嘆きそうだ。


「それでは、私はここまでで」

 搭乗口前の通路で、イーニルは踵を揃えて立ち止まった。相変わらず職務上の立場に忠実な人である。それだけに、先ほどの写真に関する狼藉が印象的だった。


「イーニル少佐」

「はい」と、彼女は金髪を揺らして頷く。他に一般の利用客の姿がないのを確認して、リンナは慎重に切り出した。

「閣下が言っていました。もうじき片がつくって話は、本当ですか?」


 瞬間、イーニルが一線を引くのが見えるようだった。

 彼女はただ一声「お気をつけて」という挨拶だけを発して、それきり黙り込んでしまう。


 リンナは嘆息すると、挨拶を返し、搭乗口に向かって歩き出した。角を曲がるまでイーニルがこちらを見ているのが感じられた。

 別の行き先なら大勢が旅行鞄を持って楽しく語らっている渡り廊下を、一人で歩く。


 頭を巡っているのは、国境線の向こうのことである。

 ……壁のこちらに来い、君の正体について教えてやる。

 アルラスは国境線の向こうにいるものについては教えてくれたけれど、リンナの正体がどうのといった話題には言及しなかった。彼自身も分かっていないのではないだろうか? だから触れようとしないんじゃないのか。


 転移装置のある部屋に入ると、係員に混じってもう一人、乗客と思しき女が待っていた。小柄な女で、つばのついた帽子を目深に被って顔は見えない。

 あれ、とリンナは目を瞬く。この便はアルラスが無理やり用意させたもので、他に利用者はいないと思い込んでいた。

 あとから乗客が増えたのだろうか?


(まあ、そういうこともあるわよね)

 リンナは一拍おいて納得すると、係員の合図に従って転移装置の狭い空間に潜り込んだ。座席の上で鞄を胸に抱えて膝を折る。あとから入ってきた女が、隣の座席に腰を落ち着ける。

 金属製の扉が、音を立てて閉じられる。低い天井に取り付けられた小さな魔法灯だけが、乗客二人を照らしていた。


 ふう、と疲労感をため息で逃がそうとして、慌てて飲み込む。相乗りというのはどうしても気を遣う。

 それもほんの数秒のことである。列車を使えば二日三日はかかる旧都まで、転移技術があればひとっ飛びだ。

 外で操作員が最終確認を行っている声が聞こえ、ふっと体が軽くなる。転移の前触れである。


 そのとき、耳元で静かな声が囁いた。

「……旧都行き、特別便。いいご身分ね」

 リンナは弾かれたように顔を横に向けた。


 女が帽子を脱ぎ、鼻先が触れ合わんほどの距離でこちらを向く。

 密閉された小さな空間で、白い髪が水のように、音もなく滑り落ちた。


「初めまして、お姉さま」

 眼前に鏡を突きつけられたようだった。女のひび割れた唇が弧を描き、ちらと歯が見える。

 自分と同じ顔が、笑っている。

 荒れた手が頬に触れた。瞬間、視界が暗転した。



 目を開ける。


 樹冠の隙間から、金色の木漏れ日が降り注いでいた。転移ステーションを出たところの、森を抜ける木道だ。

(あれ?)

 旧都まで転送され、施設を出るまでの記憶がぼんやりとしている。


 その前のことなら覚えている。一人しか客はいないと思っていたのに女がもう一人いて、それで……

(……あれは、私だった)

 誰もいない道の半ばで立ち尽くして、リンナは心臓の上に拳を押し当てた。


 呪術で操られていたのだ、と気付く。呪いをかけられるのは初めてだ。

 そもそも、自分以外の人間が呪術を使うのをみること自体、初めてだ。

 乗客が増えていたのは、あの女が係員に何か細工をしたのだろう。そんな芸当ができるのは、呪術だけだ。少なくとも自分なら同じことができる。


 足元がぐるぐると回っている。

(私がもう一人いるわけ、ない)

 否定しながら、既に結論は出ていた。


(エルウィは、博物館を襲った犯人は私と同じ顔をしていたと言っていた。それを信じるなら、私と同じ顔をした人間がもう一人いることになる)

 つまり、転移装置に乗っていたのは、あの爆破を企んだ犯人そのひとだ。



 瞼の裏に浮かぶ光景があった。

 川の上に飛び出した小柄な影に向かって、手を伸ばす。真っ白なローブを掴んだ。

 中には誰もいなかった。


 水に落ちたあと、同じ人間を、ひとつ下流の橋で見た気がした。


 皮膚の下を、沸き立つような恐怖が走り抜ける。同時に、抗いがたい好奇心が突き上げてくるのを無視するわけにはいかなかった。


 これは、対岸の火事ではない。

 これまでの推論や、アルラスが語ってくれた過去の断片、そうしたものが、ほんの数分前、実体となって目の前に立ち現れ、頬を撫でたのだ。

(狙われているのは、私)

 冷たい風が吹き寄せる。リンナは身震いした。



「あ、奥方さま!」

 考えを巡らそうと視線を下げたとき、前方から聞き覚えのある声が響いた。

 レイテーク城に帰るときは、湖のこちら側まで誰かに迎えに来てもらわなければいけない。湖沿いの荒れた道を徒歩で踏破するのは勘弁したい。


 今日はレピテが来てくれたらしい。

「聞いていた時間になってもなかなか湖まで降りてこられないから、心配になって上がってきたんですよ」

 レピテの手には買い物袋が下がっている。湖岸で舟を着けて待っているのが決まりだが、買い出しついでに、転移ステーションまでわざわざ坂を登って迎えに来てくれたようだ。


「……どうされました?」

 道の真ん中で立ち尽くしているリンナに、レピテは怪訝な顔で駆け寄ってくる。

「今日はきっと王都で一泊されるだろうって、みんなで話していたんですよ。日暮れ前に帰ってこられたんですね」

 冬が過ぎ、夕方は日増しに足を伸ばしている。レピテは夕陽を背に近づいてくると、目の前で立ち止まった。身動きしないリンナの手を掴んで、軽く揺する。



 レイテーク城が普通の貴族のお屋敷で、リンナが普通の貴婦人だったら、彼女の態度は即刻解雇になるレベルである。たまにヘレックが肝を冷やしているのが見えることがあるが、十代の少女のすることだ。目くじらを立てるほどじゃない。

「リンナさん、おかえりなさい」

 その一言で、膝から力が抜けた。


 レピテが慌てて地面に崩れ落ちたリンナを抱き起こす。

「大丈夫ですか?」

 反対の山向こうに沈んでいこうとする太陽から、赤みがかった金色の陽射しが筋になって斜面を照らし出している。

 坂の下の湖が、黄金色に光っている。あれよりはるかに大きな、海とかいうものが、国境線の向こうにあるらしい。


 リンナはレピテの肩に縋りついたまま、呆然と虚空を見つめていた。

「今日は、どんなご用事だったんですか?」

 レピテの声は優しい。いくつも年下の女の子なのに、労るような口調はまるで年長者のそれだった。

 彼女の手を借りて、ゆっくりと立ち上がる。


 ……一緒に転移装置に乗っていた女は、どこに行った?


 それに気付いた瞬間、リンナは戦慄した。咄嗟に周囲を窺うが、他に人影はひとつもない。

 レピテは不思議そうに視線を追って背後を見た。

「リンナさん。今日はどこへ行ってきたんですか? 何かありましたか?」


 気配を探ろうと息を殺す横で、レピテが矢継ぎ早に話しかけてくる。

「ごめんなさい、今はちょっと、」

 黙ってもらえる――そう言おうとしたときのことだった。




「あ」とレピテは声を漏らした。




 宙に置くように買い物袋を放り、片足を下げてくるりと体を反転させる。春らしい色の外套が、羽根のように広がる。

 片手を懐に差し入れ、取り出した拳銃を振り上げ、一呼吸で照準を合わせ、そうしてレピテは、木陰に隠れていた女の胸を撃ち抜いた。



 銃声が山々に木霊する。硝煙が銃口から細く立ち上る。

 リンナは振り返る途中の姿勢のまま凍り付いた。森の中から女がこちらを見ていたことにも、気付かなかった。


 女は驚いた表情で胸に手をやった。互いの瞳に互いの姿が映る。同じ顔をしている。

 リンナと、同じ顔の女が、そこにいる。


 撃たれた女の体はゆっくりと前傾した。その体が地面へ激突する――はずなのに、物音はただのひとつもしなかった。

 袋が弾けるように、ぱっと白い灰が舞い上がった。

 服はただの布地になり、音もなく地面に落ちる。灰の上に大きな帽子が着地し、細かな粒子が煙のように飛び上がった。


 女の姿はどこにもない。何が起こったのか、全く分からなかった。

 レピテは拳銃を構えたまま周囲を見回す。誰もいないと判断しても、彼女は銃をしまおうとはしなかった。

 顎を引いて、レピテは普段通りの笑顔で小首を傾げた。

「リンナさん。元婚約者のエルウィさんは、無事に保護されましたか? 伝言はお聞きになった?」


 考えるより先に後じさっていた。両手を前に突きだし、呪文を頭に思い浮かべる。硬直? 自白? 銃をしまうように命じる?

「ごめんなさい、驚きましたよね」

 レピテは苦笑して肩を竦めた。妙に洒脱な仕草は、うら若い少女のそれではない。


「でも、わたしがいなければ、数時間後には旧都が火の海になっているところでしたよ」

「海を知っているの?」

 噛みつくと、レピテは「あっ」と口元を押さえた。


 えへへと可愛らしく頭を掻いて、彼女は腰に手を当てる。

「リンナさん。これは脅しじゃなくて、お願いです。……わたしと一緒に、来てください」

 額に銃口を押し当てて、レピテは甘えるように囁いた。


「お断りよ」とリンナは素早く返す。「口車に乗るなって言われているの」

「旦那さまがそう言ってた?」

 レピテの笑みが冷ややかなものに変わる。ずいと身を乗り出し、これ見よがしに引き金に指をかけてみせる。


「じゃあ今まで通り、湖の奥の誰も近寄らないお城に閉じこもって、時代遅れの資料に溺れていれば良いでしょ」

 彼女の眼差しには焦りがあった。こちらを脅迫しながら、自らの退路も断っているようだった。

 レピテが呻く。

「そうしている間に、全部なかったことにされるのよ」

「……どういうこと」


 リンナは低い声で相手を睨みつけた。レピテは肩を竦めて、鞄から小さな封筒を取り出した。

「これ、なーんだ」

 目を細める。「手紙?」と呟くと、レピテは満足そうに頷く。

「そう。旦那様の私室にある机からくすねてきた、リンナさんへの私信です」

 何てことをしているんだ。そう詰問しようとしたが、興味の方が僅かに先に立った。


 ひらひらと手紙を泳がせてみせるレピテの手から、封筒を奪い取る。

 宛名には確かにアルラスの字でリンナの名が記されていた。

(渡されたわけでもないのに、勝手に見ちゃ、駄目)

 良心の呵責に苛まれながらも、手は自然と封を切っていた。



 遠くで陽が沈む。影が長く引き延ばされ、枝先の細かな輪郭が溶けて暗がりと混じり合う。

 書き出しの一文目が目に入った瞬間、心臓を握りつぶされるような心地がした。


『君がこの手紙を読む頃には、俺は既にこの地上にはいないだろう』


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