028:新年のこと 1
「調書は拝読した。それから続報はないか」
狭い転移装置から足を伸ばして出ると、アルラスは開口一番にそう訊いた。
「ありません」と待ち構えていたイーニルが答える。その表情には隠しきれない緊張と好奇心が滲んでいた。
通路に歩み出ると、歩いていた人影が一斉に静止する。
アルラスの顔を極力見ないように目を伏せ、さっと道を開けて一礼する面々は、位の高い軍人を意味する装飾をつけている。
王都郊外の軍本部、その最奥に位置する一角。
軍の上層部および選抜された一握りの人間のみが立ち入ることを許される最上階は、ときに玉座よりも堅牢な防御を誇るとも言われる。
最高機密を取り扱い、不透明なプロセスで意思決定が為されることから、内部では「中枢」と、揶揄を含んだ呼び方をされている。
上昇志向の強い若者らはここに来ることを目指して切磋琢磨し、軍への忠誠を争って示し、やがて最高機密の正体を知ることになる。
ふと視線を感じて脇を見る。はっと息を飲んで、若い将校が顔を下に向けるところだった。思わず口の端に笑みを浮かべて、アルラスは前方に目を戻した。
まさか、ようやく目の当たりにした最高機密が、人の姿をしているとは予想できまい。
イーニルは更に驚きを隠そうとはしなかった。
彼女の名は、以前より中枢へ招聘する将校の候補として上がっていた。博物館の一件を受けて、正式決定が早まっただけのことである。
けれど本人にしてみれば寝耳に水の昇進話で、おまけに新たな配属先では見覚えのある男が我が物顔に振る舞っているときた。
イーニルはこわごわとこちらを見上げた。彼女が何か言うより早く口を開く。
「エルウィ・トートルエに関しても、続報は?」
「未だに足取りが掴めない状況が続いています。事件の翌日、取り調べのために邸宅へ向かったところ、昨晩は帰宅していないとの回答だったと」
ぎこちなく答えたイーニルに頷き、アルラスは顎を撫でた。
リンナの元婚約者が行方を眩ましているのが気がかりだった。
状況からして、エルウィは犯人の顔を見たと思われる。そのうえで、他の警備員同様に記憶を消されて眠らされるのではなく、消息を絶っている。
瞬きをすると、瞼の裏に瓦礫の写真が浮かび上がった。今日は例の復元された壁を確認するために本部まで来たのだ。
イーニルの案内で通路を歩いていると、ふいに前方の昇降機が音を立てる。
「それにしても、驚きました。まさか博物館の事件でお会いしたのが、軍の……」
「おお、閣下!」
イーニルが言いかけたところで、昇降機の扉が開き、快活な呼び声が響いた。
その姿に視線を移して、アルラスは息を飲む。
縦にも横にも大きな男が、その体格に似合った大音声で昇降機から降りてくるところだった。
豊かな赤みがかった茶髪をしており、同じ色の口ひげを蓄えた、骨太で四角い男である。腰に差した拳銃は優に五、六十年まえのヴィンテージで、実用性そっちのけの趣味の領域にある。
武器が好きなのだと以前に言っていた。その造形や機能のみならず、それが使われる場面に、非常に関心があるのだとか。
全くもってこの男は天職についている。
アルラスは咄嗟に笑顔を浮かべて「久しいな」と友好的に声をかけた。
「しばらくは砦に詰めていると聞いていたが――セラクト卿」
相手は軍の要人で、顔を合わせるのは初めてではない。それなのに、アルラスは思わず男の爪先から頭のてっぺんまでを二往復してしまった。
驚嘆する。……何をどうやったら、この大柄で粗雑な軍人から、呪術に傾倒する研究者が生まれるんだ?
国境線の北東部は、この国の防衛の要である。
その全域を取り仕切るこの男こそが、エディリンナの父親そのひとだった。
腹芸や策略という単語がまるで似合わない質で、良く言えば純粋、悪く言うと乱暴な男だ。頻繁に部下に頭を抱えさせる一方で、この勢いの良さが必要になる場面も多くある。
セラクト卿は弱り切った苦笑で頭を掻いた。
「いやはや、私の管轄内の国境線で魔獣の侵入を許したとあって、あれから二ヶ月以上も経ちますが、未だに風当たりが強いもので。中枢にも顔を出しづらいですな」
(……あれ?)
アルラスは意外な思いでセラクト卿に目線を向けた。彼と最後に顔を合わせたのは、リンナを迎える前のことである。てっきり、娘のことを話題に出すと思ったのだが。
怪訝な顔をするアルラスをよそに、男は笑顔で切り出す。
「して、閣下。あの報せはもうお聞きになりましたかね」
昇降機から一歩横にずれて、セラクト卿は口元に手を添えて囁いた。
ぴんとくる話題があった。低い声で問う。
「戦車が到着したか」
「はい」
男は目を輝かせて頷いた。
「隣国製の、最新鋭の技術を使った戦車です。この目で見ましたが、いやはや何とも大きく威容がある。まずは一台のみの供与ですが、実戦で有効性を確認できれば各戦地での一斉投入に向けて協力は惜しまないとのこと」
アルラスは一旦黙り込んだ。セラクト卿はすっかり乗り気である。
「あちらの提示している条件は」と訊いて返ってきた金額に、思わず舌打ちをした。……完全に足元を見られている。
アルラスの苛立ちに気づいて、「お気持ちは分かりますよ」と卿が言う。
「しかし、他に手段がないのです。事態の抜本的な解決のためには、ここで一度、完全に奴らを叩くしかありません」
そうしなければ、と、次にくる言葉は分かりきっていた。
「我々は永遠に、国境を囲むこの壁の中で生き続けるしかない」
次世代の子供たちには、開かれた国境線を見せてやりたい。セラクト卿の言葉はずんと重く響いた。
「しかし、その条件はあまりに不利が過ぎるんじゃないのか」
「肉を切らせて骨を断つ、ですよ」
セラクト卿は単に大きな戦車を振り回したいだけである。あまり真に受ける必要はない。アルラスは長嘆息する。
戦車の本格投入が決まればこちらは向こうの言い値を出すしかないうえ、交易が再開した暁には無茶な関税をかけようとする動きもある。
それでも……
(背に腹はかえられないのか)
アルラスは腰に手を当てて項垂れる。
ただでさえ国内では軍部に対する反発が強まっているというのに、軍備増強のために更なる予算を取ってくる? およそ現実的ではない。
けれど、なにか決定打となる戦略が必要なのは分かっていた。この戦況を一変させてしまうような、効果的ななにかが……。
そうでなければ、この国は衰退の一途を辿るだけである。
若いな、とふと思った。セラクト卿の目はきらきらと輝いており、自分の代で国境線を切り開くことができると確信している。
こうした、向こう見ずにも思える前向きさは好ましかった。
……向こう見ずといえば、だ。
「セラクト卿、貴殿のご息女に関してのことだが」
躊躇いがちに切り出すと、彼はきょとんとした顔をした。ややあってから、「ああ!」と手を打つ。
「エディリンナのことですか。娘がなにか?」
当惑するのは、今度はアルラスの方だった。
「彼女から何も聞いていないのか」
「はて? リンナからですか?」
背後に控えるイーニルが、怪訝な顔で耳をそばだてていることに気がつく。手振りで彼女を遠ざけると、アルラスは腕を組んでセラクト卿を凝視した。
「申し訳ない、もっと早く弁明すべきだったが……彼女を妻として迎えたという話だ、あれはだな、あくまで名目上の……」
「なんと!」
言い終わるより早く、セラクト卿は目を真ん丸にした。
「リンナを、閣下が!?」
「ああそうだ……聞いていなかったのか?」
思わず身を乗り出すが、セラクト卿は平然とした態度で「他の手紙に紛れて処分してしまったかもしれませんな」と答えた。
セラクト卿には、既に軍でもそれなりの地位にある長男と、年の離れた娘であるエディリンナの二人の子があるはずだ。
……たった一人の娘の結婚報告を、他の手紙と一緒くたに、捨てる?
粗雑もここまでくると酷すぎる。これではリンナがあまりに可哀想だ。
「セラクト卿」と、アルラスは叱りつける声を出した。
「貴殿が軍に大いに貢献してくれていることは重々把握している。しかし、家庭を顧みることなく働けと命じた記憶はないぞ」
セラクト卿は曖昧に微笑んだ。その表情をみたとき、初めてリンナに似ていると思った。
レイテーク城の自室の隠し部屋に、小型の転移装置が設置されている。軍本部と城を行き来するためだけに置かれ、アルラス以外の人間には使用できない代物だ。
装置の扉を開けて部屋を出ると、アルラスは大股で一つ下の階の角部屋へ向かった。
扉を叩くと、「はぁい」と返事がある。一声かけて部屋に入り、そこでアルラスは目を瞬いた。
室内にいるのはリンナだけではなかった。
「旦那さま」とレピテは慌てて立ち上がると、かしこまった姿勢で部屋の隅に控える。そんなに緊張しなくていいと苦笑しながら、アルラスはぐるりと部屋を見回した。
初雪からひと月ちかくが経ち、レイテーク城は冬の生活にすっかり対応していた。暖房で部屋は暖まり、窓には大粒の結露が筋になっている。
初めのうちはがらんとしていた部屋も、リンナが書庫から持ち込んだ資料などで生活感がある。
「なにかご用事ですか?」
リンナが腰を浮かせて微笑む。
つい数分前に見た、彼女の父の顔が浮かんだ。……似ても似つかない。
華奢で、小柄で、愛嬌がある。目が合うと、怪訝そうに小首を傾げた。
「閣下?」と、レピテの目を憚ってか小さな声で囁く。我に返って、アルラスは腕を組むと、さりげなさを装って切り出した。
「もうじき新年だろう。このままだと城には俺たちしか残らないことになるし、もし良ければ、君も里帰りをしたらどうかと思ってな。……お父上とは、いつから会っていないんだ?」
気楽な口調で告げたときの、リンナの表情の変化を的確に言い表す単語は、この二百年のうちには生まれなかった。
ものの数秒のうちに感情がめまぐるしく入れ替わったが、最終的に彼女の表情は遠慮に着地した。
「お父様はお忙しいですから、きっといらっしゃらないわ。ご迷惑をかけるわけにはいきません」
控えめに笑みを浮かべて、リンナは両手を体の前で絡ませた。
「兄家族が、王都にある別邸で生活しているんです。新年はお母様もそちらで過ごすことになっていて。もし構わないなら、そちらに少し顔を出しても?」
ああ、とアルラスは躊躇いがちに頷く。リンナの母とは面識があるし、兄についても身辺調査を行っている。どちらも軍属もしくは退役兵で、問題のない人間だ。
「すぐに手配しよう」と答えると、リンナはぱっと顔を輝かせた。
父の話題を出されたときとはまるで違う、明るくひたむきな表情だった。
レピテは距離を取ったまま、何となくにこにことしている様子である。普段より血色が良い気がして、思わず数秒視線を向けてしまう。
「今ね、レピテちゃんにお化粧をしてたんです」
言われて机の上を見てみると、細々とした化粧道具が広げられている。これは自分にはなかなか参加できない話題である。
いくつかやり取りをすると、アルラスはそそくさと退散した。レピテとは随分仲良くなったらしい。室内からは明るい笑い声が響いていた。
その声を聞きながら、扉の前に立ち尽くす。
リンナは快活で、大抵の場合愛想が良いし、世間話だってよくする。
けれど思い返してみれば、リンナが家族について話をしたことは、ほとんどなかった。
セラクト卿の態度がどうにも気にかかった。リンナのことを嫌っているような態度ではなかった。むしろの愛情のある口調だといってよい。
それなのに、違和感が拭えなかった。
愛する娘のことだったら、本来ならもっと、関心を持ってもいいはずじゃないか?
難しい顔で踵を返したところで、廊下の先に動くものを見つける。
入院を終え、湖向こうの獣医のもとから帰ってきたイニャが、重たげな足取りで近寄ってきていた。足元で立ち止まり、にゃんと声を上げる。
「おい、階段は上るなと言ったはずだぞ。まったく……」
イニャはここのところ、城内に張り巡らされた輸送網を利用して移動することを覚えてしまったらしい。今日は、洗濯物と一緒に籠に乗ってきたようだ。
「あとでレピテが悲鳴を上げながら毛を取り除くことになるんだからな。分かってるのか?」
声をかけて抱き上げ、アルラスは猫の首元に顔を寄せた。イニャが喉で音を立てる。
……獣医の見立てでは、イニャはそれほど長くないだろうということだった。
まるで嘘みたいだ。
ロガスが毎日丁寧にブラシをかけてやるから毛並みはつやつやとして、リンナが選んできた赤い首輪がよく似合う。食事中、家人のすねに順に身体を擦りつけて回り、甘えた声で転がってみせる。
それでも、こうして抱いてみると、細い骨の感触が手に残るのを否定できなかった。
イニャの病状については、獣医も驚いていた。
本来なら、ここまで進行する前に動けなくなるはずだ、と。
けれど一番驚いていたのは、完治の見込みのなかった深い傷が塞がっていることだった。
この不可解な現象の理由に考えを巡らせなかったといえば、嘘になる。
猫を抱いたまま窓辺に立って、アルラスは東に顔を向けた。
この国は一方を山に、残りの三方を壁に囲まれている。国土の西部にそびえる険しい山脈を背に回して、領土を囲むように結界が張り巡らされている。
魔獣の生息域と人の居住区を分けるための、巨大な砦である。
もっとも、壁といっても大半は簡易な柵でできている。結界を構成するための杭が並べられ、軍人が定期的な巡回を行っている。
結界に実体はないが、侵入も脱出もできない堅牢な仕組みである――万が一例外があれば、その情報は直ちに中央へ共有される。
局所的に防衛のための砦が築城されているのは、攻撃が激しい地点のみだ。この百数十年あまりのあいだ、目眩がするほどの予算を注ぎ込んで維持され続けている防衛拠点である。
そのうちのひとつが、東部戦線。セラクト卿の管轄だ。
毎年の予算会議にて恒例行事のように槍玉に挙げられ、世間からも不景気の元凶だと叩かれ放題の、大規模拠点のひとつだった。
砦は国家機密を背負う。その機密は、軍の抱える欺瞞と密接に関わり合う。
配属されるのは信頼のおける少数の優秀な人材のみである。そんな都合のいい人間がいつでも十分に調達できるわけではない。
おまけに、砦に人間を置きたくない理由はいくらでもあった。人の手を介さない防御や運営の実現は喫緊の問題だ。
――ここレイテーク城は、そのための実験場である。
アルラスは瞑目し、リンナがここへ来た日のことに思いを馳せた。……ねえ閣下、何をそんなに恐れているんです?
瞼を閉じると、いつだって暗闇の中に炎が見える。燃え盛る炎が、ひとの醜い本質を白日の下に暴き出すのだ。
二百年経っても消えない炎が、砦のむこうの城壁を舐めている。大波のように押し寄せ、遠ざかり、そして更に勢いを増して壁を壊そうとしている。
運命のあの日からこちら、鎮火と落城、どちらが早いかの根比べに終始する日々だった。その瀬戸際がもう目前に迫ってきているのを、肌で感じる。
そして、この国がどちらへ着地しようと、自分の行く先は変わらないのだ。




