039:歴史の足音 5
「続けろ」
リンナから手を離し、アルラスは顎をしゃくった。エルウィはもの言いたげにアルラスとリンナを見比べたが、気を取り直したように姿勢を正す。
「それで、すっかり混乱して……リンナが連行されてから、詳しい事情聴取は翌日だと言われていましたし、頭を冷やそうと思って家まで歩いて帰っていました」
とっぷりと日が暮れた川沿いの遊歩道を、街灯の光を受けながら、エルウィが難しい表情で歩いている。そんな光景が目に浮かんだ。瞼の裏に浮かんだ夜道の景色に、ふと白いものが混じる。
真っ白なローブを身に纏った人影が、風のように素早く、音もなくエルウィの背後に迫る……。
「覚えているのはそこまでで、気がついたら、見たことのない地下室みたいなところに閉じ込められていました」
「移動にかかった時間に推測はつくか」
尋問官の位置に座っていたイーニルをどかせて、アルラスが椅子に腰かけた。いいえとエルウィが首を振る。
「その地下室では、何が?」
「男の人に、様々なことを聞かれました。特に、リンナに興味を示しているようでした」
アルラスは怪訝に眉をひそめた。想像していた答えとは異なっていたようだ。
「その男の年齢や特徴は?」
「四十代半ばか五十代くらいかな……真っ白な髪で、どちらかといえば丸顔で、にこにこしているのが妙に怖かった」
部屋の隅で記録係が慌ててペンを走らせる。紙を引っ掻く音が響くなか、アルラスは腕組みをして唇を引き結んだ。
「体格は?」
「地下室の扉の覗き窓ごしに話をしていたから……身長は僕よりもう少し低いと思います」
エルウィはそのときの状況を再現するように心持ち顎を引く。
その男が、「博士」と呼ばれる存在だろうか。リンナはぼんやりと考えた。
追加で二、三の質問が繰り返されたが、それ以上芳しい情報は得られなかった。
アルラスはため息一つつくと、「それでは」と切り口を変える。
「地下室の外はどうなっていた?」
「ずっと監禁されていたので分かりません」
「ではどうやって砦の近くまで保護を求めに来たんだ」
「真夜中に脱出したんです。周りは見えませんでした」
エルウィは記憶を辿って斜め上を見た。
「あ、でも……森みたいな音がしていて、川も渡ったかな。それと、変わった臭い」
アルラスが顎を支え、遠くを見るように目を眇める。
「近くは暖かくなかったか? 玉子みたいな臭いか?」
「暖かかったです。玉子と言われてみれば、まあ、そんな気も……」
アルラスは背後に立っていた部下の一人に目配せをした。
「ヴェルシトス地方のロランチェだ。温泉が湧く」
言われた軍人が、頷いて素早く退室する。
馴染みのない地名だった。ロランチェ? アルラスが当然のように合点しているのも不可解だった。それに……
(温泉って、何だろう?)
リンナの疑問をよそに、アルラスは身を乗り出した
「かなり距離があっただろう。夜中に脱出して、自力で砦まで来たのか」
「いいえ、助けてくれた人がいて、地下室から脱出できたのもその人のおかげです」
助け、と彼は小さく呟いた。意外そうな口調だった。
「どんな人間だった」
「追っ手を撒くために途中で離脱した人もいましたから、正確な人数は分かりませんが……同世代の五、六人といったところです。あまり話はしていません。というより、通じないと言った方がいいかな」
エルウィの口調は重く、あまり語りたくないようだった。恐ろしい一晩だったとその表情が物語っている。
「でもその人たちも、指示されて僕を脱出させたようでした」
話が複雑になってきた。
そもそも、これはどこの話をしているのだ?
だって夜中の大脱出のあと、エルウィは本来なら人の住む土地ではない砦の外側にいたのだ。つまり、エルウィが監禁されていたというのも、砦の外側だ。
……国境線を越えて、魔獣の住む地にいたって?
どうやって国境線を越えたのか分からない。だって国境線には結界が張られていて、無理やり超えようとしても弾かれるし、体が痺れるし、おまけに軍の人間がすぐに駆けつけてくる。
(だから、閣下がさっき怒っていたってわけ?)
国境警備を何だと思っているんだ――つまり、堅牢な防御に穴があった。
エルウィは事件のあと何者かに襲われ、その穴を突いて国外に誘拐されたのち、別の何者かの手を借りて脱出し、軍に助けを求めて保護された。
でもそれじゃあ、とリンナは一度まばたきをした。
「まるで、砦の向こう側に人が住んでいるみたい」
思わず呟く。言ってから、これもまた気付いてはいけないことだったと悟る。
アルラスは素早く振り返ったが、何も言わず、目を閉じて深々とため息をついた。
リンナを呼び出したことを心底後悔している。リンナは床に踏ん張り、頑としてこの部屋を出ない意思を示した。
彼は苛立ちをぶつける先を探して辺りを見回し、エルウィを矛先に定めて舌打ちをした。
「なあ、この証言をするのに、リンナを呼ぶ必要があったか?」
それまでの尋問とは違って、感情的な詰問である。エルウィは返答より先に、困惑顔でアルラスを正視した。この人なんなんだろうと目顔だけでありありと語りながら、「その、」と視線をリンナに移す。
「リンナとだけ話をさせてください」
エルウィは掠れた声で告げたが、それをアルラスが一喝する。
「証言があるなら、大きな声で言ってもらおう」
エルウィの目には懇願の色があった。思わずリンナが半歩踏み出すと、アルラスが間髪入れず椅子を引いて中腰になる。無理にもう一歩でも進めば、凶悪犯よろしく取り押さえられそうだ。
「エルウィ、なに?」
遠巻きに呼びかける声は震えていた。エルウィは泣きそうな顔で周囲を見回す。何としてでもリンナだけに伝えたいことがある。が、状況が許さない。
「君が呪術を使ってこの部屋を制圧でもしたら、俺は本気で怒るぞ」
アルラスは脅すようにこちらへ指をさした。言い聞かせる口ぶりだが、本気で怒るなんてものでは済まないのは明白だ。
「だいいち、この部屋でのやり取りは別室で監視、記録されている」
更に続けると、エルウィは観念したように項垂れた。
ゆっくりと息を吸い、ふたたび吐き出す。それから、彼は顔を上げてリンナを見た。
「僕を監禁した男。僕を脱出させるよう指示したひと。その両方が、君に伝えて欲しいことがあると言っていた」
内容はどちらもほとんど同じだ、とエルウィは乾いた唇でほほえんだ。その表情には恐れと同情があった。
「壁のこちらに来い。君の正体について教えてやる」
微笑はさらに深まり、歪に歯を見せた憫笑に変わる。
「全部思い出した。小さな頃、お前は白い髪をした陰気な子どもだった」
口を挟みかけて、咄嗟に声が出なかった。腹の底に重石を入れられたように、身じろぎもできない。
指先が痺れる。すべての感覚が鈍い。
……どうして彼にかけた記憶操作が解けている? あのときに使ったトリガーは何だっけ、小さな頃だったから、凝った合図なんて作れなくて、確か、そのまま呪文を唱えて、
だから、エルウィが記憶を取り戻すとしたら、昔の私を目の当たりにするとか、そういうのがきっかけになるはずで、
でも私は、あの日以来、元の姿に戻ったことなんて一度もないのに、
幼馴染みの眼差しには嫌悪があった。あり得ないことが起こっている。
「それなのにあるときから、お前の髪は普通の色になって、皆が君をちやほやし始めた。僕も、ほかの誰も違和感を覚えなかった。前のことを忘れていた」
おかしいだろ、とエルウィが吐き捨てる。
「博物館を襲ったのは、お前と同じ顔をした女だった。なんで同じ顔の人間が二人もいるんだよ!」
おかしいだろと言いたいのはこちらだった。そんな荒唐無稽な話、根拠もないのに信じられるはずがない……
……根拠ならある。現にこうしてエルウィの記憶が戻っている。
「それで、今度は国境の向こうに隠れ住んでいる奴らからご招待?」
エルウィの表情は、嘲りをも通り越して、恐怖の滲む泣き笑いになっていた。
「黙れ!」
アルラスが椅子を蹴倒して机を乗り越え、エルウィの口を塞ごうと手を伸ばす。盛大な音を立てて、二人は椅子ごとひっくり返った。
「これ以上口をきいたら、貴様は目も当てられない有様でここを出ることになる」
「お前らも、今まで僕たちに嘘ばかりついていたんじゃないか! なにが恐ろしい魔獣の世界だ、人の住めない土地だと? あそこにいるのは――」
アルラスに首根っこを押さえられたまま、エルウィが叫ぶ。
言い終わる前に、アルラスは懐から拳銃を抜いて額にぴたりと狙いを定めた。唇を縫い合わされたようにエルウィが黙る。
エルウィは視線だけでこちらに合図をすると、頬を吊り上げた。
「助けてくれた恩人に免じて、伝言はしたからな。あとは好きなようにしてくれ」
リンナは呆然と立ち尽くし、エルウィが連行される様子を見送った。彼が運んできた伝言が、頭の中を絶え間なくこだましていた。
エルウィの言う通りだ。リンナは生まれたときから白髪だった。
セラクト家の家庭不和の原因は単純である。
家族の中に、そんな髪色の人間は誰一人として存在しない。
(……私の、正体)
自分が異質であるという自認がなかったというと、嘘になる。
誰に導かれたわけでもないのに、呪術に惹かれてしまう質だった。
(私のすべてに、なにか理由があるの? 私が「こう」であることに、外的な要因があるの?)
これまでの全てが、足元から揺るがされるようだった。途方に暮れ、より所のない不安が襲う。
その答えが、国境線の向こうにあるのだろうか?
不自然に真実が覆い隠されてきた、壁の向こう……。
「リンナ!」
肩を掴んで揺さぶられ、リンナは我に返った。
目の前にアルラスがいた。血走った目でこちらを見ている。
「行かせないからな」
「……何のこと?」
「君を、向こうには、行かせない。絶対にだ」
一言ずつ区切りながら、断言する。気圧されて一歩下がると、壁に背が触れた。
肩に乗せられた指先にはますます力がこもり、猛禽の爪のように鋭く食い込む。思わず顔をしかめると、彼は慌てて手を離し、それから慎重に両腕をゆるく掴んだ。




