033:新年のこと 6
「私、生まれたときから、お父様にもお母様にも似ていなかったの」
ぽつりと呟く。
内心、頷ける節はあった。父であるセラクト卿はたいへんな大柄だし、母も頑強な体つきである。
アルラスはそっと鞄を動かし、リンナとの間に膝を折って座った。
リンナが身じろぎをして距離を取る。
「それで、お父様はとても怒って、毎日のようにお母様を責め立てて、私は病気だからって、ずっと物置で暮らしていました。家庭教師はつけてもらえなかったし、学校へ通うなんてもっての外」
相槌すら打てなかった。セラクト卿とは面識がある。そんなことをする人間はないと否定したくなるが、自分は彼にとっての上官である。
落ち着かない様子で、リンナが頬に触れようとする。その手を慎重に捕まえて、膝の上で握り込んだ。途端にリンナの顔が不安げになる。
「それであるとき、おまじないの本を見つけて、」
平坦だった口調が波打ち始めた。リンナが頬に触れるのは、気分を落ち着かせる呪術の仕草だろう。それを取り上げるのは酷だった。それでもアルラスは頑としてリンナの手を離さなかった。
「そのとき思ったの。わたしは、これのために生まれてきたんだって」
彼女の口調は、まるで昨日のことを語るみたいに鮮明だった。
その夜は激しい嵐で、荒れ狂う風が屋敷全体を強く揺さぶっていた。大きな雨粒が絶え間なく叩きつけ、滝のように窓を流れ下っていた。
時おり雷が落ちると、一瞬、暗い部屋の隅まで、昼間みたいに眩しく照らされるのだ。
分厚い雨雲が垂れ込める夜に、順に部屋を回った。握りこぶしで厚い扉を叩いた。
「九つのとき、呪いをかけたんです」
リンナは唇を動かさずに囁いた。
「家族が、私のことを好きになってくれますようにって。あのときは、おまじないのつもりで」
訝しげに扉を開けた父の顔が一変する。
不機嫌そうに腕を組んでいた兄が微笑む。
母が笑って、幼い自分を抱き寄せる。
翌朝には嵐は過ぎ去っていた。晴れ晴れとした青空が広がっていた。
食卓に揃った家族はみんな笑っていた。
魅了と、記憶操作。地獄のような家庭を修復するには、たった二つの呪文で事足りた。
「あんなに嬉しかったことは、他にないです。自分が、崩壊寸前の家族を救ったのだと思うと、誇らしくてたまらなかった」
口元に笑みを浮かべて呟くリンナを見下ろしながら、アルラスは目眩がした。手を捕まえていた指先が思わず緩む。
「呪術には、ひとを幸せにする力がある。私はそれを証明したい」
決然とした口調で語りながら、その瞳が揺れて潤んでいる。
「……私が呪術で、人の役に立てるって示せれば、私も少しは、誇れる娘になれる。胸を張って生きていける。私は自分で、自分の居場所を創り出せる、と」
リンナ自身、それが実現可能な夢だと信じていないのだ。くしゃりと顔を歪め、下唇を噛みしめて俯く。
声を殺して泣いているリンナに手を伸ばしたが、彼女は自らの膝を抱きかかえ、懸命に体を小さく縮めた。
「リンナ、」
反対を向き、全身で拒絶する姿を見つめていた。こちらに向かって腕を広げるよりもはるかに雄弁な背中だった。
「あなたには分からないわ。……誰からも期待されずに、まるでいないみたいに扱われて、守りたいものも守れない毎日がどんなに苦しいか、分かるはずがない!」
癇癪を起こしたようにリンナが悲鳴を上げる。両手で髪を掻きむしり、その身の内で発散しようもない怒りが反響し、暴れ狂い、渦を巻いているのが見えるようだった。
「じゃあどうすれば良かったの? お母様が死んでしまうところだったのよ。見過ごせば良かったの? 苦しんでいる人を助けてはいけないの?」
「そんなことない!」
咄嗟にリンナの頭を抱きかかえていた。一拍おいて、リンナが懐に顔を埋めて泣き声を上げる。
彼女は多くを語らなかったが、かつてのセラクト家の苛烈な状況は想像がついた。
いまは穏やかな貴婦人にしか見えないリンナの母が、伴侶からどのような扱いを受けていたか。リンナが母にだけ懐いているのはどうしてか。
何度も背を撫でる。背骨の感触が手のひらに焼き付いた。
「悪かった。俺が間違っていた。君の話もろくに聞かずに、君を責めるようなことを言った」
苦い口調で告げると、リンナの十指が胸元に縋りつく。背に腕を回して隙間を埋める。
驚くほどに小さな身体だった。こんな肉体から、幾人もの記憶や感情を誘導してしまえるほどの力が放たれていることが、到底信じられなかった。
そうまでするほどの悲愴な決意を、これまで胸一つに隠し込んできたのだ。その孤独を思うと声も出なかった。
「もっと早く迎えにいければ、どんなに良かったか」
暗い部屋で、ひとり呪術書を指で撫でる姿を想像する。
いま、リンナが成熟した学者であり令嬢として立っているのは、彼女が呪術を用いてつかみ取った、生来の権利によるものだ。
「これからは、君が手段を選んでいられないような状況に陥るまで見過ごしたりしない。絶対に、君を一人にはしない」
リンナの背に手を回したまま、思わず腕に力が入る。
「だから、もう二度とこんなことをしないでくれ。黙って勝手に呪術を使うなんてこと、しないでくれないか」
リンナは息を飲んで顔を上げた。なにか言う前から、納得していない顔だった。途方に暮れて眦を下げ、首を振る。
「……呪術がないと、だれも、私を好きになってくれないのに?」
「違う。それは違う。頼むよ、聞いてくれ」
雨音がわずかに聞こえている。リンナの肩は冷え切っていた。
古い型の暖炉を指さして火を灯す。リンナの頬が赤く照らされ、瞳のなかに火影がゆらゆらと揺れた。
真っ直ぐにこちらを見つめる視線を受け止めているうちに、形容しがたい衝動がせり上がってくる。
リンナを助ける方法はいくつもあるし、それができる人間だっていくらでもいるはずだ。
それなのに、彼女を守るなら自分が良かった。
(まずいな、ここまで来ると認めざるを得ない)
アルラスは思わず眉間を揉んだ。予後を思うとあまりに恐ろしい結論が、目の前に立ち現れている。
いちど大きく息を吸って、天を仰いで息を吐き、それからリンナに向き直る。
「君がもし呪術なんて使えなくても、俺は君のことが好きだよ」
勢いをつけてようやく口にしたのに、反応は驚くほど薄かった。
恐る恐る窺うと、リンナは怪訝な顔をしている。腕組みをしたまま眉をひそめて斜め上を見上げ、それから躊躇いがちに小指に口づけ、『解呪』と呟いた。
いったい何の解呪のつもりだか、さっぱり分からなかった。彼女が一連の仕草をした前後で、変化は一切感じられない。
首を傾げていると、リンナは真似するように同じ方向に首を傾げる。
「今のは何のつもりだ?」
「魅了の呪いを解き忘れていたみたいだったので……」
呆れてものも言えなかった。薄々予想はしていたが、この女、俺にまで勝手に呪いをかけていやがった!
「そんな呪いをかけられた覚えはないぞ。その呪いは本当に効果があるのか?」
叱責に備えてか、リンナは首を竦めた。小賢しい上目遣いに、呆れと苦笑いが込み上げる。
「お父様とお兄様なんかには、覿面だったのだけれど」
リンナは言い訳がましく呟いて、唇を尖らせた。
「解呪しても変わらないんなら、初めから効いていなかったんだろう。詳しい話はまた今度聞かせてもらうからな」
言いながら、暖炉の前までリンナを促した。寝台の上から大ぶりの枕を引き寄せ、毛足の長い絨毯の上に腰かける。両腕で枕を抱きかかえて、リンナは真っ赤な目元で暖炉の炎を見つめた。
嵐のような激情が通り過ぎ、呆然としたような風情だった。泣き疲れてか、ぐったりと肩に寄りかかる。
リンナの膝に毛布を掛けてやりながら、アルラスはため息をついた。
「……イニャの病状があそこまで悪化したことに気づけなかったのは、あの子自身が自分の体の不調に気づいていなかったからだ」
言外にリンナの行いを糾弾する。リンナは肩を竦め、無言で呪術を使ったことを認めた。
「なあに、お説教ですか?」
「ああ、説教だ」
リンナはうんざりした態度で頭を振った。ふて腐れて目を背けつつ、耳はこちらを向いている。
表情だけは反抗的に、けれど彼女の身体は緊張で強ばっていた。手がすいと持ち上がり、頬に触れかけたところで、思い直したように下ろされる。
「獣医によれば、イニャはもっと早く死んでもおかしくなかった。傷は化膿していたし、後ろ脚が動かなくなっていた可能性もあった。それらの外傷が治っていたことを不思議がっていたよ」
「大したことはしていないわ、少し手助けしただけです。回復したのはイニャが頑張ったからだし、結果として寿命が延びたんだから良いじゃない」
言い訳がましくリンナはまくし立てた。「その通りだ」と頷いてみせると、彼女は虚を衝かれたように目を丸くした。ふっとその体が緩む。
「だが、考えてもみてくれ」
リンナに向き直って、真剣な口調で告げた。
「君が初めから、俺や獣医に相談の上で、協力してイニャの治療に当たっていれば、もっと良い処置ができたかもしれない」
あかあかと燃えていた焚き付けから薪へと炎が移り、リンナの瞳にうつる光が丸みを帯びる。差し迫った怯えが少しだけ緩むのが見えた。
呆気に取られた表情のまま、リンナは「でも」とか細い声を出す。呪術なんて、と続けようとしている。
呪術を人に認めさせたいと言いながら、それを一番貶めているのはリンナ自身だった。呪術を邪悪な術だと、人からそう思われても仕方ないと考えている。
「どんな学問や技術も、たった一人で頂へ至るものはない。人の手を借りずに呪術を極めるのにも、必ず限界がある」
分野の異なる専門家に手の内を明かすことは、怖いことではない。
呪術の研究家に対して話していると気付いたか、リンナは神妙な顔で頷いた。気落ちした様子は隠せていなかったが、本人にも思うところはあったらしい。
「……私、これまでずっと間違ったことをしていたんでしょうか」
「間違っていたかどうかは場合によるが、不足している部分があったことは否定できない」
わざと厳めしく告げると、リンナはしゅんと肩を落として項垂れた。
「これからだよ」
明瞭に告げる。薪が爆ぜて音を立てた。炎を見つめるリンナの瞳に光が射した。
「これからは俺がいる。これからは、ひとりで呪術のことを抱え込まないでほしい。何でも相談してくれないか」
どうして、とリンナの唇が小さく動く。
額や手にあたる熱波を感じていた。手のひらの下にはリンナの体温があった。
「君の研究に期待をしているからだ」
答えると、彼女は納得したように頷いた。心なしか安堵の表情にも見え、それが少し癪に障った。
身を屈めて顔の高さを合わせ、目の奥を見つめる。体を寄せて微笑むと、リンナが目を真ん丸に見開いた。
「それに、君のことが大切だからな」
リンナは目玉が零れ落ちそうなほどの驚き顔で絶句し、それから、泣き笑いのように「そんな」と呟いた。
「閣下、なんだか変だわ」
「何がおかしい」
「どうしてそんなに一生懸命なの?」
「だからそれは、君のことが」
「もう十分です、分かりましたから、もうやめて。いたたまれないわ」
言いつのりかけたところで、リンナは悲鳴を上げながら両手を出してアルラスを押しとどめた。
肩で息をしているリンナの頬に手を添え、顔を上げさせる。
「ひどい隈だな」
早く休んだ方がいいと続けようとしたとき、リンナは無意識のような仕草で目元に触れた。
色濃い隈がかき消える。
「言ったそばから!」
非難の声を上げると、リンナは「だって」と反論の姿勢になった。
「恥ずかしかったんだもの」
「なにを馬鹿なことを」
アルラスは呆れ果ててため息をついた。これを矯正するのは骨が折れそうだ。
額を押さえながら立ち上がる。食事はと訊くが、いまは食欲が湧かないそうだ。
「しばらくしたら食事を持ってくるから、それまで休んでいなさい」
背を支えて助け起こし、寝台のうえに寝かせてやる。そのまま離れようとして、袖を引っ張られる感触に首を傾げる。
「どうした?」
問いかけると、袖を掴んだままリンナは怪訝な顔をした。袖を握る手を上から握ってやると、その顔がみるみるうちに赤くなる。
「ごめんなさい、その、……間違っちゃった」
照れ笑いを浮かべながら、リンナはいそいそと手を引っ込めて肩まで布団に潜り込んだ。その額を撫でてやるうちに、リンナの目がとろんとしてくる。
「何を間違ったんだ?」
寝台に浅く腰かけて、顔を覗き込んだ。
「ううん、……ちょっと甘えすぎただけ」
リンナは鼻先まで布団をかけたまま、目線だけでこちらを見る。
「ありがとう。心配かけてごめんなさい。すぐ元気になるわ」
そう言って、リンナは頭の先まで布団を被ってしまった。あっという間に寝息を立て始める。
思わず布団の膨らみを睨んでいた。
……この女、人の真剣な話は平然と笑い飛ばすくせに、自分が言う側になったときばかり殊勝で大人しくなりやがる!
アルラスは肩すかしを食らった気分でため息をついた。息苦しいだろうからと布団をめくり、頬にかかった髪をよけてやる。
あどけない寝顔を見下ろしながら、瞬きをする。
かつて徹底的な弾圧に晒された呪術師も、彼女のような苦悩を抱えていたのだろうか?
それまで輪郭しか見えていなかった呪術師の存在が、不意に肉体と人格を持って立ち現れる。
アルラスは目を伏せたまましばらく動けなかった。
***
階下から話し声が聞こえた気がして、リンナは目を開けた。
視線だけを動かして時計を探せば、普段ならとっくに起きている時間だ。
白い光がカーテンの隙間から床を照らしているのを眺めながら、リンナは寝返りをうった。
「わ!」
顔を向けた先の長椅子で、アルラスが窮屈そうに体を丸めて眠っている。
昨晩のことは覚えていた。みっともなく泣き喚き、とても見せられない醜態をさらした。
彼が別室で休まなかったのは、心配をかけたからだろうか?
声を発してしまったからか、アルラスはしかめ面で身動きをした。その拍子に、体の上から毛布がずり落ちてしまう。呻きながら手探りで毛布を探すアルラスの姿を少しの間眺めてから、リンナは緩慢な動作でベッドから身を起こした。
床でくしゃくしゃに丸まっている毛布を拾い上げ、広げてアルラスの体にかけてやる。
長椅子のすぐそばの床に座り込んで、リンナは頬杖をついてアルラスの寝顔を覗き込んだ。眉間に皺を寄せて難しい顔をしていたので、手を伸ばして額を撫でてみる。
しばらくそうしていると、アルラスの表情がふっと和らいだ。規則正しい寝息を立てている彼の顔をまた眺めながら、リンナは眦を下げた。
(きっと、目が覚めたら、私はもう一回叱られるんだろうな)
馬鹿なことをした、と厳しい声を出すアルラスが目に浮かぶ。ひどく憤りながら、それでもきっと、これからどうすればいいか、一緒に考えてくれる。
自分は、呪術抜きでは何もできない。呪術ではない方法で物事を解決するという発想がない。
呪術が使えなくても、それでも彼は本当に、私のことを好きになってくれただろうか?
ソファの座面から投げ出された片手を握った。暖かい手の中に指先を滑り込ませて、力をこめる。
(これまでの行いについての責任は、これからずっと自分で負っていくつもりです。でも、)
寝ているのを良いことに勝手に手を繋いで、リンナは目を閉じた。
(私、やっぱり、呪術を捨てることはないと思うんです。どうしてもこれが私の生きる道だって思ってしまったから、やめられないんです)
胸の内でアルラスに語りかける。当然ながら返事はない。
呪術は二百年前に、人の手で根絶された技術である。それを主導したのが、今目の前にいるひとだ。
一度は途絶え、消え失せた道を、自分が二百年の時を超えてもう一度切り開いている。
この道の先に、彼が呪術師を滅ぼすに至った景色が広がっているのだと思う。越えてはならない一線が待ち受けている。その場所まで、どれだけの距離があるかは分からない。
その一線を越えたとき、彼がどのような選択をするのかも分からない。
それでもこの道を歩き続けるつもりだった。
誰に糾弾されたとしても、あの日、呪術に手を染めたことを後悔してはいない。
あの日の幼い自分に報いたい。期待をかけてくれたアルラスに応えたい。
そのために、呪術は人を救うと証明してみせる。
そういう覚悟を決めている。
部屋を出ると、廊下は火の気もなく冷え切っていた。しんと浸みるような静寂に耳を澄ませながら、窓の外に広がる住宅街を眺める。
と、前方からご機嫌な足音が聞こえて、リンナは顔を正面へ向けた。
普段の城と異なる環境にもかかわらず、黒猫が我が物顔で尻尾を立てて歩いてくる。
イニャは足が悪いので、普通の猫に比べて足音が聞こえやすい。
「イニャ、おいで」
屈んで声をかけると、イニャは僅かに歩調を早めて近づいてきた。規則正しいとはすこし言いがたい足取りで足元まで来ると、一声鳴いた。
「ねえイニャ、私、あなたに酷いことをしたのかな」
伸ばした手に頭を擦り付けて、イニャが喉を鳴らす。
本来、警戒心の強い子だった。怪我を負い、周囲の人間を必死に威嚇する姿を思い出す。
この子を拾ってから、二ヶ月ほどが経った。こんなにも愛嬌のある、可愛らしい姿を見せてくれるようになった。
人に慣れるのが早すぎやしないか、とはアルラスは言わなかった。彼は気付いていない。大抵の人間は自分に都合の良い不自然には気付かない。
リンナは膝を畳んで床に座ると、小指を唇に押し当てた。
「おいで、……『解呪』」
囁く。
イニャはそれまですりすりと動かしていた頭を止め、我に返ったようにリンナを見上げた。後じさり、目を真ん丸にしてまじまじとこちらを凝視し、首を傾げる。
リンナは薄く微笑むと、床に手をついて腰を浮かせた。
「ごめんね。今まで勝手なことばかりしたね」
この子に苦しんでほしくなかった。痛い思いをしてほしくなかった。その願いは周りの人にも受け入れてもらえるだろうけれど、方法には賛同してもらえないと思ったから、言わなかった。
呪術なんかで生き物の体や心をいじるなんて、おぞましいと言われるのが怖かった。
必要以上に口には出さないが、アルラスが抱いた嫌悪感の大きさは想像がつく。それでも彼は、私のために言葉を重ねてくれた。
おぞましいのは呪術ではない。人との対話を怖がって、勝手にひとに呪いをかける私の了見である。
イニャの瞳は、夜に浮かぶ三日月のようだった。その双眸を見返しながら、リンナはぼんやりと過去に読んだ記述を思い返していた。
呪術の名著「フェメリア門下生のための呪術入門」の序文だ。
――呪術とは、決められた呪文や儀式、そして人の明確なイメージと強い感情があって初めて作動するものである。
その起源は、ささやかなおまじない、ひとの祈りにある、と。
(呪術の本質は、他者を思いのままに操ることではなく、自分の意思を無理やり通すことでもない)
強い願いを言葉にして表して、その響きがわずかに、ほんのわずかに周りを動かす、たったそれだけの事象を極めた先のものだ。
いきものの生き死にを歪めるために産まれたわけじゃない。
イニャは距離を取ってリンナを見上げたまま、にゃんと声を発して歩き出した。その姿を眺めていると、イニャは不満げな表情で足元へ近づいて、もう一度鳴いた。
咄嗟に撫でようとした手はすいと避けて、半歩先のところでこちらを見ている。
歩き出すと、イニャが同じように歩き出す。すこし進んだところでまた立ち止まり、頭を上げてこちらを見た。
視線を合わせているうちに、膝から力が抜ける。
「イニャ」
呼びかけた。イニャは無言で振り返った。
「できるだけ、長生きしてくれる?」
弱々しく問いかけると、黒猫はつんと鼻先を上げる。それから何度か瞬きをして、さっさと歩き出してしまう。
さあね、と言いたげな後ろ姿だった。
こんなに小さな身体なのに、堂々とした態度で伸びをすると、イニャは大きくあくびをする。呪術の有無も中身も、彼女にとっては些細なことのようだった。




