032:新年のこと 5
医師の見立てでは、睡眠不足と栄養失調が原因とのことだった。予想通りである。
外出先で倒れたと伝えたときの医師の目つきときたら、今にも掴みかかってきそうだった。
「よほどしんどかったはずです。本人は何も言っていなかったのですか」
無理やり連れ回したのだろうと言いたげな、批判的な目だった。状況からすれば、そう思われても無理はなかった。
考えが足りなかった。リンナが元気そうに振る舞っていたとして、それを疑いもせずに信じてはいけなかった。
別邸へ戻ってから、リンナはずっと眠り続けている。まだ日の高いうちに帰宅して、既に夜更けである。
細かな雨が降り始めた頃、小さな声を漏らして、リンナが瞼を開けた。
「目が覚めたか」と声をかけると、彼女はぼんやりとした顔で周囲を見回し、小さく頷く。頬は青ざめ、病人然とした顔色をしていた。
「リンナ」
寝乱れたリンナの襟元を直してやりながら、アルラスは努めて平坦な口調で問いかけた。
「呪術を使えば、眠気を覚ましたり、集中力を高めたり、身体の不調を感じずに動けるのか」
未だに夢から覚めきらないような表情で、リンナが頷く。
「簡単な呪文です」
彼女は寝ぼけまなこで答えた。
言外の肯定に絶句する。リンナの肩に手を置いたまま、アルラスは唇を引き結んだ。
思い当たる節はいくらでもあった。
書斎に籠もったまま、どんなに話しかけても資料に齧り付いたまま、寝食もおろそかにして研究を続ける姿。休まなくても平気だと断言し、実際、言葉通りに体調の良いような振る舞いをする。
そうして限界を迎えると、身動きができなくなる。
同じような話を最近どこかで聞いた。アルラスは確信を込めてリンナを一瞥した。とろんとした視線が返される。
「……イニャに、何かしたか」
「何かって?」
「あれに、呪術を、使ったか」
区切って問う。リンナは目を見開いて、それから、不意に腕を挙げ、額に手を当てた。その唇が小さく動く。
次の瞬間、リンナはがばりと布団を押しのけ、体を起こした。
「やだ、寝過ぎちゃった! 今って何時ですか?」
明るい口調で言って、照れたように笑う。同調して笑うつもりには到底なれなかった。
アルラスが笑わないとみると、リンナは顔色を一変させ、眉をひそめる。
「私、なにか閣下にご迷惑をおかけしましたか?」
「迷惑をかけるとか、かけないとか、そういう話じゃない」
壁に手をついて、アルラスはため息をついた。
「リンナ、君のやり方は正直目に余るよ」
雨音だけを聞いていた。リンナは息を殺してこちらを見ていた。
「私のやり方?」
「さっき、何か唱えただろう。目が覚めてすぐはぼんやりしていたのに、いきなり元気になった」
「寝起きがいい人もいますよ」
「君が怪しいのが今回だけなら、俺だってそう思ったよ」
なあ、と肩に手を置く。顔を近づいた分だけ、リンナは後ろに仰け反った。
「俺が懸念しているのは、君が、自他に対して呪術を使うことに、一切の抵抗を覚えていない点だ」
親しみを持って接してきたつもりだった。彼女もそれなりには気を許していると思っていた。
それなのに、見えない壁にすべて弾き返されるみたいだ。リンナに言葉が届いている気が、まるでしなかった。
野生動物のように息をひそめ、今にも逃げ出すか喉元に食らいついてきそうな剣呑さがあった。取って食われるとでも思っているような、反抗的な目つきだった。
「……俺は、君を責めたいわけじゃないんだ。ただ、事実を知りたくて」
「知ってどうなるの。私を責めるんでしょう」
リンナがまたわずかに後じさる。血の気の失せた顔で、それでも瞳はぎらぎらと光っている。
どうして彼女が被害者面をしているのだ? こちらが非道な行いをしているかのような目を向けられるのはおかしくないか?
あまりにもリンナが遠く感じられた。これまで日々を一緒に過ごしてきた彼女が忽然と消え失せ、知らない女が目の前にいきなり出現したような気分だ。
不安と不快を一緒にしてはいけないけれど、アルラスの腹の底にはふつふつとした苛立ちと焦りが膨らみつつあった。
肩に触れていた手に自然と力がこもる。
「もしそうだとしたら、それは、咎められるようなことをした君のせいじゃないのか」
はっと、リンナが鋭く息を飲んだ。飴色の双眸が眼窩で震える。
「私が悪いって言いたいの?」
この期に及んで、彼女はまだ自分の所業を隠しおおせている気でいるのだろうか? それとも、本気で自分は悪くないとでも?
アルラスは思わず深々とため息をついた。
天井の明かりは消したままで、枕元の小さな魔法灯だけがほのかに二人分の顔を照らしていた。遠くで振り子時計が規則正しい音を立てている。
呪術師を手元に迎えると決めたとき、彼女自身だけでなく、その振る舞いや影響にまで責任を持つと決めた。リンナの素行を正すのも、自分の役目である、と。
「何が目的か知らないがな、親兄弟や親戚に平然と呪いをかけているような人間を、俺は信用できない。誰だってそうだ」
声を荒げないように、道理の分からない子どもに言って聞かせるように、穏やかに話したつもりだった。
リンナの表情が決定的に強ばった。まずいと直感する。アルラスは手を離し、「リンナ」と上擦った声で呼びかけた。
「俺はな、どうでも良いと思っている相手にこんなに一生懸命話なんてしない。君のことが大切だから言っているんだ」
「そう。ありがとうございます」
リンナは指先で頬に触れながら、唇を動かさずに頷いた。頬を軽く叩く動きは徐々に間隔を狭め、病的な震えになりつつあった。リンナの視線は虚ろに空中を見据えている。
これも呪術だ。そう気付いて手を伸ばそうとした瞬間、リンナは両目を見張って素早く振り返った。
「触らないで……『出ていって』!」
歯を剥き出しにして古代語を唱える。アルラスの両膝が不随意に伸び、立ち上がると、操り人形のようにくるりと振り返って扉に向かって歩き出す。
「リンナ!」
ひとりでに動き出した四肢におののいて叫ぶが、リンナは既に両手で布団を引っ掴み、寝台へ突っ伏して背を丸めていた。
手が勝手に動いて、扉を閉じる。直後、糸が切れたように全身が思い通りに動くようになった。
すぐさま入室しようと再び扉に手を伸ばす。その腕がぴたりと止まる。
まるで子どものように声を上げて、リンナが泣きじゃくっている。悲痛な響きは、扉越しにも足を止めさせるに十分だった。
やり場のない悲しみを必死に追い出そうと、言葉にならない声を張り上げ、身を絞って泣いている。それすら押し殺そうと、声はくぐもり、枕に顔を押しつけて息を詰まらせているのが分かった。
扉の前で、アルラスは途方に暮れて立ち尽くす。
自分が間違ったことを言っているとは思っていない。リンナは周囲の人間や動物、そして自分自身へ軽率に呪術を行使し、ときには自らの身体に負担をかけてまで呪術に入れ込んでいる。
その理由が知りたい。彼女がどうしてそこまで呪術に執着しているのかも、その行動の動機もすべて話してほしかった。
(君には長生きしてほしいし、苦しんでいることがあるなら、力になりたかった)
扉に手を当てたまま項垂れる。
今はどうやったってこちらの言葉は届かなそうだ。
話ができない年齢じゃないし、話を聞けないほど馬鹿じゃない。また落ち着いてから腰を据えて語りかければ、絶対に分かってくれるはずだ。
とぼとぼと階下へ戻ると、レピテが台所に立って食器を片付けていた。
レイテーク城より新しい屋敷だが、中の設備は完成当時からそれほど変わっていない。皿を手洗いするのは久しぶりなのか、レピテはやれやれと言いたげな態度で手を拭いて振り返った。
「奥方さまのお加減はいかがですか? 夕食の残りを温めることもできますけれど、食べられそうでしょうか」
「いや、……後にした方が良さそうだ」
そうですか、とレピテは眉を下げて足元を見た。ぐったりしたリンナを抱えて戻ってきたときから、レピテはやけにリンナの心配をしている。
「ご家族とお会いになって、何か問題でもあったんでしょうか?」
「……君に言うような話じゃないだろう」
以前より使用人に対して距離を取らないようになったが、それでも引くべき一線はある。ぴしゃりとはね除けると、レピテは「そうですよね」と苦笑した。
「すみません、どうしても心配になって……だって奥方さま、きっとさぞかし苦労されて来られたでしょう? だから、ご家族と会うって聞いて、心配だったんです」
ん? とアルラスは首を傾げた。
レピテの言うことが、いまいち要領を得ない。どうしてレピテが、リンナが家族と会うことを心配する?
怪訝な顔をしていると、レピテも同じように不思議そうな顔になる。手を拭いた布巾を流し台の隅にかけて、言葉を選ぶように目を泳がせた。
「すみません。旦那さまがいきなりリンナさんを城へお連れになったのは、ご実家からいち早く連れ出すためだと、勝手に思っていて……」
「何の話だ?」
問い返すと、レピテは眉根を寄せる。ほかに誰もいないと分かっているのに、彼女は人目を憚るような仕草をした。
使われていない隣室や廊下の照明は落とされている。部屋の隅の暗がりが、足元に忍び寄ってきている。
嫌な予感がした。
レピテは声を潜め、「だって……」と囁く。
「旦那さまもご覧になったでしょう。リンナさんの、あの、背中の傷――あれ、鞭の跡ですよね」
雷撃が脳天に落ちたような衝撃が、全身を貫いた。
絶句するアルラスを見上げて、レピテが「あれ?」と目を瞬く。
「まさか旦那さま、ご存じなかったんですか?」
血の気が引いた。
問いかけに返事をする余裕はなかった。踵を返すと台所を飛び出し、二段飛ばしで階段を駆け上がる。
「リンナ、たのむ、入って良いか」
扉を小刻みに叩いて声をかける。
彼女に必要なのは倫理観を問う教育ではない。その前にもっと必要なものがあった。
「開けてくれ。話が聞きたい。絶対に否定しない、……俺はただ、君の力になりたいだけなんだ」
彼女が語らないことについて考えたことがあっただろうか?
自分の秘密を守るのに必死になって、リンナを警戒し、出し抜くことに腐心していなかったか?
リンナ自身をきちんと見ていただろうか? 呪術師ではない、呪術師になる前のリンナを想像したことがあっただろうか。
「……君が初めて呪術を使ったときのことを聞かせてほしい。君の口から聞かせてほしい」
扉に掌を押し当て、アルラスは呻いた。
「お母上を問い詰める前に、君にきちんと聞くべきだったんだ。でも臆してしまった。君は聞いても答えないかもしれないと決めつけていたし、それに、」
そこで言葉に詰まり、眉間に皺を寄せたまま目を閉じる。リンナが耳をそばだてている気配が、扉越しに感じられた。
「……それに、俺は、呪術師のことが恐ろしかった」
申し訳ないことをした、とアルラスは硬い口調で続ける。
「でも俺が恐れていたのは、二百年も昔の呪術師であって、君じゃない。それを分かっていなかった」
どうしても苦々しい口調になる。自分の愚かさにほとほと呆れ果てていた。
自分が呪術師に嫌な思い出があったとして、そんなのは今の時代に生まれたリンナには何も関係ないことなのに。
遠くで衣擦れの音がして、自然と腕が動いて扉を押し開けた。リンナが操っている。
ゆっくりと扉が開くと、リンナはこちらに腕を伸ばしていた。
「……レピテちゃんもいるんですよ。お部屋の外で話すような内容じゃないわ」
か細い声で言って、ふいと顔を背ける。その視線の先には、彼女がいつも使っている大きな旅行鞄がある。リンナがぎりぎり一人で持てる大きさで、もう少し取り回しの利くものを使えば良いのにと思っていた。
彼女は床に広げた鞄のそばに屈んでいる。
その鞄の中に服や日用品、研究の手帳などが詰め込まれているのを見た瞬間、ぞっとしたものが背筋を駆け上がった。
リンナの私物は極端に少ない。
彼女が生活に無頓着な訳では決してなく、細々とした化粧道具や、こだわりの文房具を揃えていることは知っている。けれどそれらは鞄の隙間にも入るし、処分しようと思えば袋一つに入れて放ってしまうことができる程度のものである。
リンナが服を増やさないのは、嵩張るからだ。
呪術に関する資料は、本棚に差しておけば違和感もない。
(この女は、消えてしまおうと思えばいつでもそれができるように暮らしているのだ)
実家にいたときも、同じように暮らしてきた。
後ろ手に扉を閉じ、防音の魔術をかけると、アルラスはよろよろとリンナに歩み寄った。横座りで床に尻をつけたまま、リンナはじっと視線を向けてくる。
まるで少女のように幼気で内気な、心許ない表情であった。




