034:新年のこと 7
新年の期間を終え、レイテーク城へ戻って半月ほど経った頃、イニャは倒れた。
それまでにも少しずつ動きが重くなり、急に不機嫌になることも多かったから、驚きはなかった。
談話室の暖炉の前に置かれたベッドの中で丸くなって、一日の大半を眠って過ごすようになった。
レイテーク城の冷暖房は、普段なら魔道具によって空気を循環させることで管理されている。が、新年に別邸で過ごした際、イニャがずいぶん暖炉をお気に召していたようだったから、十年以上ぶりに掃除をして暖炉に火を入れた。
正確な年齢は分からないけれど、病気や怪我がなければまだ生きられる歳のはずだ。艶を失いつつある毛皮が痛ましかった。
ある晩、眠るイニャのそばで、リンナは並んで座るアルラスに寄りかかった。
イニャの口元には赤い果汁がついていて、甘い香りがした。
ここのところ食欲もないようだったから、前に喜んで食べていた苺を方々探して取り寄せた。アルラスがうんと無理を言って探させたようである。
「閣下」
小さな声で切り出す。数日前から、考えていたことがあった。
「ロガスさんは、まだ戻れそうにないんですよね?」
遠方に住んでいる息子夫婦を訪れていたロガスは、レイテーク城への帰路の途中で足止めを食らっていた。
機構の不具合があるとかで、そちらの方面の列車が全線止められているという。どういう訳か、代行馬車などが用意されることもないばかりか、乗客らは全員車内に滞在することを要請されているそうだ。
新聞に載っていた写真を、目を凝らして見た。鉄道会社の制服を着た人影が慌ただしく行き交う向こうに立っていたのは、軍服のようにも見えた。
「まだしばらくかかるんじゃないか」
まるで他人事のような口調ながら、アルラスの物言いは必要以上に苦々しく、確信的なところがあった。
間違いなく新聞より詳細な事情を知っていそうな様子だったが、どうせ聞いても答えないだろう。
「そうですか」と頷いて、リンナはふたたびイニャに視線を戻す。
イニャが一番懐いていたのはロガスだった。彼は間に合うだろうか?
最期に一目見ることもできないままなんて、そんなの寂しすぎる。
「博物館での事件のこと、覚えていますか」
リンナは躊躇いがちに口を開いた。間をおいてアルラスが頷く。
「あのとき、被害者にかけられた呪術は、眠りの呪いと、身体の時間を遅らせる呪いです」
アルラスの理解は早かった。
「かけてやってくれ」と短く答える。
頷いて、リンナはイニャの頭の上に手をかざした。
事件から時間が経ち、その間に呪文の内容の精査も行った。解呪のときのように長大な呪文は必要ない。
一言ふたこと呟くと、ゆっくりと上下していたイニャの腹が動きを止めた、ように見えた。
まるで死んでいるようだった。思わず喉を詰まらせたリンナの手首を、アルラスが掴む。
「見なさい、イニャはまだ生きている」
そう言って、彼はリンナの手のひらをイニャの腹にあてがった。
よくよく注意して見れば、本当に緩慢な周期で呼吸が繰り返されている。手のひらの下で、確かな熱が息づいている。
死ぬというのは、一体どういうことなのだろう?
ふと去来した疑問に、リンナはアルラスを振り返った。
彼は端正な横顔で猫を見つめていた。たぶん同じことを考えていると思った。
生きているものと、死んでいるものを区切る一線は、どこにあるのだろうか?
手のひらの下から熱が失われても、その答えは見つからなかった。
ロガスは間に合った。猫は死期を悟ると姿を消すというが、イニャにはそこまでの体力が残されていなかった。
皺の刻まれたロガスの手に撫でられて、甘えるような仕草をして、眠って、それきりだった。
イニャが目を閉じて、ゆっくりと頭を毛布に預け、呼吸が弱くなり、わずかに喘鳴を漏らし、やがて耳や鼻先が動くこともなくなり、物音がしなくなるまでのことを、克明に覚えている。
……この子が死んだのは、「いつ」だ?
時計台の音に反応して、髭がぴくりと動いたときは、まだ生きていた。
ロガスが優しく囁きかけたけれど返事がなかったときは、もう死んでいたのか?
意外にもレピテは涙一つ流さずに意気消沈し、ヘレックの方が目を真っ赤にしていた。ロガスは穏やかに「よく頑張りました」とだけ呟いた。
アルラスは落ち着いた態度で猫を撫でていた。元気だった頃のイニャに触れるのと同じ手つきで、深い労りを湛えた眼差しをしていた。
取り残されているのはリンナ一人だけだった。
自分一人だけが、イニャはいつ死んだのだろうとか、死ぬってどういうことだろうだとか、関係のない、芯を食っていないことばかり気になっているのだ。
(だって、まるで眠っているみたい)
一人だけ離れたところに立ったまま、リンナは呆然とする。
翌日は嘘みたいに晴れた日で、外套を羽織って外を歩いているだけで、首元が汗ばむほどだった。イニャをくるんだ包みを抱えて、ロガスが薄く雪の積もった道を歩いている。
ひと晩明けても、地に足が着かない心地だった。
レイテーク城は古い建物だから、周辺にある施設の半数以上は既に管理を放棄されるか、最低限の維持のみが行われている。
アルラスが向かったのはそうした施設のひとつで、天井の高い礼拝堂に見えた。
「しばらく見ていなかったから、荒れてしまったな」
両開きの扉を押し開けて、アルラスが苦い口調でぼやく。彼の言うとおり、窓は全て閉めきられているのに、どこからか入り込んだ枯葉が床に散らばり、雑然とした雰囲気がある。
木造の小さな礼拝堂に窓から光が差し込んで、祭壇や燭台、椅子の陰影を形作る。
うらぶれたもの悲しさのなかに、神さびて粛然とした空気が張り詰めていた。
アルラスの後ろをついて、リンナは礼拝堂に足を踏み入れた。
葬式のときくらいしか入らないような場所である。セラクト家は信心深い家ではなく、リンナ自身も敬虔な信徒ではない。
(こんなの、意味ないじゃない)
内心で、そう呟くのを抑えられなかった。
猫の棺が準備できなかったので、イニャは祭壇の上に寝かせられた。遠目にも、その姿は昨日より精彩を欠いているように思えた。
それでもまだ黒猫は眠っているだけのように見えた。
(だってイニャはもう死んだんだから、私たちが今さらなにをしたって、)
アルラスは燭台に蝋燭を立てると、指先一つで火を灯した。
慣れた様子で古めかしい文句を唱える背中を、リンナはじっと眺める。彼が生まれた時代は、今よりもっとこうした儀式が身近だったことが窺えた。
アルラスの唱える祝詞は、古風ではあるが現代の言葉である。時代が下るとともに、文言を覚え直しているのだ。昔覚えた手順を惰性で繰り返しているわけではない。
周りに倣って、口元で両手の指を組む。
アルラスの語る内容は決して難しくなかった。死者の肉体が土へ還り、魂が解き放たれて風になることを祈っている。
(土と、風ねぇ……)
イニャの肉体はまだ目の前にある。では魂はどうだ? かわいい黒猫の魂は、すでに風になったとでもいうのか。
落ち葉が吹き込む原因は、窓のひとつが蝶番から外れているからだった。
隙間から滑り込んできた微風が、リンナの産毛を揺らし、イニャの額を撫でる。
この風のなかにあの子がいるとはとても思えなかった。
「リンナ。来なさい」
身が入っていないことがばれたのか、祭壇の前でアルラスが手招きをする。咄嗟に足が動かなかった。イニャの遺体に近づくのが、どういうわけか恐ろしかった。
促されてイニャの前に立つ。改めて間近で見ると、驚くほど小さい体だった。
白い布にくるまれて、ぐったりと力を失っている。
……イニャはこんなに小さかっただろうか? この子はこんな、砂袋のように不定形だっただろうか。
「こういうときの文句は知っているか?」
無言で頷いた。呪術師のいた時代についての資料を読めば、目にしない訳がない。それくらい有名な定型文だった。
こわごわ指を組み合わせて、唇を開く。
一呼吸の間に、猫にまつわる様々な思い出が目の前を駆け巡った。瞬間、目頭が急激に熱を持ち、膝が震えた。
アルラスの視線を感じながら、リンナは切れ切れに囁いた。
『この者が安らかな眠りにつかんことを』
そのとき、奇妙な感覚が去来した。
既に命の宿っていないはずのイニャの肉体が、音もなくほどけるような錯覚を覚える。
軽やかな風が頬と耳元を舐めた。
指を固く固く組み合わせたまま、リンナは両目を見開いた。イニャは心持ち顔を上向けて、目を閉じている。
根拠もない確信があった。イニャはいまこのとき死んだのだ。
石や金属へ手をかざすのと同じように、イニャの遺体はよそよそしく、入り込む隙もないほどに閉ざされていた。もはや呪術の届く世界にはいない。
見えないところに隠れていた悲しみが、堰を切ったように押し寄せる。
喉を引きつらせて泣き声を殺した。アルラスの腕が慰めるように肩を抱く。その力強さを感じながら、リンナは瞬きもせずにイニャの遺体を見つめていた。
冬のことだから、祭壇を飾れるような花々も用意できなかった。かろうじて街の花屋から切り花を買い付けたが、まだ蕾である。
茎から生えた葉は青々とし、切り口からも水を吸い上げているようだったが、花弁の色は分からない。
リンナは指をほどくと、切り花に手のひらを向けた。
みずみずしい茎の先で、固い蕾が綻ぶ。明るい黄色の花が顔を現すと、礼拝堂の空間は一気に華やいだようだった。開いた花弁の内側から、花香が湧き水のように次から次へと広がってゆく。
顎を上げ、高い天井を振り仰いだ。
イニャは死に、呪術の届かないところに行った。床に落ちている枯葉も、呪術の範疇にない。地面から切り離されて束ねられた花は、まだ生きている。
両者の間に引かれた、厳然たる一線に思いを馳せる。
肩に触れるアルラスの手の甲に手を重ねた。その指の隙間に五指を滑り込ませながら、リンナはゆっくりと息を吸った。
この人は、その一線を越えられないまま、二百年を生きてきたのだ。
ずっと、こうして数え切れない命を見送ってきた。
アルラスの顔を見た。同じ感情を共有しているのが分かった。
どうしようもなく寂しかった。胸の中にぽっかりと穴が一つ空いて、そこを隙間風が通り抜けている。
もっと一緒にいてほしかった。もっとやりようがあったという悔いもあった。そうした思いが渾然一体となって、ぽろりと呟きとして唇から転げ落ちた。
「ずっと生きていてくれれば良いのに、」
その瞬間、すぐ横で膨れ上がった獰猛な気配を、何と表現したらよいものだろう。
花弁の鮮やかな彩りも、窓の外の青空も、すべてが色彩を失う。断頭台から押し寄せていたあの冷気が、いま、彼の全身からひしひしと流れ出している。
どんな言葉より雄弁な眼差しだった。
(これ、言っちゃ駄目なことなんだわ)
アルラスは視線に気付くと素早く目を逸らした。横顔に、恐慌にも等しい動揺が潜んでいる。
頑として目を合わせないアルラスから、イニャへ目を移した。
それまで、途切れ途切れに繋がっていた糸が、瞬く間にひとつの形を作ってゆく。胸の奥で、炎があかあかと燃えるような興奮を覚えていた。
どうして呪術は滅んだのか。一般には、呪術師の所業が人々に害を及ぼし、排斥されていったと語られている。
……嘘である。
自然の成り行きではない。呪術は明らかに、明確な意思を持って歴史から葬り去られた。弾圧と処刑、そして焚書が当時の王家によって主導されていた。
現代に至るまで呪術の扱いは変わらない。教育の場で呪術に関する詳細な内容が語られることはない。
にもかかわらず呪術の調査を行っているような、変な研究者のもとには、アルラスが直々にお出ましで研究の中止を要求しにきた。
これはまずい、と頭の片隅で分かっていた。
アルラスは二百年も生きている大長老もいいところで、元々は王家の一員として生まれ、今なお謎多きひとである。生半可な覚悟で太刀打ちできる相手ではない。
この国はなにか、市民には知られていない秘密を抱えていて、それを彼は承知であり、リンナを近づけまいとしている。
万一、リンナが市民に害を及ぼすと判断すれば、自ら手を下すことも既に覚悟しているだろう。
彼はなにかを恐れている。
私が、死の呪いを作り出すことを?
(死の呪いが、駄目なの?)
束の間、立っている床が消えたような錯覚に陥る。足元が浮いた心地がして、自分がどこにいるのか分からなくなった。
(魔術でも、呪術でも、暴力だって、毒だって、ひとを死なせるものはたくさんあるのに……)
思索が鋭く爪を立て、己のうちに食い込んでくる。目の前が遠くなるような高揚に、リンナは浅く息をした。
(どうして、呪術だけが、こんなに徹底的に隠されるようになったのだろう)
ぐるぐると、視界が大きく渦を巻くようだった。リンナはイニャの遺体を睨みつけ、アルラスの手を強く握りしめた。
あの日、生まれ育った屋敷を出て、馬車の中でアルラスを眺めたときのことを思い出した。
奇妙に感じたのを覚えている。
ごく普通の人間に見えるこの人が、正体を知ってしまえばもう二度と自由の身にはなれないような、国家機密なのか、と。
焦点の定まらぬ視界がふらふらと動いて、アルラスの顔の上でぴたりと止まる。彼は唇を引き結んだまま、表情の抜け落ちた顔でこちらを見ていた。
(王弟ロルタナ・A・アドマリアスは、兄に放たれた死の呪いを、反転魔法で退けた)
そうして彼は不死になった。
残された史実に、明確な道筋が示されている。
顔から血の気が失せている自覚はあった。思わずよろめいて、近くの椅子の背に縋りついた。木のささくれが指の腹を掠めて、ちりっと焦げるような痛みが走る。
小さな傷口から、目に痛い赤色がじわりと滲んだ。ものの数秒で治ったりはしない。呪文を唱えれば治りを早くすることはできるけれど、アルラスのように一瞬で、跡形もなく消えることはない。
手元に影が落ちて、呆然と顔を上げた。
「大丈夫か」
低い声で告げる顔には影が落ち、表情は窺えない。
「すみません、すこし、」
縋るように、その手を握っていた。傷口から膨れ上がった血液が、彼の手のひらを汚す。指先で彼の手首を押さえた。かっと、頭の中心が熱くなる。
生きている。二百年経っても、理を越えて今もなお生きている。
(このひとが隠したいことは、初めから明らかになっていた)
魔術や暴力では成し遂げられないこと。呪術にしかたどり着けない領域。
呪術のみが越えられる一線。
それが今、私の歩くこの道の先に見える。
呪術は不老不死を実現させるのだ。
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