004:歴史に残る死の呪い 4
窓枠に体を預け、街並みの輪郭を眺める。町は明日に収穫祭を控え、準備で大忙しのはずだ。普段より多い照明の光が、薄暗い空の端に滲んでいた。
静かになった馬車の中で、わざとらしい咳払いが響いた。
「……俺はこの百数十年、死の呪いを探し続けてきた」
不機嫌な声を出して、反対側の窓を睨んで、アルラスが座面の縁を指で叩いている。
「ありとあらゆる処刑方法や毒などを試してきたが、どうやっても死ねん。あと試していないのは、死の呪いくらいのものだ」
死の呪い、とリンナは口の中で繰り返した。壁から体を離し、振り返る。
アルラスは顔は反対を向いたまま、しかし目だけでこちらを窺った。
「呪術のなかでも、最も悪名高い呪いだ。かつ、非常に難しい術だと聞いている」
「死の呪いを使えた術者は一握りで、呪文などの記録はないって読みました。きっと口伝でのみ受け継がれていたんだって」
「そう。つまり、現代において死の呪いの詳細を知る者は誰もいない。死の呪いは、この世から完全に消滅した」
矢継ぎ早に進む会話に、頭がくらくらとする思いがした。誰かと呪術について話ができるなんて、初めてだった。
「どうだ、君――」
アルラスは素早く身を翻し、顔を寄せて囁く。
「たった一度、俺を殺すためだけに、死の呪いを再現してみたいとは思わないか」
その一言が、リンナの胸の中のむず痒いところを突くと分かっている口調だった。
「幾度となく歴史に刻まれた、特別な術師にしか使えない高度な呪いだ。興味がないとは言わせないぞ」
挑戦的に向けられた視線に、リンナは目を見張った。
「あなたのために、既に失われた死の呪いを再発明しろって仰りたいの?」
「いかにも」
不敵な笑みでアルラスが頷く。
「うちの書庫には、二百年前にかき集めた魔導書が保管されている。特定の分野に関してなら、大学の図書館なんかより余程揃っている」
大学の広々とした図書館の光景を思い浮かべて、リンナはきょとんと瞬きをする。
「魔術と呪術が明確に区分される前の資料もある。今では呪術と呼ばれる術に関して記述されているはずだ。うち以外にはもうどこにも残っていないものも多いだろう、呪術書は焚書でことごとく焼かれたからな」
思わず、ごくりと喉を鳴らして唾を飲み込んでいた。
彼の言葉の通り、呪術を専門的に扱った資料というものは、今やほとんど現存していない。それが、彼の家には当時出回っていた呪術書が、たくさん揃っている、と。
「どれも古語で書かれていて、読むことは読めるが専門用語が多くてよく分からん。君なら、俺よりもあれらの内容を読み解けるのかもしれない」
心臓が高鳴るのに気づかないふりをして、リンナはアルラスをじっと見つめた。
「つまり?」
問いかける声がうわずる。研究に金を出すと切り出されたときより、はるかに現実味を帯びた興奮を覚えていた。
「どうせ君は俺の素性を知ってしまって自由の身にはなれない。君は俺の監視下にいても呪術の研究をやめる気はない」
「ええ」
「それなら少しは夫のために頑張ってくれても罰は当たらないんじゃないか、という話だ」
いきなり出てきた単語に、リンナは冷や水を浴びせかけられたような思いだった。
「おっとのため?」と間抜けに繰り返す。
まったく、仕様のない……と言いながら、アルラスは呆れたように肩を竦めた。それを見ながら、リンナはようやくアルラスの発言を理解した。
瞬く間に怒りが再燃する。リンナは拳を握って唸った。
「家で話した結婚云々というのは、お母様のための言葉のあやであって、私たちは本当に結婚するわけではないと思っていました」
「いや?」
挑発するように顎を上げたアルラスを睨みつける。が、意に介した様子はなさそうである。片手の指先で顎を撫でながら、彼は悠然と微笑んでいる。
「単なる知人同士では犯罪になることでも、家庭内のことなら黙認されることも多い」
「誘拐とか監禁とか?」
「そうだな」
臆面もなく頷いたアルラスに、リンナは閉口した。
「例えば君が何らかの方法で脱走して、事情を知らない警察に訴えたとする。自分は監禁されていて、その相手は、呪いで二百年生き続けている化け物だ――とな。そんなとき、俺はあとから追いかけていって、一言弁明するだけで良い。『すまない、妻は少々動転しているんだ』。様々な書類がそれを証明してくれる」
「最低」
リンナは顔をしかめて吐き捨てた。
「家庭内でも許されないことはたくさんあるわ」
「なに、明るみに出なければ何のことはない」
アルラスは実に飄々とした様子である。こちらの事情などろくに聞き入れる気もないらしい。その姿を眺めながら、リンナの腹の底には硬い決意が芽生えていた。
いまいち正体の読めない薄ら笑いを見据えながら、抑えた声で、平坦に告げる。
「……私は、脅されてここにいます。国家の最高機密なんかに母を巻き込みたくないから、大人しく連行に応じました。私は単なる虜囚に過ぎません。私が、死の呪いを作ることに尽力するとしたら、それは夫への愛ゆえなんかじゃないわ」
そこまで言って、リンナは大きく息を吸った。
どん、と窓枠を拳で叩いて、リンナは勢いよく人差し指をアルラスの鼻先に突きつける。虚を衝かれてアルラスの目が真ん丸に見開かれた。
「それはね――呪いを作って、あなたをとっとと殺して、私が自由の身になるためよ!」
言い放ってから、数秒後に訪れるであろうアルラスの怒声に備えて腹に力を込める。
身構えるが、いつまで待っても彼は大きな声を出さなかった。
拍子抜けするリンナをしばらく見つめ、それからアルラスは心底たのしそうに破顔した。
「いいな、それは」
目尻を下げて笑み崩れた表情に、彼が見た目どおりの年齢をしていた頃の面影を垣間見る。瑞々しい青年だったころの快活な性格が窺える笑い声だった。
鼻先に手を添え、くつくつと笑っているアルラスを眺めながら、リンナは言葉を選んだ。
まさか、ちょっと動揺しただなんて言えるわけがない。
「い……今のうちに遺言を書いておいた方が良いんじゃないですか」
「なんだ、遺産はやらんぞ、国のものだからな」
つっけんどんに言い放つと、アルラスは元通りのしかめ面に戻ってしまった。それが少し残念だった。
「だから生活には困ってないんですってば」
「まったく可愛げのない……」
これ見よがしにかぶりを振って、アルラスが窓の外を見やって言う。
「大きな街に着いたら、すぐに役所に行って届け出を出そう。なに、安心しろ。俺が死んだら婚姻の記録は消去するように手を回しておくから、そのあとは自由な人生を生きれば良い」
「絶対、一年以内に殺す……」
怨嗟の声もものともせず、アルラスは機嫌の良さそうな態度で足を組んだ。
窓のすぐ外に町へ入る門が見えた。彼が窓枠をとんと叩くと、外の音が再び流れ込んでくる。
普段は閑静な町が、祭りを控えてざわついていた。
「なにか食べたいものはありますか?」
「迷うほど選択肢があるのか?」
窓の外を覗き込みながら、なかなか失礼な質問である。とはいえリンナも同じ窓に顔を寄せて、「うーん」と片眉を上げた。
お世辞にも都会的とは言えない街並みである。
「まあ、大衆酒場のメニュー次第って感じ」
十年前、コーントはすべての世帯を合わせても三十戸にも満たない小さな集落だった。
従来この辺りの農地では、寒冷な気候ゆえに作物の種類も生産量も限られていた。が、数年前に開発された魔道具によって状況は変わりつつあるという。
「もしかしたら料理の種類も増えてるかもしれません。最近は野菜なんかも作っているようで」
「ああ、輸送網や保存方法が発達したか」
「そうみたい。悪くなる前に王都にまで運べるようになったって聞きました」
新たな作物による収益は上々らしい。この十年でコーントの町は大きくなり、外から出稼ぎにくる労働者も増えているという。
「出稼ぎに来た人は、冬の間は地元に帰ってしまうから、このお祭りが送別会みたいなものなんです」
へえ、とアルラスが頬杖をついた。
行く手の大通りは大通りを名乗るには恥ずかしい幅員で、大勢の通行人や荷車でひしめき合っている。ご立派な馬車で突っ込むのはあまり得策ではなさそうだ。
御者台に合図をして止めさせると、アルラスは馬車の扉を開いた。差し出された手を無視して地面に降り、リンナは御者に歩み寄った。
この人混みを大きく迂回すると、町で唯一のまともな宿があると伝えて、朗らかに言う。
「まともな食堂もひとつしかないから、あなたも馬車を預けたら来ると良いわ」
友好的に話しかけたのに、御者は真っ青な顔で恐縮してしまった。
「閣下とご一緒するなど、まさか!」
あたふたと断りの言葉を残して、馬車は瞬く間に角を曲がって消えた。リンナは腕を組んで馬車の曲がった路地を眺める。
「なるほど。あなた、部下をいつもいじめてるのね」
「俺が人格者すぎるから緊張したんだろう」
これ見よがしに肩を竦めて、リンナはアルラスを横目で見上げた。
「そういえば私、お財布を馬車のなかに置いたままでしたわ、閣下」
じろりとこちらを見ると、彼はよく聞こえるようにため息をついた。