025:記憶にも残らない 1
でこぼこした白い塊が額にぶつかって、リンナは大袈裟な笑い声を上げて倒れた。覚悟していたより柔らかいが、とても冷たい。
「ねえ! 顔はなしってさっき言ったはずだわ!」
頭を振って叫ぶと、手袋についた雪を払いながらアルラスが笑う。
「悪かった、狙いが外れたんだ」
そう言ってリンナを助け起こし、彼は鼻先を真っ赤にしたまま辺りを見回した。
昨晩のうちに、レイテーク城の全ての屋根は雪を被っていた。辺りも一面雪に包まれ、厚さは膝の高さを優に越える。
夜間の大雪が嘘のように、今朝は早くから真っ青な空が広がっていた。
すばらしい冬の幕開けだった。
「初雪がこんなに降るのなんて、三十年ぶりくらいだな……と、さっきロガスが言っていた」
雪を掻き分け掻き分け近づいてくるレピテに気がついて、アルラスは白々しく誤魔化す。
「旦那さま! お手紙が届いております」
雪で濡らさないよう高々と封筒を掲げて歩いてくると、レピテは湯気が出そうな頬で郵便物を手渡した。
レピテが切り開いた道を、食材の入った袋を両手に下げたヘレックがのろのろと歩いてくる。
「すごい雪だったから、多めに買い込んできました。街の方も雪かきでてんやわんやですね」
「活気があって楽しそうでしたね」
「あれは活気というか悲鳴だよ……」
食材の買い出しは主にレピテとヘレックが一緒に行っている。湖の向こうの旧都に契約している商人がいるとかで、質の良い野菜や肉を調達してくれるそうだ。
「悲鳴といえば、ヘレックさんがね、お店の前でつるんと転んじゃったんです。あんまり大きい声を出すもんだから、街の人たちがみんな集まってきちゃって」
「レピテちゃん、それ言わないってさっき舟で約束したよね、レピテちゃん」
あ、と口を開いて、レピテが照れ笑いを浮かべる。ヘレックは苦い顔で一礼すると、そそくさと食堂の方へ消えていった。
二人ともこの城に来て一年以上が経つそうで、いつ見ても兄妹のようなやり取りである。
笑顔で二人を見送ってから、リンナはよたよたとアルラスの隣に回り込み、手元を覗き込んだ。
「お手紙が来ることがあるんですね」
「たまにな」とアルラスは頷いて、封筒をひっくり返して送り主を確認する。
記載されていた役所の名前をリンナが読み上げると、彼は小声で「軍だ」と囁いた。その口元から白い息が立ち上る。
「イーニル少佐から、例の博物館の件についての報告だろう」
リンナは目を丸くしてアルラスを見上げる。調査の結果を後日送付してもらう約束になっていた。それがついに届いたのだ。
封筒には厚みがあり、厳重な封印もされている。
ぶるりと体を震わせると、アルラスは封筒を小脇に抱えてリンナを城の方へ促した。
「これからもっと寒くなる。もっと分厚い上着を買ってやろう」
「これで十分です。あんまり荷物を増やすのは……」
「君の衣裳部屋はそんなに手狭か?」
元来た道を戻りながら、いいえ、とリンナは自らの腕を抱きかかえた。
「君は初めも随分身軽な荷物だったな」
「そういう性分なの」
ブーツの雪を落としてから玄関の大扉を押し開ける。マットの上で上着や襟巻きを取って雪を払った。実家の周りではまず見ることはない。高揚感でふわふわとした気分だった。
「場所があるんだから、置いておけばいいんだ。ここは君の家じゃないか」
何気なくアルラスが告げる。リンナは無言で微笑んだ。
奥の方からロガスが猫を抱いて出てくる。イニャは喉を鳴らしながらこちらを見ていた。
今朝、誰より早く雪の上へ飛び出し、ものの数秒で引き返してからというもの、イニャはずっと被害者じみた顔つきでロガスに甘えていた。
「旦那様、庭の雪囲いは問題なさそうでしたか」
「ああ。応接室の角の鎧戸だけ、あとで直しておく」
城に人を入れたくないがあまり、アルラスはたまにほとんど用務員になる。本人も乗り気で城の修繕をしているのが面白い。
アルラスはイーニルからの報告書をさりげなく背中に隠し、リンナの腕を引いた。
「しばらく書庫にいるから、誰も近づかないようにしてくれ」
承知いたしましたとロガスは恭しく答えた。こういうときのロガスは察しが良い。
書庫に向かって歩きながら、自然と視線はアルラスの持つ封筒に吸い寄せられた。
あの事件から、もう二ヶ月ほどが経つ。その間、軍からの音沙汰は何一つなく、事件が報道に載ることも一切なかった。
書庫の机で、調書に目を通し始めて真っ先に、アルラスが眉をひそめた。
「犯人の人相書きはなしか」
博物館の警備員や学芸員、あわせて五名の証言をあわせた取り調べ結果である。
「酷いな。子どもという証言もあれば、年寄りもある」
見ろ、と手招きされて、リンナは並んで資料を覗き込んだ。
「犯人は全身を覆う白いマントを羽織っていて、小柄で白い髪だった……うーん」
小柄だと思った人は子どもだと証言して、白い髪を見た人は老人だと証言したのが内訳のようだ。
アルラスは時系列を指さした。
「まず、警備員のラコタ・エストルトが、バックヤード入り口で背後から襲われ、犯人の顔を見る前に気絶した」
リンナは添付されていた現場の間取りを脇に並べ、該当する地点を指し示す。
「続いて、保管庫の近くを巡回していた警備員エヴェントリ・シンによれば、犯人は仮面をつけていたと。揉み合いになり、眠らされる寸前にその仮面を破壊。近くを通りかかった学芸員のオストレ・アルヴェスとともに、白髪だったと証言している」
ふむ、とリンナは顎に手を当てた。
「つまり、そのあとに襲撃された被害者は犯人の顔を見た可能性があるんですね」
アルラスがページをめくり、息を飲む。
珍しく彼の表情には怯えがみえた。リンナは身を乗り出して資料に目を向ける。
その一文が目に入った瞬間、ひやりとしたものが胸を衝いた。
――学芸員エゼブとリーシャは、犯人の顔を目撃したものの、その詳細に関する記憶を喪失したと証言した。
アルラスは口元を押さえたまま、じっと報告書を睨む。リンナも身動きをとれず、耳の奥でどくどくと血が流れる音を聞いていた。
「リンナ」と、息混じりの声が呼ぶ。
「呪術というのは、人の記憶を操ることは可能なのか」
質問に答えず、窓の外の光を見た。白い雪が陽射しを反射して、上からも下からも輝くようだった。もうじきレピテが昼食に呼びにくる頃だ。
「可能です」
リンナはそれだけ答えた。なるほどと頷き、アルラスは腕を組んで中空を見上げる。
「……俺は一度だけ、呪術師の顔を見たことがある。兄に死の呪いを放った術師を取り押さえたときのことだ」
アルラスは淡々とした口調で当時のことを語った。
父が若くして病を得て、長子である兄が即位することになった。戴冠式はレイテーク城前の広場で行われ、都では三日三晩に渡って宴が催されるはずだった。
広場から溢れてしまった国民のなかには、周囲の山に登って戴冠式を見ようとする者もいたという。
「群衆の中から飛び出してきた人影があって、考えるより先に体が動いていた。あのとき俺は絶対にマントを引き剥がした」
だが、と彼は小さな声で続けた。
「覚えていないんだ」
「呪術師の顔を、ですか?」
頷いて、アルラスは目を伏せる。「目深に被っていたフードを下ろそうと、騎士が手を伸ばしたことは覚えている。俺が、その顔を見たことも、覚えている。直後に、呪術師が処刑されるところも、見た」
それなのに、どんな姿形をしていたのか、全く覚えていないのだ、とアルラスが呻く。
「その場にいた他の人間にも同じ現象が起きていた。だからあれは、あの呪術師が処刑の間際、最期に呪術で俺たちの記憶を消したんだろう。……今回と同じだ」
リンナは息を止めた。
あのとき追いかけた呪術師は、顔はおろか、肌ひとつ見せなかった。声も聞いていない。
「呪術師は、顔を見られてはならないの?」
誰も聞く者もいないのに、声は自然と小さくなっていた。さあとアルラスが囁き返す。
掴んだ、と思ったら、煙のように消えてしまった呪術師のことを思い出した。そのあと、ひとつ隣の橋に移っていた、白い立ち姿。
根拠も何もない。真っ当に考えれば、別人が同じ服を着て立っていたと思う方が自然だ。
にも関わらず、咄嗟に瞬間移動だと思ったのは、姿は見えなくても、背格好がよく似ていたからだろう。呪術師は確かに小柄だった。
アルラスは背もたれに体を預けて呟いた。
「……博物館を襲った呪術師は、どうして仮面をしていたんだ? どうせ記憶を消すなら不必要じゃないか」
「単純に、難しいんですよ。それに、記憶消去には重大な欠陥があります」
「欠陥」
濁したリンナに、アルラスは目敏く食いついた。合図され、リンナは渋々続ける。
「基本的には術者が呪いを解かないかぎり記憶は戻りませんが、ごくまれに、条件が揃うと記憶が蘇ってしまうんです」
たとえば、とリンナは指を三本たて、棒読みで呼びかけた。
「閣下のばーか」
「いきなり何だ」
案の定食ってかかってきたアルラスの鼻先に、三本指を突きつける。
「はい。さん、にぃ、いち」
数字を唱えながら指を一本ずつ折った。それから短く呪文を唱える。――『忘却』。
眉根を寄せていたアルラスの表情が、ふっと呆気に取られたように緩んだ。きょとんとして、リンナの顔と周囲を見比べる。
「……あれ? いま、君が何か言ったような気がするんだが」
煙に巻かれたような顔のアルラスの眼前に、再度手を伸ばす。指を三本立て、「さん、に、いち」と唱えて指を畳んでゆく。アルラスの焦点が指先に絞られる。
彼は何度か瞬きをした。
ややあって、アルラスは「なるほど」と腕を組んだ。
「試すにしても、もう少しマシな文言はなかったのか」
じろりと睨まれて、リンナは首を竦めて舌を出した。
アルラスは指を立てて折る動作を再現する。
「つまり、忘却の呪いをかけるときの、合図や目印になる動きがあるんだな? それがもう一度繰り返されると、記憶が戻ると」
「そうですね。でも、目印は何でも良いんです。術者が決めた特定の行動や現象だったり、特徴的な光景、合言葉だとか。要は、偶然そのトリガーと合致するものが再現されないことが大事なの」
たとえば、術者が手を叩く行動をトリガーにした場合、ことによっては人が拍手をするのを見ただけで記憶操作が解けてしまう可能性もある。
「通常の記憶喪失も、ふとしたきっかけで思い出すことがあるって言うでしょう。あれとおなじです」
なるほど、とアルラスは再度呟いた。何か思案するように黙り込む。
「記憶を消された側は、そのことを自覚できるのか」
「術者の腕次第だと思います。不自然なタイミングで記憶を操って違和感が残ったり、トリガーが曖昧なせいですぐ解けてしまったり」
視線が合う。「じゃあ君なら、」と言いかけて、リンナの目を覗き込み、そこで彼は微笑んだ。
「君は、私利私欲のために呪術を使うような人間じゃないからな」
あんまり素直な口調に、耳が熱くなった。「どうかしら」と思わず顔を背けると、アルラスはリンナの手首を緩く引いた。柔らかく、しかし腕を引いても離れない強さで。
「分かるよ。何ヶ月も一緒にいれば分かる」
彼はまっすぐに目を見つめてきた。あまりに疑いのない眼差しを向けられ、リンナの四肢は縫い止められたように動けなくなった。
「君は、呪術を使って人を傷つけるような人間ではない。この先も、君は自分の持つ技術を人々の幸福や利益のために使い続けると、俺はそう信じている」
確信的な口調の影に、縋るような響きが見え隠れする。リンナに念を押す一方で、自身にもそう言い聞かせているのだ。
寄せられた信頼に返すべき言葉を知らなかった。
リンナはぎこちない笑みで頷き、そっとアルラスの手を振りほどく。指は静かに離れた。
促されて、アルラスがページの隅に手を滑らせる。その拍子に親指の腹が切れたか、彼は顔をしかめて手を挙げた。
だから、嫌な顔で親指を眺めていたアルラスより数秒早く、その写真が見えた。
瓦礫を地面に並べて繋ぎ合わせ、上から撮影したものだった。
見覚えのある色の壁紙を、真っ赤な文字が横切っている。
博物館の爆発の際に壁に残された書き置きだと、すぐに分かった。瓦礫から再現され、全貌が明らかになったのだ。
(これは……)
まるで血のような色で記された二行。その内容に、リンナは当惑した。
「……見るな!」
目を疑い、もう一度読み直そうと思ったそのとき、アルラスが叫ぶ。
冊子を取り上げ、見せまいとするように机に叩きつけ、彼はそのまま呆然と立ち尽くした。
一瞬のうちに、彼の全身から汗が噴き出す。大声を出しておきながら、自分がいちばん驚いたような顔をしていた。
狼狽し、その顔から見る見るうちに色が失われる。触れるのも恐ろしいというように、報告書から手を離す。
「一体、だれが、こんな」
地面に伸びたロガスを見つけたときの狂乱とは質の違う取り乱し方だった。まるで亡霊でも目撃したかのようだ。
「閣下、どうし……」
「失礼します! 昼食の支度ができております!」
腰を浮かせたところで、レピテの明るい声が響いた。元気よく声をかけてから、彼女は異常な空気に気付いて首を傾げる。
リンナはすぐに笑顔で「今いくわ」と答えた。はいとレピテが立ち去るのを見送ってから、アルラスの背に手を添える。大丈夫か問いかけても、彼は首を縦に振るだけで、頑として事情を語ろうとはしなかった。
昼食の席でも、アルラスはただの一言も発さなかった。一口食べたところで、「う」と声を漏らして口を押さえる。
結局、彼はほとんど昼食を口に入れないまま、今にも吐きそうな顔色で退席してしまった。自身の味付けを疑うヘレックをレピテがなだめ、ロガスは心配そうにアルラスが立ち去った方向を見ている。
いつもどおりの美味しい昼食を食べながら、リンナの瞼の裏には先ほど見た写真がずっと踊っていた。
壁に記された、挑発的な一言が、目に焼き付いて離れない。
断頭台の上より皆様へ、
亡霊がご挨拶申し上げる。
「奥方さまも、大丈夫ですか? 顔色が悪いです」
レピテが心配顔で覗き込んできて、リンナは慌てて首を振った。
ヘレックに悪いので何とか完食したが、正直、あまり食事をする気分ではなかった。
メッセージの不気味さはもちろん、アルラスのあの反応が、否が応でもことの重大さを窺わせる。
食事を終え、リンナは足早にアルラスを探しに書庫へ戻った。予想通り、彼は書庫の机で壁を睨みつけていた。その背中から、剣呑な気配が放たれている。
驚かせないように音を出して扉を開け、わざと足音を立てて階段を降りた。
「閣下」
控えめに声をかけると、アルラスは顔を上げた。前方を見据えたまま、ああと呻き声で応える。
リンナは階段の手すりに手を置き、距離を取って立ち止まった。深呼吸すると、顎を上げ、勢いをつけて問いかける。
「……断頭台って、何のことです?」
アルラスは弾かれたように振り返った。譲る気のなさそうなリンナの顔を見咎めて、舌打ちをする。
「これは、君が関与するような話ではない」
「既に私は当事者です。それに、呪術師が事件に関わっているんだから、私にも助言できることがあるかもしれない」
アルラスはさらに疲れた顔になり、ため息をついた。天を仰いで眉間を揉み、また盛大なため息をつく。
「……外に出る。俺の上着を貸すから、ついてきなさい」
腹を括ったように額を叩くと、彼は弾みをつけて立ち上がった。
上着は貸してもらわなくても良かったが、それが条件らしい。目的地は野外のようだ。




