024:古城でのこと 9
酔っ払いはまともに歩けもしないようだったので、部屋の前まで手をひいてやる。が、扉を開けてやっても、部屋に入らない。業を煮やして、リンナは繋いだままの手を軽く揺すった。
「ねえ……」
「実は俺は酒を飲むとすべての記憶が飛ぶ体質なんだ」
突如、早口で宣言したアルラスに、リンナは片眉を上げた。
「な……なんですって?」
「つまりだな、俺は、明日の朝になったら何も覚えていない訳だ」
歩いているうちに正気になったとみた。リンナは手を振りほどくと、半目になって腕を組んだ。
「酔いが覚めたんですね?」
「酔ってる。どう見ても前後不覚だろう」
「どう見てもピンピンですよ。嘘つかないでください」
「嘘じゃない。いま使っている万年筆を賭けてもいい。高級品だ」
「『値段の割に質が悪い』って悪態ついてたやつですか?」
「いちいち記憶力が良い……」
不満げにアルラスがため息をついた。
少し待ってろ、と彼は扉を開けたまま部屋に入った。
ひとりで廊下に取り残されると、途端に寒さが押し寄せてくる。両手をポケットに突っ込んで足踏みしていると、鼻先に強力な光源が突きつけられる。
「わ、まぶしい!」
「そんなか……?」
悲鳴を上げて両手で顔を覆ったリンナに、アルラスが怪訝そうな声になった。
いえ、と応えて、リンナは慌ててこめかみを指で叩く。暗視の呪術がかかったままだった。
気を取り直して見てみると、アルラスが持ってきたのは古めかしい作りの角灯だった。持ち手が付いていて、ガラスの中では小さな炎があかあかと揺れている。
「暗くて足元も見えないだろう。部屋までこれを持っていきなさい。下のつまみをひねれば消せる」
「あ、ありがとうございます……」
角灯を受け取った瞬間、油のにおいと温かさがリンナを包み込んだ。冷えきっていた手をかざして、息を吐く。
「と、いうわけで」
ぽんと肩に手を置かれて、リンナは顔を上げた。目と鼻の先にアルラスの顔がある。やけに真剣な顔である。
「俺は酒で普段なら言わないようなことを言っていただけだし、明日になったら本当に何も覚えていないから、そういうことで頼むぞ。ロガスにも言うなよ」
「そんな嘘の言い訳しなくたって、言いませっ……」
呆れ顔で反駁する声が、途中で立ち消えた。アルラスが身を乗り出したからだった。
焦点が合わないほどに顔が近づく。片手で前髪を持ち上げられる。
「……ありがとう。君と出会ってから毎日が楽しいよ」
額に温かいものが触れて、体が動かなくなった。何かの呪いかと思ったが、違うらしい。
「閣下、」
「無理に遠ざけなくていいんだろう」
何が起こったのか分からないまま、リンナは呆然とアルラスの顔を見上げた。彼は目元を赤く染めつつ、挑戦的に微笑んでいた。
「おやすみ」
頭をひと撫でされて、手が離れてゆく。一言も発せないまま、扉は静かに閉じてしまった。
リンナは額を押さえて立ち尽くした。
普段のアルラスが、こんなことをするはずがない。だから、彼はよっぽど酒に酔っているわけで、つまりは、
「やっぱり、私も明日なにひとつ覚えてない、かも……」
よろめきながら自室を目指す廊下を、角灯の小さな光が照らしていた。
目覚めると、想定より一時間は遅い。久しぶりに随分な寝坊をしてしまった。
(変な夢みた……)
アルラスが歯の浮くような台詞をのべつまくなしに語っている夢だった。思い出すだに鳥肌が立つ。
……もしかしたら、昨晩のことも、実は自分の見た夢かもしれない。
のそのそと身支度をして、リンナは食堂に下りてゆく。
あくびを噛み殺しながら扉を開けようとして、中の会話が漏れ聞こえた。
そっと覗き込むと、アルラスとロガスの親子が向かい合って座っていた。ひと晩明けて、ロガスに転落の後遺症はなさそうだ。
「――この猫についてだが」
アルラスの声は何気ないようだったが、その端々に緊張感が滲んでいた。
ええ、とロガスが硬い声で応える。リンナまでつられて固唾を飲んで身構えるなか、アルラスはさらりと告げた。
「名前はもう決めたのか」
「は?」
ロガスの口から調子外れな相槌が零れる。リンナは思わず噴き出さんばかりだった。
「はて、今朝の食事に何か変なものでも入っていましたか」
「茶化すな。決めたのか、決めてないのか答えなさい」
「決めておりませんが……どういった風の吹き回しですか?」
「拾ってしまった命には、責任が生じるという話だ。最期まで見届ける覚悟も含めてな」
アルラスの宣言は、取って付けたように頑なな口調だった。
暖房の前で丸まっている猫を見やる、ロガスの口元に、ゆっくりと笑みが浮かぶ。
「ナァナ、はどうでしょう」
「随分古風だな」
アルラスは頬杖をついて頷いた。なにか考え事をしているような顔だった。
「父さんが若いときに流行っていた女の子の名前だと本で読みました」
「そうだ、至る所にいた。馴染みがありすぎて、猫の名前ではないかもしれん」
ロガスが苦笑する。予想はしていたようだ。
「では、イニャ」
「昔の言葉でそのまま『猫』じゃないか」
「分かりやすくて良いでしょう」
アルラスが笑い出す。空気が緩んだのを確かめてから、リンナは勢いよく扉を開けた。
「おはようございます!」
ロガスは目を丸くして、それから「おはようございます」と笑顔で応えた。
リンナの表情から何か合点がいったのか、ロガスは茶目っ気たっぷりに目配せをした。それにウインクで返して、それから、アルラスはどんな顔をしているだろうと目を向ける。
「おはようございます、つい寝坊しちゃった……」
何でもないような顔をしていたアルラスと、視線が重なる。
瞬間、アルラスは耳まで真っ赤になって顔を背けた。
「ちょっと!」
瞬発的に大声が出ていた。ずかずかと大股で歩み寄り、鼻先に人差し指を突きつける。
「何も覚えてないって言ってましたよね!?」
「なんのことだか……」
どう見たって全部覚えている顔である。両手を胸の高さで掲げながら、アルラスは小刻みに首を振っている。
睨みつけている間に、こちらまでうっかり耳が赤くなってくる。とてもではないが顔を見られる気がしない。
「本当に何も覚えてない。……ほんとだ」
アルラスは否定するが、その目は部屋の四方八方を泳いでいる。
もう、とリンナはその場で地団駄を踏んだ。
「春までに、お花屋さん! 手配してくださいね!」
「もちろん。五百人くらい呼ぶ」
「多過ぎ! 自分ちの庭が地の果てまで続いてると思ってる?」
やいのやいのと言い合っているうちに、ロガスはくつくつと笑いだし、ついには天を仰いで高笑いする。
涙を拭い、なんとか息を落ち着かせようと自分で胸をさするロガスに、アルラスが眉を上げた。
「何でしたっけ――出会ったその瞬間に運命的なものを感じて、その日のうちに求婚……でしたっけ?」
苦しそうに息継ぎをしながら、ロガスの目には悪童めいた光が宿る。
「そうだが」とアルラスは途端に強気になってリンナの肩を抱いた。リンナもすぐさま真剣な表情で頷いてみせる。
それでますますロガスは声も出ないほどの引き笑いに陥ってしまう。
「分かりました、分かりました。ではそういうことにしておきましょう」
ずいぶん時間をかけて落ち着くと、彼はゆっくりと息を吐いて微笑んだ。
「『そういうこと』じゃなくて、『そう』なんだぞ」とアルラスがすかさず茶々を入れるが、ロガスは黙殺した。
「リンナさん」と手を差し出され、リンナはてらいなくその手を握り返した。
「改めてにはなりますが、どうぞ、父をよろしくお願いいたします」
しっかりと頷いて、ロガスを見つめる。
憑き物が落ちたように晴れ晴れとした表情だった。肩の荷が下りたような安堵が窺えた。
「イニャ」
アルラスは籠に近づいてかがみ込んだ。黒猫は呼びかけにぴくりと耳の先を動かしただけで、顔を上げもしなかった。
イニャの容態はどうも思わしくないようだ。傷口が膿んで、体力も奪われているらしい。
「頑張れ、イニャ」
猫に向かって語りかけながら、彼の呼びかけはもっと広い対象に向けられていた。溢れんばかりの慈しみがあった。
「一秒でも長く生きるんだ。いいな」
猫は頭をもたげて、朝の光のなかで一声鳴いた。
アルラスが顔全体で笑って応える。その声を聞きながら、リンナは目を細めた。
next→ 4章 記憶にも残らない
 




