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040:歴史の足音 6


 アルラスは膝を曲げて目を合わせると、子どもに言い聞かせるように優しく小首を傾げる。

「リンナ、約束できるな? あの男の言葉に乗せられて、変な気を起こしたりしないって」

「国境線の向こうにはなにがあるの?」

 要求に応えず問いかけると、アルラスの纏う気配が剣呑なものになる。


「この国は、壁の向こうから攻撃されているの?」

 彼は口を開かなかったが、激怒しているのがよく分かった。視線だけで着火できそうだ。

「だとしたら、あちらにいるのは何……いえ、誰なんです?」

 どうせ答えてくれない。言わない方が良い。そうと分かっていても、口は止まらなかった。


「……どうして、呪術は、なくならなくちゃいけなかったの?」

 声が震える。アルラスは瞬きひとつしない。


「私は何者なの?」

 彼が返すべき答えを持っていないことを知りながら、リンナは顔を歪めて問いかける。

「向こうに行けば、その答えが分かるの?」


「参ったな」

 彼は一声呟くと片手を離し、大袈裟なため息をついた。

「長いこと生きてきたが、呪術師になりたいと思ったのは初めてだ」

 緩慢な仕草でリンナの額を撫でた。指から逃げるように顎を反らすと、後頭部が壁にあたる。避けようとしても彼は手を引こうとせず、そればかりか肩を壁に押しつけて固定する。


「俺が言って聞かせて、素直に聞き入れるような質ではないからな」

 前髪をかき分け、額に指の腹を押し当てたまま目を閉じる。頭を垂れて壁に額をつけ、彼は聞かせるつもりの独り言を漏らした。


「……俺に呪術が使えたら、君の頭を馬鹿にしてしまうのに」

 恐る恐る見上げた先で、アルラスは薄く瞼を開いてこちらを正視していた。

 視線を受け止めて、腹落ちするものがあった。この人は、本当の本当に、自分以外の人間すべてを守るべき幼児だとでも思っているのだ。


 その手に優しく触れて、頬まで下ろさせた。両手でアルラスの手を捧げ持ち、頬ずりをする。冷たく強ばっていた五指が徐々に柔らかく綻び、耳元をくすぐった。

 目を細めて、リンナは慎重に口を開いた。

「私は、今日、こうしてここに来られて良かったと思っています」


 アルラスは返事をしなかった。俺はそうは思っていない、と顎の皺だけで語ってくれる。

 同じように深い溝が彫れている眉間を撫でて、リンナは答えの分かっている問いを投げかけた。

「ねえ閣下。もし私があなたを死なせることに成功したとして、私は自由の身になれるの?」


 アルラスの瞳が揺れる。長い沈黙を挟んで、「難しい」とだけ呻く。

「君は既に知りすぎている。……こんなはずではなかった」

 頷くと、彼は手を下ろし、数歩下がった。ほかに誰も残っていない尋問室で後じさり、机に浅く腰を預けて項垂れる。

 真上に取り付けられた照明が、彼の頭や肩を照らしていた。


 壁に背を付けたまま、リンナは一息で告げる。

「私が不死の呪いを作るのがそんなに怖かった?」

 アルラスは弾かれたように顔を上げた。どうして、と唇が動く。

「そこまで気付いていたのか」

 リンナは薄く微笑んで頷いた。

 ……この一言にどれだけの覚悟が必要か、彼はちゃんと分かっているだろうか?


 気付いていたって、保身のために馬鹿のふりをすることなんて、いくらでもできるのだ。化かし合いだって、絶対に負けない自信がある。

 それでも手札を明かす理由なんてひとつしかない。


「私、閣下と一生一緒にいる覚悟くらい、もうできているのよ」

 彼の瞳の奥に宿った光を、じっと見透かしていた。放った言葉が、二百年分の時間を反響して、ふたたび戻ってくるのを待った。

 アルラスは視線を逸らさないまま、扉の方を指さした。細い隙間を残していた扉が、音を立てて閉じる。

 リンナは肩が跳ねるのを意思の力で抑え込んだ。臆した様子を僅かにでもみせてはならないと思った。


 彼は昏い目で中空を見ている。

 長い沈黙を挟んで、薄い唇から掠れ声が漏れた。


「俺が生まれた時代は、歴史上類を見ないほど、呪術師による騒動が多発した頃だった」

 分かるか、と彼が頬を吊り上げる。

「貴族たちでさえ呪術師に金銭を払い、政敵を死の呪いで暗殺するように依頼した。証拠が残らないし、確実だからだ。死の呪いを受けて生き残る人間は、この世にいない」


 限られた史料から思い描いていた光景と同じ構図だ。頷いたリンナに、アルラスが苦笑する。

「俺は、十歳になるかならないかのうちから、呪術師と手を組んだ貴族連中を相手に、何度も戦場に出された。その頃使われていた剣や槍では、呪術師に勝てなかった」

「そんなに小さな頃から?」

「そういう時代だったんだよ。今でも、ふさわしい責務だったと思っている」


 口では納得を示しながら、彼が酷く傷ついているのは明白だった。それでいて彼は、おいそれと慰めを受け入れるつもりはないと頑なな立ち姿で物語っている。

 アルラスは目を逸らさないまま話し始めた。



 状況が変わったのは、戴冠式の日である。

 王へ放たれた死の呪いを退け、王弟が生き延びた。死の呪いをその身に受けてなお、卓抜した魔術の才により呪術までを跳ね返した、と。

 彼の身体に起こった変化は、瞬く間に知れ渡った。早晩に市井へ情報が漏れるとは思っていたが、王家の推測を越えて情報は素早く、広く伝達されていた。


 すなわち、死の呪いを反転魔術で跳ね返すと、呪術の中身に干渉し、不老不死の呪いとなる。


 発端は狩人たちからの報告だった。――どれだけ撃っても死なない鹿がいる。

 鹿の噂は瞬く間に拡散した。

 不老不死の術があるらしいという情報は、それまでとは段違いの真実味をもって囁かれた。


 呪術師たちによって実験が繰り返され、気がついたときには怪物と化した獣たちが国内の至る所に分布していた。

 金のある者は呪術師を囲い込み、人体実験も厭わずに不死の呪いを作らせた。立場の弱い者が被検体として使い潰された。


 被検体はほとんどが死んだらしい。しかし時おり生き残った者が現われ、常人とは異なる耐久性を手に入れた。

 不死の呪いの知見が蓄積したころ、貴族たちはこぞって不死の呪いを自分にかけさせた。失敗して命を落とす者も多くいた。成功する者もいた。


 不死の呪いが禁じられても、誰もが秘密裏に、自分だけは不死の呪いの恩恵に与ろうとした。

 不死になった者。不完全な不死の呪いにより死に損なった者。

 屍が地を這い、死なない者は何をも恐れず跳梁跋扈した。

 地獄のようだった。


 正気を失った犬が、前脚を失ってなお飼い主の喉笛へと飛びつく。数え切れない矢を背に受けた牛は猛り狂って商店街を疾走し、小さな子どもが泣き叫んでいる。

 旧都がまだ旧都ではなかった頃、この街を襲った悲劇である。


 首を落とされた呪術師が笑っている。その身体から離れた右腕が、指をさす。指された大臣がよろめく。


 窓を破って城へと飛び込んできた狼が、大臣の肩へと食らいついた。血潮が噴き出す、が、すぐに止まる。


 捕らえろ、と叫んだ。あの大臣も『やっている』!





「ぜんぶ俺のせいだ」と顔を覆い、項垂れる。その痛々しさに、リンナは言葉を失った。

「あなたのせいなんかじゃない!」

 声を上げて、アルラスの肩を抱いた。広い背中が、今なお新鮮な恐怖に震えている。

 想像するだに凄惨な光景だった。突こうが刺そうが決して死なない生き物が溢れかえり、なにも恐れることなく人々を襲いだす。


「呪術師や不死者を捕らえて、ひたすら辺境の東部へ押しやった。大地に線を引いた。そうすることしかできなかった」

 唸りながら、自らの頬に爪を立てる。滑らかな頬に細いみみず腫れと切創が浮かび、指が通り過ぎた傍から消えてゆく。

「俺は自国の領土と民のなかに線を引いて、切り捨てた。それしか方法が分からなかった」

 アルラスは決して体重を預けて縋りついてはこなかった。片腕だけをリンナの腰に回し、強く引き寄せる。


「不老不死というものは、実際に味わったことのない人間には魅力的すぎる劇薬だ。だから厳しく情報を統制し、呪術にまつわる書物はすべて処分し、まるでそんな騒乱なんてなかったみたいな社会を作り上げた」

 薄氷を踏むような二百年だった。零れた一言はまさしく彼の本心だっただろう。恨みがましい視線を感じて、リンナは唇を尖らせた。

「私みたいのが、薄氷をガンガン叩くから?」

「少し調べれば不可解なことがたくさんあるからな」

 堪えきれなかったようにアルラスが小さく笑う。自嘲も十分に含まれた笑顔だった。


 そうした動きを必死に押しとどめ、今の世の中を保ってきた。不安定で、長続きするはずのない仮初めの平和である。

 すべてが片付くまでの、期限つきの情報統制。二百年も続けるつもりではなかった。


「でもな」と虚空を睨みつける彼の横顔は精悍だった。

「もうすぐ、片がつく。やっと、国境線を開くことができる」

「そうなんですか?」

 予想外の結論に、目を見開く。


「すごいじゃないですか」と身を寄せると、アルラスは浅く頷いた。

「だから、君が急いで国境線を越える必要なんてないんだ。もう少し待っていてくれれば、それでいい」

 なんだ、とリンナは拍子抜けしたような思いで肩を竦めた。


 アルラスの眼差しが、面白みのない部屋の壁を越えて、どこか遠くを見ている。

「そうしたら、君はどこまでも走っていくことができる。海まで行って、浜で蟹を探したり、貝を拾い集めたり、何もせず日向で転がってたっていい」

 楽しげな提案に、リンナは目を輝かせた。


「うみって、なぁに?」

 知らない単語に食いつくと、アルラスは虚を衝かれたように黙り込んだ。「ああ」と言葉にならない声を上げる。


「そうか。君は知らないのか」

 なにをそんなに驚いた顔をしているのだろう。リンナは肘でアルラスの脇腹を小突いた。

「だから、その、海って?」

「……とても大きな水たまりだ。君には想像もつかないほど大きくて、君より何倍も大きな魚だって泳いでいる」

 へえ、とリンナは頷いた。つまり、レイテーク城脇の湖をもっと大きくしたやつってことだ。


「一緒に行けるのが楽しみだわ」

 そう言って笑いかけたとき、アルラスの表情が一瞬だけ曇るのを、確かにみた。


 リンナは眉をひそめた。

「楽しみ、よね?」

 アルラスはつと口を噤み、こちらを見つめたまま動かなくなった。彼の眼差しの奥で激しく揺れ動いているものは何だろう?


「ああ。この国の悲願だからな」

 間をおいて、彼は曖昧な答えを返した。言葉には出てこない裏側に、大きな含みを感じる。

 リンナの問いかけを封殺するように、彼は「来てくれ」と立ち上がった。




 リンナの手を引いて尋問室を出て、扉の真横で背筋を正して待っていたイーニルを呼ぶ。

 アルラスが何事か耳打ちするとイーニルは頷いて踵を返し、程なくして黒い機械を持って戻ってきた。カメラだ。

「こっちだ」

 イーニルからカメラを受け取ると、彼は弾む足取りで廊下を先導しはじめた。突き当たりの扉を開けて、中に入るよう促す。


 入ったことのない部屋なのに、見た瞬間アルラスの部屋だと分かった。調度品は少なく、棚や机の配置が合理的で、生活感がある。

 窓際に小さな花瓶が置いてあって、見覚えのある花が生けてあった。レイテーク城に植えられているものと同じだ。


「そこに立ちなさい」

「やだ、いきなり何?」

 戸惑いながら、窓際に立って姿勢を正す。

「笑って」とアルラスが顔の高さにカメラを掲げ、ファインダーを覗き込んだ。リンナはもじもじと指を絡め、レンズに微笑んでみせる。


「もっとだ」

「どうしていきなり写真なんて撮る気になったの? 今までカメラなんて触っていなかったじゃない」

「俺は絶対に写真に写るわけにはいかんからな、普段は近づけないようにしている」

 ほらと合図されて、リンナはぎこちなく頬を上げた。「うん」とアルラスが頷く。


「今日はいつもと髪型が違うんだな」

「急いで来たから、ちゃんとまとめる時間がなかったんです!」

 そういう、気がつかなくていいところばかり気づくのだ。気恥ずかしさが限界に達し、リンナは顔を赤くして手を挙げた。


 瞬間、シャッターが切られる。

「ねえ、もうっ! やめてって言ったのに」

 思わず子どもの駄々のような声が飛び出した。アルラスは顔を上げて大笑すると、背後でそれとなく控えていたイーニルにカメラを渡す。


 リンナはそそくさと窓際から離れた。

「いきなりどうしたんですか?」

「いやなに、一枚くらい持っていっても罰は当たらないと思ってな」

 なにそれ、とリンナは眉根を寄せた。こちらの不満はどこ吹く風で、アルラスは大層満足そうである。


「もっとちゃんとした格好のときにしてほしかったわ」

「まあ、軍隊に混じるには少々可愛すぎるか」

 そういうことじゃない、とリンナは歯噛みする。


 そもそも、ろくな説明もなしにこんな遠方に人を呼びつけることが問題なのだ。

「あのね、どこで何をするかも分からずに大急ぎで来たのよ」

 指を立てて抗議しようとして、人差し指の先端が素早く摘ままれる。二秒ほどおいて、ふざけすぎたかと反省した目つきでアルラスは顔色を窺ってきた。

 ……このひとって、こんなに甘えたがりだったかしら?


 あんまり馬鹿馬鹿しくて、怒っているのも阿呆らしくなってくる。

 芝居がかったため息をつくところまでは耐えたけれど、すぐに噴き出してしまった。アルラスが口元に手をやって破顔する。



 そのとき、シャッター音が部屋に響いた。

 目を丸くして振り返ると、カメラを顔の前からどかして、イーニルが真面目くさった顔で告げる。

「申し訳ありません。操作方法を失念してしまい、変なところを触ってしまったようです」

 清々しいほどの大嘘だ。


 アルラスは声も出ない様子で、イーニルに指をさす。彼女は平然とカメラを見下ろした。

「フィルムごと破棄をご用命なら、そのようにいたしますが」

 怒る気力も削がれたのか、アルラスは無言のまま腕を下げる。イーニルは折り目正しく一礼すると、感情の読めない顔つきで呟いた。

「最重要機密扱いで現像を指示しておきます」

 そうか、とアルラスはそれ以上反論せず、ぐったりと頷いた。


 堅物のイーニルが、小さな声で付け添える。

「たいへん良い一枚が撮れたと自負しております」

 再びそうかと頷き、アルラスは顔を背けた。

 だから、彼が一瞬泣きそうな顔をして見えたのは、錯覚だろう。


 そのはずだ。



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